祖沖之 南朝に現れた算術の特異点

中華の度量衡について調べていると、南朝の祖沖之についての記載を認めた(丘光明、楊平 「中国古代度量衡史の概説」)。以前の暦に関する記事で見た名前ということもあり、彼の事績をまとめてみた。

円周率
隋書律暦志によると、古代では円周率を3とみなしてきた。
その状況が変わったのは王莽の新の頃。劉歆が「新莽嘉量」という度量衡の傑作を造り、その銘文中に円面積の算出法も記された。劉歆の円周率は3.1547であったと推算されている。
曹魏の劉徽は割円術(円に接する正多角形を用いる)によって円周率の算出を行い、3.14+64/62500(3.141024) <π< 3.14+169/62500(3.142704)であることを示した(算術の古典「九章算術」の劉徽註釈本)。これは紀元前3世紀のアルキメデス(3+10/71 <π<3+1/7)より高精度で、当時の世界最高水準だった。また、劉徽は3.1416という近似十進小数、157/50(=3.14)という近似分数も示した。

祖沖之は、3.1415926<π<3.1415927であるとした。算出の詳細は不明だが、これは1000年ほどの間、世界で最も精緻な円周率となった。
また、円周率の近似分数として、約率 22/7・密率 355/113の2つを示した。
これは、正則連分数(分母に更に分数が含まれるような分数=連分数のうち、分子が全て1であるもの)を用いて表される円周率の漸近分数
π= [3;7,15,1,292,1,1,1,2,…]  のうち、
[3;7] =22/7、 [3;7,15,1] =355/113 にちょうど当てはまる。
次の [3;7,15,1,292] =103993/33102 であり、分母を順に増やしていっても、52163/16604まで、355/113より高精度な近似分数は出てこない。
西洋でπ≒355/113が導き出されるまでには、1585年のAdriaan Anthonisz(オランダ人)による成果を待つ必要があった。

大明暦
中華では太陰太陽暦といって、月の満ち欠けを基準にしつつ、季節の廻りにも考慮した暦を用いていた。
太陰太陽暦では、朔望月(月の満ち欠けの周期)と太陽年をどのようにすり合わせるかが重要となる。古来より用いられた章法(19年で7回閏月を設ける)に問題があることは、祖沖之の頃既に認識されていた。章法から脱した(破章法)のは、412年の北涼・玄始暦が最初であるが、祖沖之は391太陽年で144回閏月を設ける大明暦を462年に編纂した。
また、大明暦では1太陽年を365+9589/39491日とし、1朔望月を29+2090/3939日としたが、これらの精度を上回る暦は、南宋で統天暦が施行された1199年まで出現しなかった。
大明暦が実際に採用されたのは、編纂から48年後の510年、南朝梁の時代だった。南朝の守旧的傾向と蕭衍(南朝梁の武帝)の進歩的姿勢が推し量られる。
地球の公転周期、月の公転周期、地球の自転周期。これら互いに一定の規則が見出しにくい時間尺度を、有理数でどのように近似するか。中華の暦法家が常に直面した課題であり、祖沖之による円周率の業績もその応用であると想定されている。そして、彼はその過程で連分数に到達したのかもしれない。
大明暦では、中華で初めて歳差(地軸が公転面に垂直な方向に対して半径約23.4度の円を描くように移動し、約26000年の周期で一回りすること、コマの首振り運動に例えられる)が取り入れられた。中華における歳差の発見そのものは祖沖之でなく、虞喜(三国呉から東晋を生きた天文学者)の業績である。

祖沖之は天文学者・数学者として、中国で高く評価されてきた。
1959年、旧ソビエト連邦が月裏面を撮影するプロジェクト「Lunar 3」を実施した。そこで撮影されたクレーターの1つは、祖沖之にちなんで「Tsu Chung-chi」と命名された。
1964年、紫金山天文台(南京市)で小惑星(1964 VO1:火星と木星の間にあり、太陽の周りを約4年で公転している)が発見され、「祖沖之(1888 Zu Chong-Zhi)」と命名された。
2021年、中国科学技術大学(安徽省合肥市)より、超伝導量子チップ「祖沖之(Zuchongzhi)」が発表された(Wu et al. arXiv. 2021; Wu et al. Phys. Rev. Lett. 2021)。これは先行していたGoogleの超伝導量子プロセッサ「Sycamore」(Arute et al. Nature. 2019)を上回ったとされ、前年発表された世界初の光を使った量子コンピュータ「九章(Jiuzhang)」(Zhong et al. Science. 2020)と共に、中国科学技術大学による量子コンピュータ領域のマイルストーンと評価されている。

祖沖之伝(南齊書巻52列伝第33文学、南史巻72列伝第62)の大意(ユルめ)
祖沖之 字は文遠、范陽薊(現在の北京市;南史では范陽郡遒県=河北省保定市淶水県としており、祖逖と同じである、日中のWikipediaはこちらを採用している)の人。曽祖父の祖臺之は、晋の侍中だった(南史のみで記載)。祖父の祖昌は、南朝劉宋で大匠卿(土木工事に関わる)だった。父の祖朔之は、奉朝請(もとは六品官だが格の低い扱い)だった。
祖沖之は若い頃から優れた知力を備え、宋の考武帝(劉駿)が華林園(※)にある学省を直接訪れ、邸宅・車・服を下賜した。初めての仕官は、南徐州(*)における州迎従事・公府参軍であった。

劉宋では元嘉年間(424-453年)に何承天による元嘉暦が制定され、過去の11暦法より厳密だったが、沖之はそれでもまだ疎略であると考え、新法を造った。

上表の要旨(南史では省略されている)
「古墳や古典など様々な資料から天体の動きに関する二千年以上のデータを収集し、それについて熟考してきた。古の暦は粗略で不正確だった。何承天による改革を経たが、それも簡略なものに止まり、実際の天体運行との乖離は依然大きい。私は新しい暦を造り、2つの制度変更と3つの制度新設を提唱する。
・制度変更1(破章法)
19年に7度閏月を設ける章法では閏数が多すぎた。200年経つと1日ズレ、しばしば改暦が必要であった。章法を改め、391年に144回閏月を設けられたい。そうすれば周・漢年代を超えるほど普遍性のある暦となり、将来永遠に使用され、ズレの修正は不要となる。
・制度変更2(歳差)
唐(堯の時代)から現在まで、資料と観測から、冬至における太陽位置の変転が判明した。100年足らずの間に2度ズレている(現在は約70.713年に1度と判明しており、過大評価であった)。旧法では冬至における太陽の位置が固定されており、都度ズレの修正が必要であった。冬至における太陽所在の歳歳微差を考慮することで、将来長く使用され、しばしば改暦に煩わされることが無い。
(3つの制度新設については、よく分からないので省略)
新法で煩雑になるところもあれば簡潔になるところもある。永年の使用に耐える基準を求める気持ちから、あえて改暦を提案した。もし採用いただけるなら、専門の部署を設けて、詳しく研究させていただきたい」

劉駿は暦に詳しい朝士を通じて新法の論難を試みたが、祖沖之は屈さなかった。ところが、劉駿の崩御により、新法は施行されなかった。

その後、婁県(上海市松江区の一部)の県令や謁者僕射(迎賓等の責任者)を歴任した。

宋武(劉裕)が関中(渭水盆地、長安周囲)を平定した際、姚興の指南車(人形が常に一定の方向を指し示す車)を得た。しかしながら、中の機構が無い外形のみのハリボテで、当初は人を使って動かしていた。
昇明年間(477-479年)に、太祖(蕭道成)が輔政しており、古法による指南車の修復を祖沖之に命じた。祖沖之は銅機を改造したものの、回転が止まらなかった。三国魏の馬均以来、漢人による指南車の再現は出来ていなかった。
時にボートを探している北人が居り、指南車を作ることが出来ると言った。蕭道成は彼にも指南車を造らせ、楽遊苑(※)で共同テストを行った。両者には大きな差があり、祖沖之の指南車は破壊のうえ焼かれた。

永明年間(483-493年)、竟陵王の蕭子良は古を好むため、祖沖之は欹器(いき:適量の水を入れれば水平を保つが少なくても多すぎても傾く器、孔子が魯の桓公廟で遭遇したとされる宥坐之器、出典は荀子宥坐篇)を造って、献上した。
南史によると、西晋の杜預は欹器の製作に失敗している。

文惠太子(蕭長懋)が東宮に居たころ、祖沖之の暦法を見て、世祖(蕭賾)に施行を勧めていたが、蕭長懋の急死により、また沙汰止みとなった。

祖沖之は「安邊論」を作り、屯田・農業振興を図った。建武年間(494-498年)、明帝(蕭鸞)は祖沖之に四方を巡行させ、技術指導により国民の利便を高めようとしたが、戦続きで実施されなかった。

祖沖之は鐘の音律を解き明かしてみせた。
博塞(六博=古代のボードゲームか?)の実力は当時飛び抜けており、誰も敵わなかった。
諸葛亮の木牛流馬を手本に器械を造った。風水によらず、機構自ら動き、人力を労さなかった。
千里船を造り、新亭江(江蘇省南京市江寧区)で試したところ、1日で百余里進んだ。
楽遊苑に水碓磨(水力によるひき臼)を造り、蕭鸞自ら視察に来た。
計算にとても優れていた。

永元2年(500年)、祖沖之は死んだ。享年は数え72歳。
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列伝を読む前は、大明暦を考案した南朝劉宋でなく、南朝斉で立伝されたことを疑問に思っていた。
実際読んでみると、蕭氏の大物達に頼られながら発明に勤しむ老爺の姿が思い浮かべられ、斉で立伝されたことを納得するようになった。
また、民政に心を砕く蕭鸞の様子から、彼が単なる暴君でないことを再確認した。

※華林園・楽遊苑について
曹丕(三国魏の文帝)は洛陽宮城の北に芳林園を造った。曹芳(廃帝、斉王)が即位したため、諱を避けて華林園に改称となった。
洛陽を失った東晋は当初、建康を仮の都と考えて、大幅な増築を控えてきた。ところが、時代とともに建康を天下の中心とする考えが浸透し、華林園その他建康における都城機能の整備が目立つようになっていた。前出の劉駿は、天下の中心を意味する王畿という行政区を建康に置いた。
建康の華林園は、皇帝がプライベートで庭園鑑賞や遊宴を行うスペースとして重んじられ、講義や仏事にも使われることがあった(藤井照之 「華林園と仏教」)。また、建康北側に位置する華林園は、軍事拠点としての役割も持っていたとされる(戸川貴行 「東晋南朝の建康における華林園について」)。
楽遊苑は通常、西漢(前漢)の劉詢(宣帝)が長安に造ったものを指すが、建康にも同名の景勝地が設けられていた。

*南朝劉宋における南徐州の位置づけ
東晋のころ、徐州が南北の係争地となった関係で、淮水を境として徐州を二分した。彭城(江蘇省徐州市)を中心とする北エリアと、広陵(江蘇省揚州市邗江区)を中心とする南エリアである。
南エリアの徐州(東晋)・南徐州(劉宋以後)は、北府軍の拠点として重視され、劉宋初代の劉裕も徐州刺史を務めたことがある。
劉宋にとって、南徐州刺史は建国に深く関わった歴史的意義を持ち、宗室劉氏が専らその任にあたった。例外は末期の蕭道成のみである。
ちなみに、後世の南朝梁において、陳覇先が南徐州刺史を経験している。

祖「沖」之と祖「冲」之、どちらが正しいか?
しばしば祖「冲」之と表記されている。
南齊書について、文淵閣四庫全書を底本とする漢籍リポジトリで「沖」となっているのに対し、宋大字本を底本とする漢籍全文資料庫では「冲」となっている。
南史について、文淵閣四庫全書を底本とする漢籍リポジトリ、元大徳本を底本とする漢籍全文資料庫、ともに「沖」となっている。
本記事では「沖」を採用したが、「冲」が誤りとは言い切れない。

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