朱齢石の征蜀
晋慕容白曜について調べていると関連キーワードとして朱齢石の名前が出てきた。なんでも譙蜀(後蜀:五代十国のそれと区別したいので)を攻め滅ぼした名将であるという。譙蜀の滅亡は劉裕の功績としか認識していなかったので、資治通鑑に当たってみた。年は西暦だが、月は旧歴に従う。 資治通鑑抄訳(412年11月~413年7月) 412年11月、東晋の太尉である劉裕は蜀の征伐を謀ったが、元帥の人選は難航していた。西陽太守の朱齢石は武の業前を備え、官吏としての職務にも熟練していることから、彼を用いようと思った。...慕容白曜の攻宋
南北朝山東半島が南朝劉宋に属している地図をよく見る。これは劉裕による南燕征服の成果を反映したものである。ところが、斉や梁の頃になると山東半島は北魏の版図となっている。西暦450年における拓跋燾南伐の影響と考えていたが、実際には慕容白曜の業績だったことを最近知った。資治通鑑において、慕容白曜に関する記事は巻132(467-470年)に集中しているため、読んでみることにした。年は西暦だが、月は旧歴に従う。 事前知識として、当時の背景を簡単に説明する。464年、劉駿(宋の孝武帝)に代わる皇帝として長男...楽毅論 夏侯玄は中華史上の英雄をどう評したか
三国志楽毅論は三国魏の夏侯玄が著し、戦国燕の将軍として著名な楽毅を改めて称揚したものである。夏侯玄は当時を代表する名士であり、オピニオンリーダーでもあったが、司馬師との対立により刑死した。 楽毅論は専ら書道において話題となることが多い。東晋の書聖である王羲之が楽毅論を書の題材とし、真筆は失われたものの、その書跡は楷書の模範として現在まで尊重されているからだ。六朝から唐にかけて、双鉤填墨という書跡を写し取る手法がしきりに行われた。真筆の上に薄い紙を置いて輪郭だけを線でなぞり(双鉤)...洛神賦 曹植が詠んだ女神との悲恋
三国志洛神賦は西暦223年(一説には222年)に三国魏の曹植が詠んだ賦である。 文選収載ということで自宅にあった岩波の「文選・詩篇」を当たってみたが収載されていなかった。賦は厳密な意味での詩と区別されている。詩は「詩経」を起源とし、賦は「楚辞」を起源とする。孫久富 「賦と長歌の比較」によると、賦は散文と詩の特徴を併せ持つ韻文と大まかに分類されるが、詩と比較した賦の特徴として次のようなものが挙がる。 ・韻律の定まらない傾向がある・句数など形式の多様性が認められる・長文となる傾向がある・詩...西晋はいかにして匈奴漢の前に滅び去ったか (長文の資治通鑑抄訳)
晋西晋と匈奴漢との戦役を資治通鑑で追ってみることにした。当初の動機は、八王の乱を制した司馬越が匈奴漢の脅威にどう対処したのか確認してみたくなったからだが、果たして。長文すぎて通読が厳しい記事になっている。年は西暦だが、月は旧歴とする。 資治通鑑抄訳 304年8月~316年11月 304年8月、かつて皇太弟の司馬穎は上表し、匈奴の左賢王である劉淵を冠軍将軍・監五部軍事(曹操が南匈奴を左・右・南・北・中の五部に分けた)に抜擢し、兵とともに鄴(河北省邯鄲市臨漳県の周辺)に駐屯させていた。劉淵の子...姓から中華支配の変遷を考える
総論神農(中国では炎帝呼びの方がメジャーなようだ、黄帝とも対置しやすい)の姓が姜であることを最近知った。色々想像が膨らんだので記事を書くことにした。 国姓(君主の姓)の変遷 有巣氏姓は不明。 燧人・伏羲・女媧姓は風。 炎帝(神農)姓は姜。国姓の変化は、伏羲から神農の間で支配層の断絶があることを示唆する。姜水(黄河の重要な支流である渭水の支流とされる)で生まれたため、姜姓になったとされる。姜姓を羌族起源とする説がある。子孫に祝融・共工・蚩尤らが居り、しばしば異形の神とされるが、後に...孫権の皇帝即位には道理がある
三国志孫権の皇帝即位になんの根拠も無いとする見解をしばしば見かけるため、記事を書くことにした。陳寿はなぜ「魏志」や「魏蜀志」でなく「三国志」にしたのか、その意図を読み取れていないからだ。田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」をまず読んでほしい。 221年、皇帝に即位したばかりの曹丕は、臣従していた孫権に対し、気前よく九錫(皇帝と同等の待遇を意味する9つの特典)を与えた。この時点で九錫を受けた前例は王莽と曹操しかない、この点が極めて重要である。劉氏による両漢王朝は約400年の歴史を持つ。曹魏...曹操にとって、劉備はどれほど重要な存在だったか
三国志曹操から見た劉備にフォーカスし、三国志を引用しながら適当に放論してみる。 ・布請曰「明公所患不過於布、今已服矣、天下不足憂。明公将步、令布将騎、則天下不足定也」太祖有疑色。劉備進曰「明公不見布之事丁建陽及董太師乎」太祖頷之(呂布伝)曹操が歩兵を率いて、呂布が騎兵を率いる。降伏した呂布による提案は、人材マニアの曹操から見て大変魅力的だった。曹操が得意とした兵科は歩兵だった。孫子は曹操の愛読書として知られるが、軍の運用については歩兵ベースで議論されている。并州五原郡九原県(内モ...褚蒜子と司馬昱 東晋の前期と中期を結ぶミッシングリンク
晋金民壽 「桓温から謝安に至る東晋中期の政治」を読んだことが、記事作成のきっかけとなった。東晋中期の政治は未発掘の部分が多いと感じる。そして、だからこそ挑戦しがいのあるテーマだとも思う。 東晋を代表する名族として、琅邪王氏と陳郡謝氏の2氏族がよく挙げられる。しかしながら、これは東晋をより高い解像度で理解する妨げとなる。東晋の前期を主導したのは琅邪王氏と潁川庾氏であり、東晋中期の主役は譙郡桓氏と陳郡謝氏だからである。前述の2氏族のみにフォーカスすることは、東晋の実像を歪めることに...秦嶺淮河線 中華の分水嶺
総論秦嶺淮河線とは、中華における年間降水量1000mmのラインを指す。これがちょうど秦嶺山脈と淮水(黄河以外を河と表記することは個人的に抵抗がある)を結ぶ線に一致することからそう呼ばれる。中国語読みを踏まえてチンリン・ホワイ線と表記することもある。ちなみに英語表記はQinling-Huaihe Lineである。北緯にするとおよそ33度に相当する。 秦嶺淮河線の北側では気候が乾燥した寡雨地帯であるのに対し、南側は適雨ないし多雨の国土が拡がっている。また、この線の北では1月の平均気温が氷点下となり、しばしば川...