2024年– date –
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京兆韋氏 南北両朝で最高峰の武将を輩出した名家
京兆韋氏とは、京兆郡杜陵県(現在の陝西省西安市)を本貫地とする氏族である。西漢(前漢)の丞相(非常設の宰相職)を輩出するなど、名門として古くから知られていたが、南北朝時代ではそれ以上に存在感のある名将を2人輩出した。韋叡と韋考寛である。そして、韋叡が南朝所属であるのに対し、韋考寛は北朝と、南北両朝で存在感を示した点も興味深い。 韋叡京兆を本貫地とする韋叡が南朝に属した理由は、劉裕が北伐で長安(京兆郡に属する)を奪取したことにある。劉裕は建康に帰還した隙を突かれて赫連勃勃に長... -
魏晋南北朝の名包囲 その3 拓跋珪 柴壁の戦い
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。3回目は北魏の拓跋珪による柴壁の戦いを取り上げる。北魏と後秦の盛衰を分けた戦いとして有名だが、合戦の詳細を調べると非常に面白い。 西暦402年5月、後秦の姚興は北魏の河東エリアに攻撃を仕掛けた。局地戦になることを想定したのか、姚緒・姚碩徳といった歴戦の叔父達や自身は出馬せず、弟の姚平に兵4... -
魏晋南北朝の名包囲 その2 陸抗 西陵の戦い(歩闡の乱)
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。2回目は陸抗による西陵の戦いを取り上げる。三国志を代表する見事な包囲戦なのだが、三国時代の後期ということもあり、今一つマイナーな感は否めない。 呉の皇帝孫晧は、西陵(かつての夷陵を改名 現在の湖北省宜昌市)に駐屯する歩闡を都へ召還しようとした。残念ながら暴君とされた孫晧の為人・実績の... -
魏晋南北朝の名包囲 その1 司馬昭 諸葛誕の乱
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。1回目は司馬昭による諸葛誕の乱を取り上げる。司馬氏に対する淮南三叛の3番目という政治的な意味合いから評価されることが多いけれども、内容的に非常に面白い戦いで、司馬昭は将帥として凄まじいと実感できる名包囲である。 都督として揚州の軍権を掌握していた諸葛誕は、司馬氏でなく曹氏への忠誠を明確... -
南朝創業紀 その4 陳覇先の陳
陳覇先は、潁川陳氏(現在の河南省許昌市を本貫地とする名門、陳寔・陳紀・陳羣・陳泰などを輩出)の末裔を自称したが、劉裕・蕭道成・蕭衍と違って寒門(中下級官僚や将軍を輩出した家柄)ですらない、土豪の出身であった。 地方の小役人・建康の油倉庫番からキャリアをスタートした陳覇先だが、その能力を認められ、最終的に広州(現在の広東省付近)の軍権を掌握した。交州(現在のベトナム北部)土着の李賁が挙兵したが、陳覇先はこれを討ち、梁南部において威望を高めた。 侯景の乱が起こった時、陳覇先は周... -
南朝創業紀 その3 蕭衍の梁
蕭衍の父である蕭順之は、南朝斉を創建した高帝蕭道成の族弟(一族の年少者)であった。蕭道成・蕭順之をさかのぼると、共通の祖先として高祖父(祖父の祖父、4世代前)の蕭整で結びつくとのことである。 蕭道成の孫である蕭子良は、南朝斉を代表する文人であり、儒学・老荘・仏教の全てに通じていた。蕭衍は蕭子良サロンの著名人「竟陵八友」に名を連ね、文化的中心を担った。 時代は下って、その後暴君とされる皇帝蕭宝巻(東昏侯)が、蕭衍の兄である蕭懿を殺した。これにより決起した蕭衍は蕭宝巻を殺害し、代... -
南朝創業紀 その2 蕭道成の斉
蕭道成は西漢(前漢)の名臣である蕭何の末裔を自称していたが、寒門としてのキャリアを辿っている。 蕭道成に出世への道を開いた要素は2つある、一つは北魏相手の武勲である。竟陵(旧江夏郡 現在の湖北省中部)で北魏を攻撃して勝利、襄陽防衛と樊城攻撃で成果、関中(現在の陝西省)への侵攻など、蕭道成は北魏相手に見事な戦績を誇った。劉義隆(劉宋の文帝)による北伐への反攻として、西暦450年に拓跋燾(北魏の太武帝)が親征し、淮水周囲で簫道成と衝突した。蕭道成といえど流石に拓跋燾相手では不利な戦... -
南朝創業紀 その1 劉裕の宋
劉裕の出自に関する記載は魏書(北朝の正史)と宋書(南朝の正史)で異なる。少なくとも名門の生まれではなかった。東晋を揺るがした孫恩の乱(五斗米道という道教勢力を中心に起こった乱)において、東晋の二大軍事組織の一方、北府軍を率いる劉牢之の部下として反乱軍に対して大暴れし、武名を轟かせた劉裕は将軍として名を連ね大いに出世した。 その後、二大軍事組織のもう一方、西府軍を統括する桓玄(桓温の息子)が政権を主導するようになった。上司の劉牢之は当初桓玄に付いたが、やがて後悔するようになり...