曹操から見た劉備にフォーカスし、三国志を引用しながら適当に放論してみる。
・布請曰「明公所患不過於布、今已服矣、天下不足憂。明公将步、令布将騎、則天下不足定也」太祖有疑色。劉備進曰「明公不見布之事丁建陽及董太師乎」太祖頷之(呂布伝)
曹操が歩兵を率いて、呂布が騎兵を率いる。降伏した呂布による提案は、人材マニアの曹操から見て大変魅力的だった。
曹操が得意とした兵科は歩兵だった。孫子は曹操の愛読書として知られるが、軍の運用については歩兵ベースで議論されている。
并州五原郡九原県(内モンゴル自治区包頭市)出身の呂布は騎兵の扱いに長け、間違いなく当時最高クラスの騎兵指揮官だった。また、呂布は并州軍閥の代表者でもあった。
そして、そこに劉備が異言を差しはさんだのだ。劉備は幽州涿郡涿県(河北省保定市涿州市)の出身であり、騎兵の心得があった。そして、公孫瓚没落後は幽州軍閥の重鎮と見做されていたかもしれない。
劉備は暗に告げていたのではないだろうか、「騎兵指揮官なら私が居る、そのような叛服定まらない者を抱える必要は無い(并州軍閥とのパイプ役は張遼を残しておけば十分)」
そして曹操は、劉備の言い分に納得し呂布を殺した。
・表先主為左将軍、礼之愈重、出則同輿、坐則同席(先主伝)
東漢(後漢:五代のそれと区別するため)において、前後左右の将軍は四征・四鎮将軍などより格上の称号だった(劉備自身も鎮東将軍からの昇進だった)。当時で左将軍の劉備より上位の将軍号を有していたのは、大将軍の袁紹、車騎将軍の曹操、衛将軍の董承(以衛将軍董承為車騎将軍 資治通鑑巻63 199年旧暦4月)のみである。
並み居る優秀な同僚・部下達の上席へ劉備を据えた曹操、彼は当時何を考えていたのか。
ちなみに、前任の左将軍は呂布である(会使者至、拜布左将軍 呂布伝:資治通鑑によると197年5月の出来事)。劉備が左将軍に昇進したタイミングは不明だが、呂布滅亡(198年12月)の直後と思われる。
・今天下英雄、唯使君与操耳(先主伝)
曹操と劉備の関係を語る上で必ず持ち出されるこのフレーズ。曹操は、自身に並ぶ天下の英雄として劉備を評価していた。
・公将自東征備、諸将皆曰「与公争天下者、袁紹也。今紹方来而棄之東。紹乘人後、若何?」公曰「夫劉備人傑也、今不擊必為後患。袁紹雖有大志、而見事遲。必不動也」(武帝紀)
曹操は、袁紹という大敵を後回しにしてまで、徐州で独立しようとした劉備を自ら征伐した。
・将北征三郡烏丸、諸将皆曰「袁尚亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能為尚用?今深入征之、劉備必説劉表以襲許。萬一為変、事不可悔。」惟郭嘉策、表必不能任備、勧公行(武帝紀)
袁家・烏丸に対する北征軍を起こそうとした曹操陣営にとって、最大の懸念材料は劉備だった。もし劉表に劉備を活用する器量があれば、北方の平定は不可能だった。
・十三年(建安13年=208年)春正月、公還鄴、(中略)秋七月、公南征劉表。八月表卒、其子琮代、屯襄陽、劉備屯樊(武帝紀)
大規模な北征から戻ったばかりの曹操だが、わずか半年で荊州への南征を開始した。
劉表の老病につけこんだという説明が主になされるが、曹操の行動原理からすると、代替わりに伴う劉備の荊州掌握を恐れた、という理由の方が大きいかもしれない。
・公至赤壁、与備戦、不利(武帝紀)
周瑜・程普ら孫権軍が赤壁の主戦であり、劉備軍は近くをウロチョロしていただけという見解が定着している。しかしながら、こうして正史を見ると、赤壁で曹操に苦杯をなめさせた相手は劉備だったという実態が浮き彫りになってくる。
三国志演義から入ると意外だが、劉備は極めて厄介な梟雄だった。勢力の小さいうちでも曹操が親征しないとなかなか倒せず(例外は汝南で曹仁が勝てたくらい)、倒しても逃げられ後日必ず勢力を盛り返す。そして、互角に近い条件を揃えられると曹操でも勝てない。曹操が劉備に敗れた戦役として漢中争奪戦が有名だが、実は赤壁もそうだったのだ。
赤壁で劉備の働きが過小評価されていることについて、史料の偏りによる部分が大きいように思う。三国志は西晋統一期に書かれており、晋と禅譲元である魏の国家観を踏まえる必要があった。また、三国志は韋昭らによって編纂された呉書を参照しており、呉はある程度自国の公式見解を残すことができた。蜀漢については、公的な史書がなく、陳寿個人で書き進めるしかなかった。
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