劉備は袁紹の天下に半生を捧げている

それまで盧植門下の兄弟子公孫瓚の下で働いていた劉備だが、陶謙死後の徐州牧就任を機に、公孫瓚の宿敵、袁紹に臣従した。前回の投稿で師匠の盧植が袁紹の軍師であったことを理由として述べたが、陶謙と袁術の同盟決裂についても触れておきたい。

袁紹が周姓の誰か(史料によって記載が定まらない)を用いて袁術の軍事部門に相当する孫堅を攻撃してから、反董卓連盟(*)は瓦解し、群雄達の関心はポスト董卓の中華指導者となった。

*一般的には、反董卓連合と呼ばれているが、袁紹のポストが盟主である以上、連盟がより適切だと思う。中国語では反董联盟と表記されている(联≒連)。

彼らは袁紹派・袁術派に色分けされていく、特に有力であった群雄として、

袁紹派
袁紹:冀州に勢力を保持
曹操:兗州に勢力を保持
劉表:荊州に勢力を保持

袁術派
袁術(+孫堅):荊州の一部(南陽など)・司隷の一部(洛陽など)・豫州に勢力を保持
公孫瓚(+陶謙):幽州・青州・徐州・冀州の一部・兗州の一部に勢力を保持 当初の最大勢力

李傕ら董卓残党が親袁術勢力となったこともあり、序盤は袁術派が明らかに優勢であった。しかしながら、孫堅が劉表侵攻中に戦死、公孫瓚が界橋で袁紹に敗北、袁術が曹操侵攻で敗北、その隙に劉表が南陽を奪取などの出来事が転機となり、袁紹派が徐々に盛り返していった。

陶謙は194年、劉備を豫州刺史に任じている。豫州は袁術の勢力圏であり、彼の縄張りに部下の派遣を試みた陶謙の行為は明らかな背任である。この時点で陶謙は、既に袁術との連帯を失っていた。
陶謙という主を失った徐州は、いつ袁術が食指を伸ばしてもおかしくない状況だった。袁紹の庇護を求めようとした劉備や徐州人士の行動に矛盾は無い。

また、袁術と袁紹では、為政者としての優劣が明らかであった。袁術は苛政で知られ、治下の江淮地方(淮水と長江に挟まれたエリア)では、人肉食が横行する有様であった(寒冷化、戦乱による農地の荒廃も考慮すべきだが)。一方の袁紹は良政で知られ、河北で曹魏の支配が確立したのちも、袁紹の旧政を懐かしむ意見が絶えなかったという。大儒盧植の薫陶を受けた劉備から見て、過去のしがらみ抜きで考えれば、二袁のどちらに天下を取らせるべきかは明らかであったろう。

徐州牧以後の劉備は、一貫して袁紹のために動いている。曹操の下についたこと、曹操を裏切ったこと、孫呉でなく劉表を頼ったこと、全て袁紹で説明できる。袁紹がコケなければ、劉備自身天子になるつもりなど無かったのではないかとすら思える。
劉備と曹操を分けた差として、しばしば地盤を失った劉備に対し、曹操は呂布との兗州争奪戦や官渡といった危機にあっても勢力を維持し続けた、その驚異的な粘り強さこそが決定的である。しかしながら、袁紹の一方面軍で満足していた劉備の意向もまた重要であったと考えている。
三国志に掲載されているエピソードで、曹操は劉備に対し「今、天下の英雄は君と私のみだ、袁紹など物の数ではない(今天下英雄、唯使君與操耳。本初之徒、不足數也。)」と語っている。
前半部分のみが注目されているが、個人的には後半を問題としたい。袁紹のくびきから逃れることを決めた曹操から、あくまでも袁紹を推戴しようとした劉備への問いかけである。
あまりの衝撃に呆然として食器を落とした劉備の様子(先主方食、失匕箸。)が、私には自然と思い浮かべられる。

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