秦嶺淮河線とは、中華における年間降水量1000mmのラインを指す。これがちょうど秦嶺山脈と淮水(黄河以外を河と表記することは個人的に抵抗がある)を結ぶ線に一致することからそう呼ばれる。
中国語読みを踏まえてチンリン・ホワイ線と表記することもある。ちなみに英語表記はQinling-Huaihe Lineである。
北緯にするとおよそ33度に相当する。
秦嶺淮河線の北側では気候が乾燥した寡雨地帯であるのに対し、南側は適雨ないし多雨の国土が拡がっている。
また、この線の北では1月の平均気温が氷点下となり、しばしば川や湖の凍結が起こる。
さらに、この線は黄河水系と長江水系を分ける線にもなっている(たとえば、渭水盆地は黄河水系で漢中盆地は長江水系)。
気候の違いは穀物・主食の違いとなる。北は小麦による麺食(小麦が浸透するまではキビなどを主食としていた)で南は米食が中心となる。
植生に関して、北は落葉樹もしくは針葉樹が多く、南は照葉樹(常緑広葉樹の一種)が自生しやすい。
病原微生物に関しても両者の間には差があったと考えられる。
秦嶺淮河線は歴史展開に大きな影響を与えた。五胡十六国+東晋時代、および南北朝時代、どちらも多少の変動はあれど、概ね秦嶺淮河線の周囲で南北の境界が推移した。
13世紀における金と南宋の並立でも、この線が国境となった。
曹操・苻堅に代表されるように、淮水方面から建業・建康へ攻め込む試みがことごとく失敗し、西晋・隋のように四川から東へ向かう試みが成功したことについて、長江を渡河する地理的障壁のみに注目していたが、人的要素を考慮する必要があると感じている。
つまり、秦嶺淮河線の北側で生まれ育ち、そこで練られた兵は、南側の環境下だと水・食事の違いや疾病などにより、満足に稼働できなくなるということだ。現代ウマはロシアのステップ地帯(ボルガ・ドン地方)を起源としており、同様の制約を受けた可能性がある。
それに対し、四川で練られた兵なら、江南でも戦力を維持しやすいと考えられる。淮南でも条件は同じだが、大巴山脈・三峡に守られた四川と比べて、保持したまま持続的に兵を練るのが難しい。
戦国秦と西魏が征蜀を成功させたことの意義に改めて注目しておく必要がある。秦嶺淮河線の南北、黄河水系と長江水系で食糧自給の複線化を行える上に、将来荊州以東へ攻めこむための兵を練ることができるのだ。
曹魏の征蜀に際し、孫呉が永安に攻め寄せたことも同じ文脈で評価できる。圧倒的な国力を誇る魏が四川に地盤を得ることは、呉侵攻への地理的・人的ハードルを大幅に下げ、呉が生き残る道はほぼ絶たれる。呉としては少しでも有利な国境設定をしておかねばならなかった。火事場泥棒という評価は蜀漢・晋贔屓に過ぎる。
淮水方面からの建康攻略に唯一成功した侯景について、彼の拠点は河南だった。秦嶺淮河線の境界域で活動していた侯景軍にとって、建康への侵攻には、それほど支障がなかったのかもしれない。
曹操が策源地とした鄴は河北に位置し、騎兵を練る上で好適な都市であるが、華南への出征だと不利に作用し、統一事業には足りない立地とも考えられる。
南方からの攻撃に脆弱な河南洛陽へあえて遷都した曹丕は、赤壁や漢中争奪戦などの教訓から、中華の伝統云々とは別の視点で策源地を選びなおしたのかもしれない。
元宏(北魏の孝文帝)の洛陽遷都は、資治通鑑を読む限り文治推進という目論見だけのように思えたが、果たしてどうだったか。
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