前回からの続きで崔猷についても調べてみた

前回の王思政に関する記事で、長社県(現在の河南省許昌市長葛市)に駐屯しようとした王思政の判断に否を突き付けた崔猷。彼に興味を持ったため、周書・北史からユルく引用しながら足跡を辿ってみた。

崔猷の生涯(北魏~隋、周書巻35列伝第27/北史巻32列伝第20)
崔猷の字は宣猷、博陵郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人、漢の尚書崔寔の十二世孫である。(父祖・肩書系は割愛)
猷は年少時より学問を好み、物静かでエレガントな佇まいにあっても性格は剛直で、軍略の才もあった。北魏で任官されていたが、元脩(北魏の孝武帝)が関中(渭水盆地、現在の陝西省付近)へ遷った後で一家が高歓によって迫害され、崔猷は関中へと逃れた。
崔猷は書記として宇文泰に従軍し、竇泰捕獲・弘農奪還・沙苑戦勝の現場に居た。

侯景に乗じて西魏が河南へ進出した際、王思政は行台としてこれに赴任した。宇文泰は思政にこのような書を与えた「崔宣猷は智略明贍で、変に応ずる才がある。もし判断に迷うことがあれば、彼とその是非を考えるのが良い」
思政は当初、兵を襄城(河南省許昌市襄城県か?)に置いていたが、潁川(=長社県)に治所を移したいと考えた。王思政から相談を受けた崔猷の返書を要約する「襄城は後背に京(長安)・洛(洛陽)を控え、当今の要地である。動静があれば、相応ずるのが容易である。潁川は敵国に近く、山河の守りもない。もし賊が攻め寄せれば、あっという間に城下に至る。襄城に治所を置いたままで、潁川には州庁を設けて郭賢に鎮守させるのが良い。襄城と潁川が表裏一体となって堅固となり、人心は安んじ、不慮の事態でも患うことがない」
宇文泰は崔猷の言い分を是としたが、王思政が強く希望したため結局潁川への移転を許可した。潁川を失陥してから、宇文泰はこの判断を深く悔やんだ。

西暦551年、崔猷は侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司まで昇進するとともに、宇文姓を受けた。

554年、宇文泰は梁漢旧路(四川省、陝西省漢中地方あたりの街道か)を拡幅するよう崔猷に命じた。崔猷は山を掘り、谷を埋め500里あまりの車道を整備し、そのまま梁州(時代によって区分が変わる、概ね四川省から陝西省漢中地方あたり)の刺史となった。

556年、宇文泰が死去すると、始州・利州・沙州・興州といった諸州で叛逆が起こり、信州・合州・開州・楚州(前記8州は全て四川省・重慶周辺のエリア)もまた叛いた。そのような中にあって、崔猷の支配する梁州だけはそのような動乱と無縁であった。さらに、崔猷は利州に兵6千を派遣し、信州に米4千斛を送るなど、乱の鎮圧に貢献した。爵位は県公に進み、食邑は800から2千に増えた。
晋公の宇文護は崔猷を深く重んじ、猷の三女を自身の養女とした(前記は周書に基づく、北史だと皇帝が崔猷の二女を養女にしたと記す)。

北周では宇文毓(北周の世宗・明帝)に至るまで、古代周に倣って天王を称し年号も建てていなかった。崔猷は、混沌とした時世を考慮すると天子の位を王としたのでは威光が足りないとして、秦・漢に従って皇帝と称し、年号を建てるよう請願した。朝議はこれに従った。

560年、宇文毓が死に、遺詔により宇文邕(高祖・武帝)が立てられた。
宇文護は崔猷に言った「魯国公(宇文邕の当時の肩書)は寛仁な性格で、宇文泰の諸子における年長者でもある。いま宇文毓の遺志に従って、宇文邕を国主に奉じようとしているが、君の考えはどうか」
崔猷は答えて言った「殷の在り方は権勢の最も強い者が天子の位につき、周の在り方は先代の近親者が天子の位につく。いま朝廷は周礼に従っており、この義を違える余地はない」
宇文護は言った「天下の大事は、彼のような年少者には荷が重かろう」
崔猷は言った「昔、周公旦は成王を輔け、諸侯を制御した。ましてあなたほど賢明な親族は他に居ない。もし周公の事績を行えば、あなたに後事を託した宇文泰に応えられる」

567年、華皎が南朝陳を裏切って北周にコンタクトしてきたため、宇文護は南伐を行おうとした。公卿が口をつぐむ中で崔猷は独り進み出て言った「前年の北斉との戦役では、過半数が死傷した。領土は増えたものの、国力が回復していない。対して陳は領土・領民を保全している。また、陳とは同盟国として良好な関係を築いていた。盟約を違えて叛臣を収容し、大義名分の無い戦を起こして成果を得た前例は聞いたことがない」
宇文護は従わず出兵し、陳に大敗した。

581年、楊堅(隋の文帝)が即位すると、崔猷は北周での前職を維持したまま、大将軍を授けられ、爵位は郡公まで進み、食邑も増えた(2千戸から3千戸に増えたのか、旧来の3千戸から更に増えたのか、うまく読み解けなかった)。

584年、崔猷死亡。明と諡された。

放論
有力な漢人に宇文姓を授与するのは、北族貴顕に対する宇文氏の優位を確立するための措置だったとされる(大川富士夫 「西魏における宇文泰の漢化政策について」)。
宇文姓を授与された漢人として、他に韋孝寛らが居る。崔猷の才は、宇文一族へ取り込むに値し、また北族への牽制にも有効なほど優れていたということである。

宇文泰死後における西魏の混乱、これは崔猷列伝を見るまで知らなかった。
よく考えてみれば、圧倒的優勢を誇る東魏・北斉に対し、合理的な官制・軍制の整備と自身の政略・軍事センスで対抗した宇文泰は、まさに西魏の柱国であり、彼の死後に何も起こらない方が不自然であった。
宇文泰死去というまたとない好機に乗じることが出来なかった北斉の不首尾は、改めて注目しておくべきであろう。また、北斉に飲み込まれることなく混乱を乗り越えた宇文護の采配も特筆すべきものがある。そして、その混乱を終息させるにあたって、崔猷の働きは決定的だった。だからこそ、宇文護は崔猷を特別に重んじたのだろう。

宇文護と親密だったにもかかわらず宇文邕親政以後も任用され続けたこと、宇文姓を授与されたにもかかわらず隋で任用され続けたこと。これらの事実は、崔猷のビジョンが政権運営に欠かせないほど卓越しており、処世も巧みだったことを改めて浮き彫りにするのである。

崔猷について調べていたら、北魏中期の政治家が別に居た。
彼の事績は、1983年に出土した墓誌からしか分からない。
諱(名)は猷、字は孝孙、東清河郡東鄃県(現在の山東省徳州市夏津県)の人、こちらは北魏を代表する名門の清河崔氏である。
劉昶や元勰といった重鎮の下で働き、員外散騎常侍まで昇った。天下の趨勢に関わった人物と思えなかったため、詳しい経歴は紹介しない。

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