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突厥 南北朝以後に中華の命運を大きく左右した遊牧民族
突厥はテュルク系民族で、遡ると五胡十六国で河南周囲に割拠(翟魏)した丁零に行き着くとされる。当初は柔然の支配下で鍛鉄に従事したが、柔然が北魏や高車(テュルク系遊牧民族)と対立するなかで、密かに力を蓄えていた。 突厥の有力者だった土門は柔然から妻を迎えようとしたが、柔然は身分の違いを主張して拒否した。そのため、土門は西魏から妻を迎えて後ろ盾とした上で柔然を攻撃した。柔然は突厥に敗れて北斉に逃げ込み、土門は可汗(北方でのリーダー)を襲名した。北方の主役交代を告げる革命的イベント... -
詳述 二宮の変
二宮の変。中国では二宮之争もしくは南魯党争の名称が一般的なようだ。三国時代に孫呉で起こった宮廷闘争である。多くの人が三国志に無関心となる諸葛亮死後の出来事であり、更にドロドロの内紛なので興味を惹かれる人は少ないようだ。私自身も大まかなところしか知らなかったため、資治通鑑を紐解いてみた。長文である。魏や蜀漢の重大イベントにも興味はあったが、約10年の長丁場なので省略した。呉の戦役についても簡略にとどめた。年は西暦だが、月は旧歴とする。 241年5月、呉の太子である孫登が死んだ。 242... -
拓跋燾南伐 西暦450年における南北朝の重大局面
西暦450年は、北魏および南朝劉宋の両者にとって極めて重大な局面だったと思うのだが、あまり注目されていない印象がある。今回、資治通鑑で何が起きたかを実際に確認することとした。長文である。年は西暦だが、月は旧暦とする。 448年8月、平城(北魏の首都、山西省大同市)から1万里以上離れた西域の般悦国(中央アジアのテュルク系遊牧国家、北匈奴の末裔で後世のエフタルとされる)が北魏に遣使し、柔然を東西から挟撃することを請うた。拓跋燾(北魏の世祖・太武帝)はこれを許可し、国内外に戒厳令を発した... -
西魏の軍制について 八柱国・十二大将軍は虚構だったのか
前島佳孝 「西魏の統治領域区分についての補論」で感得するところが多く、記事を書くことにした。 周書 巻16列伝第8によると西魏では、爾朱栄以後に最高指導者の称号となった柱国大将軍に至った者が8名居り、八柱国と呼ばれている。メンバーは、宇文泰(のちの北周太祖)・李虎(唐高祖李淵の祖父、のちの唐太祖)・元欣・李弼・独狐信・趙貴・于謹(於謹)・侯莫陳崇である。 柱国大将軍の下位に位置付けられた大将軍(かつて武官の頂点を意味した)には12人が任じられ、十二大将軍と呼ばれている。メンバーは... -
英雄達に抵抗した氐族苻氏 後編 姚萇と苻登
淝水の戦いで前秦が崩壊した後、華北を牽引したのは慕容垂と姚萇である。だが、彼ら2人の前には氐族苻氏が立ちふさがった。五胡を代表する英雄達を前に、華北の主導権を失った苻氏はどのように抵抗したのだろうか。資治通鑑で時系列を追ってみることにした。後編は姚萇に対する苻登の抵抗を取り上げる。前秦・後秦に関わる記述を主に抜粋したが、東晋・北魏・後燕など天下の趨勢に関わる記述も適宜取り上げている。長文となった。年は西暦に置き換えたが、月は旧暦のままとする。 386年10月、前秦の南安王である苻... -
英雄達に抵抗した氐族苻氏 前編 慕容垂と苻丕
淝水の戦いで前秦が崩壊した後、華北を牽引したのは慕容垂と姚萇である。だが、彼ら2人の前には氐族苻氏が立ちふさがった。五胡を代表する英雄達を前に、華北の主導権を失った苻氏はどのように抵抗したのだろうか。資治通鑑で時系列を追ってみることにした。前編は慕容垂に対する苻丕の抵抗を取り上げる。前秦・後燕に関わる記述を主に抜粋したが、翟魏・西燕など周辺勢力の記述、東晋・北魏など天下の趨勢に関わる記述も適宜取り上げている。長文となった。年は西暦に置き換えたが、月は旧暦のままとする。 383年... -
中華の流通を支えた貨幣と度量衡について
貨幣総論貨幣には3つの機能がある。 1.交換機能(決済機能)米を持っている人が魚を欲しくなったとする。物々交換では、魚が余っていて尚且つ米が欲しい人の中からマッチング先を探さなければならない。貨幣経済では、とりあえず米が欲しい人の中から広く交換先を探して貨幣を得た後、魚が余っている人の中から広く交換先を探し貨幣を渡して魚を得る。2段階のマッチングを要するものの、実はこちらの方がはるかに目的を達しやすい。 2.価値の尺度機能米と引き換えで魚を得る例のまま続ける。物々交換では、マッ... -
彭城太妃爾朱氏 数奇な生涯を辿った爾朱栄の長女
爾朱栄の記事を書くために色々調べていると、その長女の生涯にも興味を持った。そこで、簡単に紹介することとした。北史に従って彭城太妃爾朱氏としたが、大爾朱氏と呼ばれることが多い。爾朱栄の娘と爾朱兆の娘が、どちらも北魏皇后を経た後に高歓の側室となっており、後者は北史において小爾朱と記されているからである。 北史 巻14 列伝第2 后妃下彭城太妃爾朱氏は、栄の娘、魏の孝荘(元子攸)の皇后である。神武(高歓)は彼女を側室として迎えると、婁妃(正室の婁昭君)より重んじ、爾朱氏と会うときは... -
爾朱栄 北魏の秩序維持とその崩壊
五胡末から南北朝と長期に渡って存在感を示した北魏、爾朱栄がその転機になったことは間違いない。以前から魏書爾朱栄伝に興味はあったが、今回読んでみることにした。ただし、北斉期編纂の魏書は、正史でありながら多くの曲筆が指摘され「穢史」とも呼ばれるいわくつきの書である。魏書を読む際は、常に北斉政権・編者魏収によるフィルターを意識する必要がある。唐代成立の北史にも爾朱栄の列伝があるため、魏書に準拠して記載しながら、食い違う所は適宜追記する。 爾朱栄伝 (魏書 巻74列伝第62、北史 巻48... -
祖沖之 南朝に現れた算術の特異点
中華の度量衡について調べていると、南朝の祖沖之についての記載を認めた(丘光明、楊平 「中国古代度量衡史の概説」)。以前の暦に関する記事で見た名前ということもあり、彼の事績をまとめてみた。 円周率隋書律暦志によると、古代では円周率を3とみなしてきた。その状況が変わったのは王莽の新の頃。劉歆が「新莽嘉量」という度量衡の傑作を造り、その銘文中に円面積の算出法も記された。劉歆の円周率は3.1547であったと推算されている。曹魏の劉徽は割円術(円に接する正多角形を用いる)によって円周率の算...