2024年5月– date –
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宇文邕の廃仏 魏晋南北朝における法難 その2
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は後編とし... -
拓跋燾の廃仏 魏晋南北朝における法難 その1
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は前編とし... -
辺境と呼ばれる地で宙を注視した人たち 北涼
中華においては、伝統的に太陰太陽暦が用いられてきた。月の満ち欠けを基準にしながら、季節の廻りにも配慮しつつ暦を設定するものである。そして、戦国秦の顓頊暦から魏晋の景初暦に至るまで、章法(メトン周期)という19年で閏月を7回挿入する暦法で統一されていた。 公転周期は時代と共に変わるが、国立天文台の暦Wiki・太陰太陽暦の数字は下のようになっている。1太陽年=365.2422日1朔望月=29.530589日 章法の計算値は次のようになる。19太陽年=6939.6018日235朔望月=6939.688415日このように、季節の廻り... -
孫呉の首都に関する考察
西暦200年、孫策死亡後に勢力を引き継いだ孫権は、当初の本拠地を呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)とした。ここで注目すべきは呉の四姓である。顧氏・陸氏は呉県を本貫地とする氏族である。朱氏・張氏は候補が複数あるのだが、両方に呉県を本貫地とする氏族が居る。孫氏は呉郡富春県(浙江省杭州市富陽区)出身であるが、孫堅・孫策は北方を転戦しており、孫策は陸氏の長老である陸康と対立する有様であった。孫策までと違い、呉県に根を下ろした孫権の姿勢は注目しておくべきだろう。 208年、黄祖を討伐し、揚州南... -
同盟関係から読み解く五胡十六国後期
五胡十六国後期は国の興亡が一層複雑になり、なかなか理解しにくいが、国同士の同盟関係を把握することで幾分わかりやすくなる印象を持っている。 後秦・南燕・譙蜀(後蜀)アライアンス VS 劉裕楚を名乗って東晋から禅譲を受けた桓玄だったが、劉裕によって建康の主導権を失った。その後桓玄は西に向かって再起を図った。やがて桓玄は殺されたのだが、荊州における桓氏の抵抗は続いた。この背景として、桓氏が荊州の西府軍を代々掌握していたことは重要である。東晋から蜀に向けて荊州の桓氏討伐の命があったが... -
西暦493年以後 その2 北魏で何が起こったのか
西暦493年(南朝斉の永明十一年・北魏の太和十七年)以後しばらく、南北両朝で重大な出来事が集中して起こっているにもかかわらず、あまり注目されていないようだ。北魏での動きを追ってみた。ある程度割愛したものの資治通鑑をベースにした長文である。月は旧暦、年齢は数え年とした。 493年1月、南朝宋から亡命した劉昶は、泣きながら雪辱戦を乞うた。拓跋宏(孝文帝、高祖)は南伐について公卿と会議した。 2月、拓跋宏は平城の南で藉田を耕した。藉田とは中華において行われた皇帝による農耕儀式であるが、北...
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