賈南風を強引に再評価する

賈南風は西晋の2代皇帝、司馬衷の皇后である。権力闘争に多くの重臣・宗族を巻き込み、八王の乱の引き金となったド悪女として有名である。
西晋滅亡の主因として挙げられることの多い人物であり、その事自体に異論を挟むのは難しいが、現在に至るまでの悪評は誇張されすぎのようにも思われる。

賈南風の立場は非常に脆いものであった。父の賈充に男子は居らず、親戚から養孫として賈謐を迎える異例の処置で辛うじて家を存続させていた。外戚として頼りになる親族は期待できず、遠戚らしき賈模を重用せざるを得ない有様であった。
司馬衷が皇太子であった頃、皇太子妃に誰を迎えるかで議論になった。対立候補だった衛瓘の娘でなく、賈南風が選ばれた要因の1つに、当時の皇后・外戚である楊氏の意向があったとされる。皇太子妃の氏族は次世代の外戚、つまり楊氏にとって将来のライバルとなりうる。衛瓘には多数の男子が居り、賈南風を皇太子妃に据えようとした楊氏の動きは当然のものであった。

そのような背景のため、司馬炎が崩御して司馬衷が皇帝になった後も、しばらくは皇太后とその外戚である楊氏の優位が続いた。賈南風としては面白くないが、自身とその外戚だけでは楊氏に到底敵わない。そこで目を付けたのが、皇帝である司馬衷の権威だった。外戚として朝政を壟断していた楊駿の官位剥奪、楊太后の廃立、いずれも詔に基づいている。もちろん、賈南風らによる説得あってのものだが、最終的に決めたのは司馬衷自身であった。

ようやく楊氏を排した賈南風であったが、外戚や自派閥のみでの政権運営は困難であり、司馬氏の長老司馬亮や重臣衛瓘を参画させる必要があった。司馬亮・衛瓘は楊駿殺害の実行犯であった司馬瑋の権限剥奪を試みたため、司馬瑋は両者の讒訴を賈南風に行い、結果司馬衷の詔を得た。司馬瑋は詔を根拠に司馬亮・衛瓘を処刑したが、一方で賈模が司馬亮・衛瓘を救援する旨の詔を受けていた。後日、司馬瑋は矯詔(詔を矯める、詔の捏造・改竄を行うこと)の罪により処刑された。
現在までの主流は、司馬亮・衛瓘・司馬瑋その全てが賈南風による謀殺と考える歴史観である。しかしながら、従来の観点では、賈模の詔を上手く説明できない。司馬瑋と賈模、どちらの行動に賈南風の真意が込められていたかを考えれば、後者と考えるのが自然である。司馬瑋が詔を曲解して暴走し、司馬衷・賈南風の意図しない結果をも招いたことからケジメをつけたという解釈は十分成立しうる。

司馬亮、衛瓘亡き後も賈南風のバランスに配慮した政権運営は続く。続いて朝政を担ったのは張華と裴頠であった。張華はかつて賈充の政敵であり、賈南風に対してもしばしば諫言を行った。裴頠は賈氏の姻戚であるにも関わらず、張華や賈模と共に賈南風の廃后を議論した。以上からわかる通り、彼らは決して賈南風におもねったことで重用された朝臣ではなかった。輿論への配慮を欠かせない程度の権力基盤であったとはいえ、名声や実績に基づいた超党派人事を行うだけの器量を賈南風が備えていたということである。賈南風が主導権を握りつつ、外戚のみでなく朝臣・宗族をバランスよく配置した10年弱、取り立てるほどの失政はなかったようである。

ようやく政治的基盤が安定しつつあった賈南風だが、残念ながら男児を得ることができなかった。自らが持つ権力の持続性について、大きな不安とともに過ごす日々であったろう。賈南風には、多くの男を引き込んで交合しては殺したという逸話があり、その事実性は疑問だが、男児を得るために必死の試みがあったとしても不思議はない。

皇太子の司馬遹は実子でなく、関係も良好とは言えなかった。また、反賈南風勢力にとって司馬遹は格好の神輿であり、彼にクーデターを勧める者も居たようである。司馬遹との衝突は不可避な情勢となったため、賈南風はその排除を決めたが、その道筋は相当に手の込んだものであった。司馬遹を泥酔させた上でクーデターを暗示する祈祷文を書かせ、それを見た司馬衷が廃太子(処刑の予定が張華・裴頠の反対により妥協した)の詔を発したのだ。ここで注目しておきたいのは、詔という形で司馬衷自身の意向を踏まえていたこと、司馬遹の真筆を用意したことである。

司馬倫と孫秀は、司馬遹の復位のための謀略を持ちかけられたが、逆に賈南風に司馬遹を殺させることで政権転覆の大義名分とする計略を実行した。彼らは司馬遹を殺させたあと、詔を背景に政変を実行し、賈謐・張華・裴頠らを殺害(賈模はこの時点で故人)、賈南風も廃后された後に毒酒を飲んで自殺させられた。クーデターの根拠となった詔だが、実は孫秀の筆による矯詔であった可能性が高い。

事績を細かく振り返ると、賈南風は権勢を振るいつつ常に司馬衷自身の意向に気を配り、また輿論への配慮も怠らず、決して与党といえない朝臣や皇族もバランスよく任用していた。一旦排除を決めた政敵に対する容赦の無さは確かにある。しかしながら、矯詔を濫発し、賈南風政権の重鎮を問答無用で一掃した司馬倫と比べれば、賈南風の悪辣さなど些細なものであると思えるのだ。

次は夫である司馬衷の再評価を試みたい。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次