拓跋燾の廃仏 魏晋南北朝における法難 その1

三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。
李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。
魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は前編として北魏の拓跋燾を取り上げる。

一般論 支配者から見た仏教の利害
広大な国土を持つ中華では、多民族にわたる構成員を統合するための価値体系が求められる。
中華古来の儒教・道教は漢民族のバックグラウンドに依存する部分が大きく、外来の仏教はその意味でより普遍性を持った宗教である。
支配階級が概ね胡人となる五胡十六国・北朝において、仏教は一層好都合な教えであった。

しかしながら、仏教には権力者にとって不都合な側面もある。
国家権力を支えるのは、つまるところ徴税と兵役である。仏教の信奉者が増えることで、徴税・兵役の対象者は減ってしまうのだ。税・役を逃れる方便として出家する者も現れるようになった。
また、出家した僧の生活は在家信者のリソースに依存している。仏教の隆盛は、国家と別に利権が構成員へ食い込んでくることを意味し、皇帝権力・王法にとってマイナスとなる部分が多かった。
さらに、仏教は国民を統合する役割を期待されたにもかかわらず、いつしか道教相手や宗派間での論争を繰り返すようになった。

北魏の事情
拓跋珪・拓跋嗣と、北魏初期は仏教を保護する路線で運営されていた。これには、「皇帝即如来」で象徴されるように、俗権と寄り添いつつ教えを広めようとした法果の姿勢が寄与していた。
続く拓跋燾は当初仏教を保護する姿勢を見せていたが、蓋呉という人物の反乱が転機となった。この乱の際に長安の寺から武器が発見され、以後拓跋燾は仏教に対する態度を一変させた。(その寺は役人相手に酒宴を設けて誤魔化そうとしたようだが、仏門の堕落として逆に心証を損ねる結果となった)
蓋呉は盧水胡、つまり北涼の残党という位置づけである。西方から伝来した仏教、西方と結びつきの強い北涼・盧水胡、西方の文物が多く経由する西の都長安、疑わしい要素は沢山ある。

ちなみに、当時世間では「慮(魏)を滅するは呉なり」という図讖(予言のこと、讖緯ともいう)が流布していた。呉は該当地域を支配する南朝劉宋と解釈するのが自然だが、拓跋燾は蓋呉も強く意識せざるを得なかった。その後、拓跋燾は廃仏と共に図讖の禁絶も行っているのだが、図讖が儒のカテゴリーに属することは注意しておくべきである。

拓跋燾の廃仏における重要人物
・崔浩
拓跋燾を廃仏に向かわせた中心人物とされる。蓋呉の乱で長安の寺から武器が発見されたのは、崔浩の働きかけだったとする文献もある(佐藤悦成 「寺院遺蹟についての調査報告」)。
道教を信奉した崔浩にとって仏教は唾棄すべき対象だったという説明が主にされるが、一方で儒家の立場から仏教の毀廃に向かったという文献もある(春本秀雄 「北魏廃仏研究について」)。道教・儒教いずれの立場を取っていたか未確定だが、漢人の崔浩が外来宗教である仏教の中華侵食を憂慮していたのは確かだろう。
ただし、前記のとおり儒教的背景を持つ図讖も廃されたことから、拓跋燾を完全に制御していたわけではないと思われる。
後年、崔浩は拓跋燾により誅殺されている。国史編纂が表向きの原因とされるが、崔浩による急速な漢化政策への反発とする説もある。中華思想に由来する仏教への態度もまた、誅殺の判断に影響したのではないだろうか。

・寇謙之
新天師道という新たな道教を創始し、拓跋燾はこの新天師道に傾倒した。
崔浩に並ぶ廃仏のキープレーヤーとしばしば記されるが、寇謙之自身は拓跋燾の廃仏に反対している。
教権が俗権に寄り添っている北魏において、皇帝の考え次第で宗教活動が危機を迎える前例は、道教にとっても脅威となりえたのである。
また、新天師道は仏教的要素も包含した教義であるため、仏教との完全な対立姿勢を取りえなかった。

・拓跋晃
拓跋燾は、皇太子の拓跋晃を高僧の玄高に師事させるなどし、仏教の素養を身に付けさせていた。そのため、拓跋燾が廃仏に舵を切った後も、拓跋晃はこれに抵抗した。
拓跋晃は、宦官宗愛の誣告によって側近を失ったのち憂死に至った。仏教をめぐる拓跋燾と拓跋晃の懸隔は、この事件に大きく影響したはずである。
ちなみに廃仏以前にも、拓跋晃は道教に没頭した拓跋燾を批判している。

・拓跋濬
拓跋燾に次ぐ北魏皇帝(文成帝)として即位すると、仏教に対する弾圧を全廃し、雲崗石窟の造営を始めた。
父の拓跋晃と同様に仏教を尊重していたのだろうが、国家の求心力を高める意図もあった。外敵とは別に宗教勢力を自国から切り離す不利を、皇帝集権・国家動員の有利より優先したという判断が窺える。

拓跋濬以後も仏教に好意的な君主が続き、北魏において廃仏に向かったのは、結局のところ拓跋燾のみであった。
国家権力そのものは概ね仏教を容認する方向で運営され、皇帝個人の意向を根拠とする廃仏が一過性で終わる、というのは三武一宗の法難全てに共通していた。

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