2024年6月– date –
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長沙厲王 司馬乂 兄弟愛とその結末
司馬乂は、八王の乱において唯一良識的な行動を取った諸侯王として、その戦績も含め肯定的な評価が多い。彼の事績を晋書ベースで追ってみた。 司馬一族の親疎を分かりやすくするよう、カテゴライズしてみた。カテゴリー1 Cat.1 司馬炎の子孫カテゴリー2 Cat.2 司馬昭の子孫(司馬炎系除く)カテゴリー3 Cat.3 司馬懿の子孫(司馬昭系除く)カテゴリー4 Cat.4 司馬防の子孫(司馬懿系除く) 長沙厲王 司馬乂(Cat.1) 字は士度。司馬炎の第6子(異説あり)。西暦289年、長沙王に封じられた。290年、司馬... -
劉宏と董卓 その虚像と実像
劉宏。東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)の霊帝として知られる。売官・汚職を横行させ、清廉な官人たちを党錮の禁で弾圧するなど、東漢が民衆・名士からの支持を失うきっかけとなった暗君とされる。董卓。皇帝を廃位したのちに殺し、雒陽(東漢期の洛陽はこう記した)を焼き、悪貨を流通させるなど、乱世の呼び水になった暴虐の支配者とされる。なぜ彼らの悪評は固定化されるに至ったか、共通点があると考え、ここに放論を行う。 東漢末期の頃はグローバルでの寒冷期にあたった。世界各地でそれまでの生... -
前回からの続きで崔猷についても調べてみた
前回の王思政に関する記事で、長社県(現在の河南省許昌市長葛市)に駐屯しようとした王思政の判断に否を突き付けた崔猷。彼に興味を持ったため、周書・北史からユルく引用しながら足跡を辿ってみた。 崔猷の生涯(北魏~隋、周書巻35列伝第27/北史巻32列伝第20)崔猷の字は宣猷、博陵郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人、漢の尚書崔寔の十二世孫である。(父祖・肩書系は割愛)猷は年少時より学問を好み、物静かでエレガントな佇まいにあっても性格は剛直で、軍略の才もあった。北魏で任官されていたが、... -
慕容紹宗と王思政 東魏・西魏の激闘で失われた東西の名将
慕容紹宗慕容紹宗は前燕の名将かつ名宰相、慕容恪の末裔とされる。爾朱栄相手に洛陽での誅殺を諫止したり、爾朱兆相手に高歓への警戒を説いたり、各所で適切な助言をしているが、聞き入れられなかった。爾朱兆の敗北後は高歓に投降し、その後東魏の将として各地で戦勝を得てきた。547年、東魏の黄河以南を任されていた侯景が、高歓死後に息子の高澄に対し乱を起こした。侯景の言動からすると、高歓は主君でなく同僚であり、まして息子の高澄に従うつもりは全くなかったようだ。ただ、生前の高歓は侯景が高澄に従わ...
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