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西暦493年以後 その1 南朝斉で何が起こったのか
西暦493年(南朝斉の永明十一年・北魏の太和十七年)以後しばらく、南北両朝で重大な出来事が集中して起こっているにもかかわらず、あまり注目されていないようだ。南朝斉での動きを追ってみた。一部は割愛したものの資治通鑑をベースにした長文である。月は旧暦、年齢は数え年とした。 493年1月、皇太子の蕭長懋(斉武帝蕭賾の長男で蕭道成の孫)が死んだ、享年36。蕭長懋は調和のとれた人柄で、遊興を好んだ晩年の蕭賾に代わって一部の決裁を代行していた。一方で、蕭長懋は贅沢好きであったため、太子死後に訪... -
魏晋南北朝史の文献を巡る現状
・正史全訳まずは正史全訳の通読が基本になる。中国正史の訳出状況について、国立国会図書館でまとめられている。https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/asia/post_73 史記、漢書、三国志については、価格や入手難易度などから筑摩のものが標準的なテキストになっている。後漢書について、岩波と汲古書院のものとどちらを優先すべきか悩ましい。最近出版されている早稲田文庫のシリーズで全訳が揃うかどうかに注目している。史記、漢書、後漢書、三国志以外の正史全訳は無い。つまり、魏晋南北朝に関わる正史は、ほと... -
魏晋南北朝では、封禅が行われていない
封禅(ほうぜん)とは、中国の帝王が政治上の成功を天地に報告する国家的な祭典である。泰山(山東省泰安市にある標高1,545mの山)の山上に祭壇を作り、天に対してまつりを行う「封」、泰山の麓にある小山を払い清め、地に対してまつりを行う「禅」、この二つの祭祀を組み合わせることで封禅が成立する。伝説上は三皇五帝以来とされるが、史実だと趙政(秦の始皇帝)によって行われたものが最初である。彼の事績からすると、封禅に不死を祈願する性質があったことにも注目すべきであろう。 趙政の創始した仕組みの... -
皇帝という称号が決まるまで
史記によると、秦王の趙政が中華を統一した際に、それまでの「王」や、かつて用いられた上位称号「帝」に飽き足らず、新たな称号を志望した。群臣は三皇(※)のうち「泰皇」が最上位であるとして薦めたが、趙政はそれを却下し、新たに「皇帝」の称号を作った。 ※三皇の内訳について史記の秦始皇本紀において、天皇・地皇・泰皇としている。泰皇の代わりに人皇を入れることもあるが、この両者を同一視していいか未確定である。別に女媧・伏羲・神農を三皇とする説が有名で、他にも諸説ある。 疑問点は泰皇を三皇の... -
西晋で見られた難民の連鎖
飢饉・斉万年の乱により、中華西部で難民発生東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)や曹魏は、少数民族を関西(函谷関より西側のエリア)に移住させる徙民政策を採っていた。彼らは差別的な対応を受け生活も貧しかった。西晋は司馬衷の頃、関西で飢饉が発生しており、不満を抱いた異民族は氐族の斉万年を推戴し晋への反乱を起こした。これが斉万年の乱である。乱自体は299年に孟観の手で鎮圧されたものの、関西の困窮から、多くの者が食糧を求める難民となった。 四川に南下した難民が、現地での摩擦により... -
二人の文鴦 文俶と段文鴦
魏晋南北朝には文鴦と呼ばれる武将が二人居る。曹魏・孫呉・西晋で活躍した文俶と、五胡十六国初期に鮮卑段部で活躍した段文鴦である。ともに当時では最高峰の勇将として知られていた。 文俶姓は文、名は俶、字は次騫。文鴦として有名だが、鴦は彼の幼名である。父の文欽が毋丘倹と共に司馬師に反旗を翻した時、数え18歳にして軍中随一の勇将として知られるほどであった。幼名が流布したのも年少時からの武名ゆえかもしれない。 鄧艾は自身で文欽を誘い出したのち、司馬師の本隊とぶつける作戦を実行した。司馬師... -
姚弋仲 その2 その子供たち
後趙で相次いだ皇太子の反逆に対して、姚弋仲が石虎に呈した厳しい直言をその1で取り上げた。では、姚弋仲自身の子育てはどうだったのか。子供たちの生き様を振り返ってみる。 姚襄姚弋仲の第5子。立派な体躯と文武両道により、誰もが姚弋仲の後継者として認める存在だったが、姚弋仲はなかなか承知しなかった。冉閔が後趙に反逆したとき、姚襄に石祇を救援させたが、その際「お前の才能は冉閔の十倍だ、首を取るか捕獲するまでは戻ってくるな」と言った。姚襄が冉閔に大勝して帰ってきたが、姚弋仲は身柄を確保で... -
姚弋仲 その1 石虎への直言
石虎への直言五胡十六国時代において後秦の基礎を築いた姚弋仲、彼に関して大好きなエピソードがある。梁犢が反乱を起こし、その勢いを恐れた後趙の石虎は、首都の鄴に姚弋仲を招集した。石虎は重病で面会できなかったので、飲食を与えて労おうとした。それに対して姚弋仲は怒り、「私は賊を討つために来たのであって、食事をねだりに来たのではない、主上の容態がわからない、一目でも会わせてもらえるなら死んでも恨まない」と言った。左右の者は姚弋仲を石虎に引見させた。そこで姚弋仲は石虎に言った、「子供... -
前燕征服時に見られた前秦崩壊の兆し
郝晷と梁琛前燕からの使者として、郝晷と梁琛が相次いで前秦に行った。郝晷は燕を見限ってその内情を詳しく話したが、梁琛は慕容評と慕容垂が偉いと当時の共通認識を述べただけで、自国のウィークポイントを決して洩らさなかった。燕帰国後の梁琛は、苻堅と王猛が人傑であることを主張し、秦による侵攻の可能性を警告したが、朝廷から疎まれ、逆に投獄されてしまった。燕滅亡後に梁琛と対面した苻堅は、「燕国の危機の兆しを見極めず、燕国の善良さを偽って主張し、忠誠心が身を守るどころか、かえって災いを招い... -
巴と蜀 重慶と成都
四川(*)の地のことをしばしば巴蜀という。春秋戦国の頃、四川の地に巴の国と蜀の国があったことに由来する。蜀が成都を中心とするエリアなのは三国志などで比較的理解しやすいが、では巴とは何なのかと言われると少し考え込むかもしれない。巴とは重慶を中心とするエリアを指す。現在でも重慶と成都は四川を代表する二大都市として知られる。成都は四川省の省都であるし、重慶は中央政府による直轄市(他に北京・上海・天津 人口は重慶が最多だが面積も圧倒的に広い)である。 *ちなみに四川とは長江支流の4...