劉宏。東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)の霊帝として知られる。売官・汚職を横行させ、清廉な官人たちを党錮の禁で弾圧するなど、東漢が民衆・名士からの支持を失うきっかけとなった暗君とされる。
董卓。皇帝を廃位したのちに殺し、雒陽(東漢期の洛陽はこう記した)を焼き、悪貨を流通させるなど、乱世の呼び水になった暴虐の支配者とされる。
なぜ彼らの悪評は固定化されるに至ったか、共通点があると考え、ここに放論を行う。
東漢末期の頃はグローバルでの寒冷期にあたった。世界各地でそれまでの生産体制が破綻し、乱世となった。中華でも、東漢後期から三国時代にかけて人口が激減し、異民族から補充する必要を生じた。また、外縁部の国境を維持するコストと、そこからの税収が見合わなくなっており、涼州を放棄して支配圏を縮小する案が3度提出される有様であった。過酷な現実に対応するため、大幅な改革が必要だったのだ。
売官
東漢における慢性的な国費欠乏を解決する財政再建の一環だったという説がある。
売官については別の見解も示しておきたい。官職を買えるほどの富を得られる人は、ある意味優秀であることが保証されている。閉鎖的なコミュニティで専ら叫ばれる名声などというものより、遥かに信頼できる判断基準ではないか、という理屈は割と説得力がある。経済的に成功している人間に権力を委ねるべきという、実力主義的な人事論は、現代を生きる我々からすると首肯できる部分も多いのではないだろうか。
ところが、実際には上手くいかなかった。官職を財貨で贖った人たちは、役得を利用して出費を回収しようと民衆を搾取するケースが多かったのだ。つまるところ、彼ら富裕層は、渡世の才を確かに持っていたが、必ずしも経世の適任者でなかったということだ。
西園八校尉
8人の指揮官を置き、その上に皇帝自身が君臨した。皇帝直属の常備軍を設ける意図があったとされる。霊帝の死去により日の目を見ることはなかったが、君主の指揮下に8軍を設ける軍制改革は曹操に引き継がれた。
州牧制度
もともと郡太守が軍を掌握しており、州刺史はそれに対する監察官という位置づけであった。辺境への対処が難しくなっていく中で、郡より強大で、中央より即応性がある、州単位の軍権を設けて事態に対処しようとした。これは魏晋における都督制の原型となったと考えられる。
しかしながら、その後の乱世で東漢朝廷は州牧の叙任を制御できなくなり、勝手に州牧を名乗りだした群雄達により、東漢の解体が進む結果となった。
秦の郡県制と、漢の郡国制、両者の対置はよく行われる。
秦は、中央から役人を派遣し、中央集権的な体制を構築したが、儒家・保守層からの反発が強かった。そのため、漢では周のように諸侯王を各領地に封じながらも、中央集権的な郡県の体制を残すハイブリッドな仕組みとした、というのが一般論である。
ここで、東漢末期の状況を振り返ると、諸侯王の存在感が全くない。活躍するのは、州牧・州刺史・郡太守である。この時点で封国は形骸化しており、郡県制を基礎とした中央集権的な仕組みのみが機能していた。
外戚の権威、その根底は儒教である。
上の世代、年長者の方が偉い。そして、皇帝という公的な立場より、家族内の序列を優先して、自身の祖父・伯父・叔父や妻の父兄を立てるよう、しばしば求められる。
独裁を目指した歴代皇帝にとって、このようなルールとそれを押し付けてくる儒者の存在は鬱陶しいことであったろう。
劉宏が外戚の竇氏に擁立されたことから分かる通り、当初は外戚がイニシアティブを握っていた。しかし、その治世の終盤は宦官の優勢が決定的になっていた。劉宏は宦官を介して皇帝独裁を進めようとしたのだ。
党錮の禁や宦官跋扈はこういった文脈から改めて評価する必要がある。
盧植が黄巾と対峙していた際に、監察の左豊に賄賂を渡さなかったため収監された事案。
東漢の救いがたい汚濁を象徴する出来事だが、少々の検討が必要と考える。
盧植の出身氏族である范陽盧氏は、後世でも存在感を示し、北魏の四姓に列せられる名門であった。盧植自身も当時を代表する儒学者であり、つまり清流であった。
清流の協力無くして黄巾の乱は解決できないが、清流の功績が大きすぎると後の国家運営に支障があった。清流の行き過ぎた功績に対する歯止めが必要となって、あの処置に至ったという解釈が成立する。
そして、盧植の後任者が董卓であることに注意すべきである。つまり董卓は濁流勢力なのである。
ところが、董卓は黄巾を鎮圧できず、皇甫嵩らの活躍を待つ必要があった。皇甫嵩の出身氏族である安定皇甫氏は、魏晋南北朝で多くの要人を輩出した名門である。皇甫嵩自身も党錮の撤回、盧植の名誉回復を行っており、やはり清流に与する存在だったと考えられる。
劉宏は劉協(献帝)を皇帝にしたかったとされるが、次男かつ側室(王美人)の子であったため、儒家のルールからすると長男かつ正室(何皇后)の子である劉弁(少帝)を差し置くわけには行かなかった。宦官は劉宏の意思に応えようとし、袁紹ら名士は順序通りの即位を希望した。
大将軍何進が自身の甥である劉弁に付くのは当然である。
では董卓はどうか。劉協は実母の王氏を早々に失い(何皇后による暗殺説がある)、霊帝の母である皇太后董氏によって養育された。董太后は劉協の立太子を勧めたため、何皇后によって雒陽から追放されていた。董卓は董太后と同族であることから、劉協を皇帝に据えた方が好都合だった。
政権を掌握した董卓だが、のちに自身の暗殺に関わった王允・黄琬をはじめ、名士を多く枢要に配置している。袁紹に対してもコンタクトを試み、彼の出奔後も渤海太守の印綬を渡している。
董卓は何故それほど名士に配慮したのか。輿論の支持を取り付けようとしたのだろうが、もう一つ言及しておくことがある。
皇帝・宦官に圧力をかけようとした何進の要請に従って雒陽へ向かった董卓だったが、部下の涼州兵が遠隔地への長期滞在を躊躇ったため、3千以下しか動員できなかった。皇帝を収容し、何進・何苗の兵を吸収することで朝政の主導権を握ったものの、立場の不安定さは否めなかった。
ところが、長安遷都によって状況が変わりつつあった。関東(函谷関より東側)に支配が及ばなくなったものの、長安は董卓軍の根拠地である涼州に近く、その権力基盤はより強固となっていた。
名士だけでなく、并州軍閥の呂布にとっても長安遷都は由々しき問題であった。并州兵は根源地から遠くなって供給力が落ちる一方、涼州兵の供給力は増すからである。董卓勢力における呂布の立場が相対的に低下していくのは、火を見るよりも明らかだった。
董卓死後に、李傕ら董卓残党に従う兵が10万を数えた。
これについて、董卓が中央への召還を拒否した際の上奏文を紹介する。
「俸給が払われない、褒美が途絶えている、妻子が飢え凍えている」と言って兵達が私の車を遮るのだ。彼らを慰撫するため、ここから離れるわけにはいかない
原文(後漢書 董卓列伝)
所將湟中義從及秦胡兵皆詣臣曰:『牢直不畢,稟賜斷絕,妻子飢凍。』牽挽臣車,使不得行。羌胡敝腸狗態,臣不能禁止,輒將順安慰。增異復上。
この手の言い訳を全面的に受け入れるべきでないが、配下の涼州兵にとって面倒見の良い大親分だった、という董卓の一面が浮かび上がってくる。
儒教軽視と儒教重視、秦志向と周志向、中央集権と地方分権、皇帝独裁と名士協調、宦官と外戚、濁流と清流、これらは連動していた。
西漢・東漢はこの両路線の中で、最適バランスの模索に悩まされた王朝と位置付けられる。
そして、劉宏・董卓は、東漢末における前者の立場を象徴する存在だった。
晋の司馬氏は名士一門の出身で、儒家のルールに配慮した王朝だった。西晋の統一は後者の勝利を意味し、そこで記された三国志には、勝者側によるフィルターがある。また、作者の陳寿は益州の名門である巴西陳氏の出身で、譙周に師事して儒学を修めていた。
後漢書も貴族社会の南朝劉宋で書かれた史書であり、作者の范曄は名門の順陽范氏である。やはり、後者の立場を大きく反映している。
歴史の議論は、正史である後漢書・三国志をベースに展開せざるを得ない。こうして、後世における劉宏・董卓の悪評が確立したのであった。
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