総論– category –
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節度使から読み解く安史の乱・五代十国
総論
魏晋南北朝から外れるが、地理への興味をベースに置くと面白い題材なので取り上げることにした。半ば予想しながら調べ始めたが、「全員、節度使」と言いたくなるような実情に思わず笑ってしまった。 節度使とは節度は古来より、出征する将軍に対して、君主が自らの代行者であることを示すしるしとして下賜したものであった。それを語源とする節度使は、外民族の侵入を警備する辺境守備隊の司令官として発生し、まず以下の10節度使が設けられた(天宝十節度使)。河西節度使:710年に初めて設けられた節度使、甘粛... -
吐谷渾 五胡の最長政権
総論
遼東の鮮卑に渡河渉帰がいた。若洛廆が跡を継いで部族長となり、慕容氏に改めた。慕容廆には妾腹の兄がおり、それが吐谷渾であった。吐谷渾は父渉帰から部民1700家(左記は晋書による、魏書・北史では700戸)が割り当てられていた。慕容廆と吐谷渾の馬同士が争ったことにより、吐谷渾は中国の東北部から西へ向かった。西晋の混乱により吐谷渾の部民はさらに西へ向かい、結果的に西方の羌や氐を従えつつ青海地方に根を下ろした。700もしくは1700世帯という少数でありながら、支配階級となりえたのは彼らが騎馬民族... -
地理的な意味での陰と陽
総論
陰と陽の字を含む地名がしばしばみられる。日本では山陽・山陰が最も馴染み深いだろう。ご存知の通り中国山地の南が山陽であり、北が山陰となっている。これを敷衍して陽=南、陰=北と一般化しているケースがあるようで、その場合中国の地理を読み解く上で不都合を生じる。川の場合、山とは逆に陽=北、陰=南となるからである。これは実際の地形をイメージすると分かりやすいように思う。 山山山山山山山山山山 北山山山山山山山山山山 可住地①川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川 可住地②山山山山山... -
姓から中華支配の変遷を考える
総論
神農(中国では炎帝呼びの方がメジャーなようだ、黄帝とも対置しやすい)の姓が姜であることを最近知った。色々想像が膨らんだので記事を書くことにした。 国姓(君主の姓)の変遷 有巣氏姓は不明。 燧人・伏羲・女媧姓は風。 炎帝(神農)姓は姜。国姓の変化は、伏羲から神農の間で支配層の断絶があることを示唆する。姜水(黄河の重要な支流である渭水の支流とされる)で生まれたため、姜姓になったとされる。姜姓を羌族起源とする説がある。子孫に祝融・共工・蚩尤らが居り、しばしば異形の神とされるが、後に... -
秦嶺淮河線 中華の分水嶺
総論
秦嶺淮河線とは、中華における年間降水量1000mmのラインを指す。これがちょうど秦嶺山脈と淮水(黄河以外を河と表記することは個人的に抵抗がある)を結ぶ線に一致することからそう呼ばれる。中国語読みを踏まえてチンリン・ホワイ線と表記することもある。ちなみに英語表記はQinling-Huaihe Lineである。北緯にするとおよそ33度に相当する。 秦嶺淮河線の北側では気候が乾燥した寡雨地帯であるのに対し、南側は適雨ないし多雨の国土が拡がっている。また、この線の北では1月の平均気温が氷点下となり、しばしば川... -
突厥 南北朝以後に中華の命運を大きく左右した遊牧民族
総論
突厥はテュルク系民族で、遡ると五胡十六国で河南周囲に割拠(翟魏)した丁零に行き着くとされる。当初は柔然の支配下で鍛鉄に従事したが、柔然が北魏や高車(テュルク系遊牧民族)と対立するなかで、密かに力を蓄えていた。 突厥の有力者だった土門は柔然から妻を迎えようとしたが、柔然は身分の違いを主張して拒否した。そのため、土門は西魏から妻を迎えて後ろ盾とした上で柔然を攻撃した。柔然は突厥に敗れて北斉に逃げ込み、土門は可汗(北方でのリーダー)を襲名した。北方の主役交代を告げる革命的イベント... -
中華の流通を支えた貨幣と度量衡について
総論
貨幣総論貨幣には3つの機能がある。 1.交換機能(決済機能)米を持っている人が魚を欲しくなったとする。物々交換では、魚が余っていて尚且つ米が欲しい人の中からマッチング先を探さなければならない。貨幣経済では、とりあえず米が欲しい人の中から広く交換先を探して貨幣を得た後、魚が余っている人の中から広く交換先を探し貨幣を渡して魚を得る。2段階のマッチングを要するものの、実はこちらの方がはるかに目的を達しやすい。 2.価値の尺度機能米と引き換えで魚を得る例のまま続ける。物々交換では、マッ... -
魏晋南北朝史の文献を巡る現状
総論
・正史全訳まずは正史全訳の通読が基本になる。中国正史の訳出状況について、国立国会図書館でまとめられている。https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/asia/post_73 史記、漢書、三国志については、価格や入手難易度などから筑摩のものが標準的なテキストになっている。後漢書について、岩波と汲古書院のものとどちらを優先すべきか悩ましい。最近出版されている早稲田文庫のシリーズで全訳が揃うかどうかに注目している。史記、漢書、後漢書、三国志以外の正史全訳は無い。つまり、魏晋南北朝に関わる正史は、ほと... -
魏晋南北朝では、封禅が行われていない
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封禅(ほうぜん)とは、中国の帝王が政治上の成功を天地に報告する国家的な祭典である。泰山(山東省泰安市にある標高1,545mの山)の山上に祭壇を作り、天に対してまつりを行う「封」、泰山の麓にある小山を払い清め、地に対してまつりを行う「禅」、この二つの祭祀を組み合わせることで封禅が成立する。伝説上は三皇五帝以来とされるが、史実だと趙政(秦の始皇帝)によって行われたものが最初である。彼の事績からすると、封禅に不死を祈願する性質があったことにも注目すべきであろう。 趙政の創始した仕組みの... -
皇帝という称号が決まるまで
総論
史記によると、秦王の趙政が中華を統一した際に、それまでの「王」や、かつて用いられた上位称号「帝」に飽き足らず、新たな称号を志望した。群臣は三皇(※)のうち「泰皇」が最上位であるとして薦めたが、趙政はそれを却下し、新たに「皇帝」の称号を作った。 ※三皇の内訳について史記の秦始皇本紀において、天皇・地皇・泰皇としている。泰皇の代わりに人皇を入れることもあるが、この両者を同一視していいか未確定である。別に女媧・伏羲・神農を三皇とする説が有名で、他にも諸説ある。 疑問点は泰皇を三皇の...
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