苻堅に対する四公の乱(資治通鑑抄訳)
五胡十六国
四公の乱は、晋公の苻柳・趙公の苻雙(双)・魏公の苻庾・燕公の苻武という4人の宗室が苻堅に対して反乱を起こした出来事であり、西暦367年から1年余り続いた。比較的マイナーと思われるが、苻堅政権について分析を試みる上で欠かすことのできない事件であり、ここにフォーカスした論文もある(小野響 「前秦苻堅政権論序説」)。苻生からの簒奪に続いて何が起こったか確認してみることにした。苻騰の乱(364年)、および苻幼の乱(365年)も、全体の流れを把握する上で必要と考え、訳出した。 実を言うと今回の...苻堅による前秦の簒奪(長文の資治通鑑抄訳)
五胡十六国
五胡十六国時代に華北を統一し、中華統一にあと一歩のところまで迫った苻堅。彼の動きは淝水の戦いを中心にクローズアップされがちだが、今回は彼が前秦の君主となるまでを追ってみた。 苻堅は民族融和の理想を追い求めた仁徳の君と称されるが、実際のところそんな大層なものじゃないと思っている。苻生から簒奪を行った結果、前秦の権力基盤であった者達との断絶が生じ、支持層を新たに開拓する必要があったから慕容垂・姚萇らを重用しただけなのではないか。実際のところはどうだったろう。 長文であ...吐谷渾 五胡の最長政権
総論
遼東の鮮卑に渡河渉帰がいた。若洛廆が跡を継いで部族長となり、慕容氏に改めた。慕容廆には妾腹の兄がおり、それが吐谷渾であった。吐谷渾は父渉帰から部民1700家(左記は晋書による、魏書・北史では700戸)が割り当てられていた。慕容廆と吐谷渾の馬同士が争ったことにより、吐谷渾は中国の東北部から西へ向かった。西晋の混乱により吐谷渾の部民はさらに西へ向かい、結果的に西方の羌や氐を従えつつ青海地方に根を下ろした。700もしくは1700世帯という少数でありながら、支配階級となりえたのは彼らが騎馬民族...宇文護執政期(長文の資治通鑑抄訳)
南北朝
宇文護に関しては、宇文泰の傍系でありながら北周を専権し、皇帝を2人殺し、にもかかわらず北斉や南朝陳相手に目立った軍功が無い、とマイナスイメージが付随しがちである。その宇文護に注目した動機は4つある。1つめ、宇文泰の英邁は南北朝最高と評するべきだが、爾朱栄と同様に一代限りの権勢で終わってもおかしくなかった。それを北周王朝という宇文氏世襲に移行させたのは宇文護でないか、という動機。2つめ、北斉への逆転勝利については宇文邕(北周の武帝)の功績が注目されがちだが、宇文護による地道な国...地理的な意味での陰と陽
総論
陰と陽の字を含む地名がしばしばみられる。日本では山陽・山陰が最も馴染み深いだろう。ご存知の通り中国山地の南が山陽であり、北が山陰となっている。これを敷衍して陽=南、陰=北と一般化しているケースがあるようで、その場合中国の地理を読み解く上で不都合を生じる。川の場合、山とは逆に陽=北、陰=南となるからである。これは実際の地形をイメージすると分かりやすいように思う。 山山山山山山山山山山 北山山山山山山山山山山 可住地①川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川 可住地②山山山山山...朱齢石の征蜀
晋
慕容白曜について調べていると関連キーワードとして朱齢石の名前が出てきた。なんでも譙蜀(後蜀:五代十国のそれと区別したいので)を攻め滅ぼした名将であるという。譙蜀の滅亡は劉裕の功績としか認識していなかったので、資治通鑑に当たってみた。年は西暦だが、月は旧歴に従う。 資治通鑑抄訳(412年11月~413年7月) 412年11月、東晋の太尉である劉裕は蜀の征伐を謀ったが、元帥の人選は難航していた。西陽太守の朱齢石は武の業前を備え、官吏としての職務にも熟練していることから、彼を用いようと思った。...慕容白曜の攻宋
南北朝
山東半島が南朝劉宋に属している地図をよく見る。これは劉裕による南燕征服の成果を反映したものである。ところが、斉や梁の頃になると山東半島は北魏の版図となっている。西暦450年における拓跋燾南伐の影響と考えていたが、実際には慕容白曜の業績だったことを最近知った。資治通鑑において、慕容白曜に関する記事は巻132(467-470年)に集中しているため、読んでみることにした。年は西暦だが、月は旧歴に従う。 事前知識として、当時の背景を簡単に説明する。464年、劉駿(宋の孝武帝)に代わる皇帝として長男...楽毅論 夏侯玄は中華史上の英雄をどう評したか
三国志
楽毅論は三国魏の夏侯玄が著し、戦国燕の将軍として著名な楽毅を改めて称揚したものである。夏侯玄は当時を代表する名士であり、オピニオンリーダーでもあったが、司馬師との対立により刑死した。 楽毅論は専ら書道において話題となることが多い。東晋の書聖である王羲之が楽毅論を書の題材とし、真筆は失われたものの、その書跡は楷書の模範として現在まで尊重されているからだ。六朝から唐にかけて、双鉤填墨という書跡を写し取る手法がしきりに行われた。真筆の上に薄い紙を置いて輪郭だけを線でなぞり(双鉤)...洛神賦 曹植が詠んだ女神との悲恋
三国志
洛神賦は西暦223年(一説には222年)に三国魏の曹植が詠んだ賦である。 文選収載ということで自宅にあった岩波の「文選・詩篇」を当たってみたが収載されていなかった。賦は厳密な意味での詩と区別されている。詩は「詩経」を起源とし、賦は「楚辞」を起源とする。孫久富 「賦と長歌の比較」によると、賦は散文と詩の特徴を併せ持つ韻文と大まかに分類されるが、詩と比較した賦の特徴として次のようなものが挙がる。 ・韻律の定まらない傾向がある・句数など形式の多様性が認められる・長文となる傾向がある・詩...西晋はいかにして匈奴漢の前に滅び去ったか (長文の資治通鑑抄訳)
晋
西晋と匈奴漢との戦役を資治通鑑で追ってみることにした。当初の動機は、八王の乱を制した司馬越が匈奴漢の脅威にどう対処したのか確認してみたくなったからだが、果たして。長文すぎて通読が厳しい記事になっている。年は西暦だが、月は旧歴とする。 資治通鑑抄訳 304年8月~316年11月 304年8月、かつて皇太弟の司馬穎は上表し、匈奴の左賢王である劉淵を冠軍将軍・監五部軍事(曹操が南匈奴を左・右・南・北・中の五部に分けた)に抜擢し、兵とともに鄴(河北省邯鄲市臨漳県の周辺)に駐屯させていた。劉淵の子...