孫呉の首都に関する考察

西暦200年、孫策死亡後に勢力を引き継いだ孫権は、当初の本拠地を呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)とした。
ここで注目すべきは呉の四姓である。顧氏・陸氏は呉県を本貫地とする氏族である。朱氏・張氏は候補が複数あるのだが、両方に呉県を本貫地とする氏族が居る。
孫氏は呉郡富春県(浙江省杭州市富陽区)出身であるが、孫堅・孫策は北方を転戦しており、孫策は陸氏の長老である陸康と対立する有様であった。孫策までと違い、呉県に根を下ろした孫権の姿勢は注目しておくべきだろう。

208年、黄祖を討伐し、揚州南部から荊州を窺うところまで勢力が拡大した。これに伴い、本拠地を長江下流南岸の京口(江蘇省鎮江市)に移した。
211年、長江下流南岸で京口よりやや西側の秣陵(江蘇省南京市)に本拠地を移した。212年、秣陵の防御施設として石頭城を整備(洛陽における金墉城の造営に先行している)し、秣陵を建業と改名した。

219年、荊州の関羽討伐に伴い、孫権は長江中流南岸の公安(湖北省荊州市公安県)へ移動した。
221年、長江と漢水(沔水・夏水・襄水とも呼ばれる)の合流地点(漢口・沔口・夏口)に近い鄂(湖北省鄂州市)へ移り武昌と改名、建業に並ぶ規模の城を築き、しばらく本拠地とした。
簡単に言えば、荊州南部を支配下に収めた孫権にとって建業は東過ぎたということだが、より詳細な検討を加えよう。

荊州南部・揚州南部を掌握した孫権が今後取りうる進路は主に3つあった。
ルート1:長江を遡上して巴蜀を目指すルート
ルート2:漢水に沿って襄陽/樊城→宛→洛陽or許昌と北上するルート
ルート3:長江下流から陸路で淮水を目指すルート(主に巣湖→合肥→寿春)
敵から侵攻を受ける時のルートも上の3つである。

この条件から武昌と建業を比較すると次のようになる。
武昌のメリット
●ルート1・2への進軍が容易(攻撃)
●ルート1・2からの侵攻に対し即応できる(積極的守備)

建業のメリット
●ルート3への進軍が容易(攻撃)
●ルート3からの侵攻に対し即応できる(積極的守備)
●ルート1・2からの侵攻を受けてもしばらく持ちこたえられる(消極的守備)
(ルート3からの侵攻を受けても長江下流の渡河は難しく、必ずしも武昌より脆弱とは言えない)

武昌に遷都した孫権は、荊州方面のルート1・2に意欲的だったと考えられる。215年における合肥での歴史的大敗も、孫権が荊州に目を向けるきっかけだったろう。

229年、前年の石亭(安徽省六安市舒城県)の戦いで勝利した孫権は、呉の皇帝に即位するとともに、本拠地を武昌から建業に移した。
この背景について考察しよう。まず、孫権は蜀漢の諸葛亮と結び、魏と敵対する道を選んだ。結果として、ルート1の優先度は大幅に低下した。
次にルート2だが、魏は長江と漢水の合流地点である江夏(湖北省武漢市)に文聘を派遣し、呉は長年彼に阻まれ続けた。
かつて、孫権は江夏太守の黄祖をしばらく抜けなかった。黄祖を敗死させた後も劉琦が影響力を残すなど、江夏の完全掌握には至っていない。孫権にとって、江夏はまさに因縁の地だったのだ。
石亭における戦勝で自信をつけ、合肥の守護神・張遼も222年に故人となった。建業遷都は呉がルート3に重心を移した結果と思われる。あるいは、海を渡って遼東公孫淵との通交や、東方の島への進出に活路を見出そうとしたのかもしれない。

孫権が建業に移った後も荊州への押さえは必要であり、武昌に陸遜や皇太子孫登を残した。建業と武昌で呉の権力が2分されたことは、後年における二宮の変の遠因となった。
ルート3への熱意を見せた孫権だったが、満寵の築いた合肥新城は呉の北上を阻み続け、完全に当てが外れる形になった。公孫淵との修好には失敗し、東方進出も成果が無かった。

265年、孫晧は武昌に首都を移し、266年に再び建業へ戻った。暴君の乱行と片付けられがちだが、もう少し考証した方が良いと思われる。
264年の孫晧即位時点で、蜀漢は魏に滅ぼされ、しかも南方の交阯が呉から離叛していた。特に、ルート1の対象が同盟相手の弱国・蜀漢から魏に変わったことで、安全保障の前提は激変した。

ただし、呉にも僅かな勝機があった。曹氏から司馬氏への禅譲が既に秒読みだったのだ。また、トップの司馬昭は孫皓より先に寿命を迎えることが見込まれた。これら魏晋の不安要素から、諸葛誕の乱のような政局がまた来れば、状況は一変する。
孫晧の遷都は、魏晋の動乱を待って蜀への侵攻を企図したことによる、というのが田中愛子らによる研究成果(「甘露元年及び宝鼎元年の呉の遷都」)である。

ところが、司馬昭の死から魏晋革命に至る一連の流れの中で、呉が付け入る隙は結局生じなかった。
国力差を考えると、晋との正面衝突で呉が攻撃や積極的守備を選択するのは難しい。建業に戻って一日でも長く勢力を保持し、奇跡が起こるのを待つしかなかった。

孫晧が建業に戻る中で、荊州のケアは当然懸案となった。結果的に陸抗が呉の柱石として荊州を支えたが、陸抗の地理感覚については言及しておきたい。
荊州を統括する地の候補として、武昌とは別に江陵(湖北省荊州市)がある。江陵は長江沿岸ながら漢水にも比較的近く、ルート1・ルート2を両方コントロールするのに適した地だった。一方で長江中流北岸にある江陵は、北方から攻撃に対し不安視される地形でもあった。
陸抗は長江中流南岸の楽郷(湖北省荊州市松滋市)に策源地を定めた。武昌よりルート1の最前線である西陵(湖北省宜昌市)に近く、江陵より北方からの侵攻に強い。漢水から若干離れるが、ルート2に変事があれば、長江を下って武昌まで急行することはできる。
陸抗は歩闡の乱で西陵と江陵が両方脅かされた時に西陵を優先した、ルート1をそれほど重視したのだ。策源地を楽郷に置いたことが功を奏し、西陵にある程度専念できた陸抗は歩闡の乱を見事鎮圧した。

280年に晋が呉を征服した際、上の3ルート全てを使ったが、決定打になったのは、亡き陸抗が最も危険視していた巴蜀経由のルート1だった。

続いて、周瑜による天下二分の計について説明する。
まず、巴蜀が劉璋支配であるうちにルート1で長江上流域を掌握し、下流側の安全を確保する。
これにより、西は大巴山脈or秦嶺山脈、東は長江、と強固な防衛線を構築できる。その後、漢水に沿ったルート2で魏領に突出していく、という基本的構想である。
漢水を北上する過程で逆転勝利が必要になるが、戦力差は官渡や赤壁より少ないと見込まれ、周瑜の器量なら仕掛ける価値は十分あった。

蜀漢についても少しだけ言及しておく。
益州と荊州南部を掌握した劉備が益州でも西寄りの成都に本拠地を置いたこと、これは江陵に駐屯した関羽との分割統治を前提にしていたと考えられる。
その後、孫権に荊州を奪われた。劉備陣営は荊州人士と益州人士の連立政権であり、主導権は荊州閥にあった。彼らの本貫地である荊州失陥は、勢力の根底を揺るがす事態であり、到底黙認できなかった。
劉備の荊州侵攻は夷陵(=西陵、湖北省宜昌市)で阻まれたが、その後も劉備は荊州と益州の結節点である永安(重慶市奉節県)に滞在し続け、その視線は荊州を見据えていた。

秦嶺山脈を越えて魏に向かうルート、長江を下って呉に向かうルート、領土拡大が楽なのは明らかに後者であるが、蜀漢がこの路線を取って呉と削り合った場合、魏に逆転勝利する可能性はほぼ閉ざされる。
劉備の没後、諸葛亮は荊州閥を代表する立場でありながら、蜀漢を束ねて北に向かわせる必要があった。それには彼自身の権力だけでは不十分で、説得力を持った文章、つまり出師表ほどの名文が必要だった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次