司馬衷を強引に再評価する

前回の投稿で、賈南風について強引に再評価を行った。続いて司馬衷を擁護してみたい。

賈南風は苛烈な性情を持つものの、最終的には司馬衷自身の判断を尊重する妻であった。帝位を得るに相応しいか司馬炎が課した試験を彼女のおかげでクリアできた(晋書の記載だが事実性に疑義あり)。そんな賈南風に対し、司馬衷は政権運営上の信頼と自由を一貫して与え続けた。

賈南風を失った後、司馬衷が味方した王は司馬乂と司馬越である。
司馬乂は八王の乱において数少ない良識的な行動をとったプレーヤーで、朝政の第一人者でありながら、司馬衷や皇太弟司馬穎を尊重した政権運営を行っていた。
司馬越は経歴から保身や権力闘争に走り過ぎた印象を持つが、一方で地方軍閥化により空中分解しつつあった西晋を束ねようとした試みも散見される。また司馬越は、尚書右僕射・侍中という要職で賈南風政権に参画していた。
乱の主要人物を見比べたとき、賈南風・司馬乂・司馬越を選んだ司馬衷の判断は私自身かなり共感できるのだ。

司馬衷は餅を食べたあと急死し、皇太弟の司馬熾が即位した。
司馬越による毒殺という風説もあるが、司馬越に司馬衷を殺す理由はない。司馬熾を皇太弟に擁立したのは司馬越の政敵だった司馬顒である。司馬熾の皇帝即位は、司馬越にとっての不安要素でしかなかった。対して司馬熾からすると、後ろ盾である司馬顒から司馬越への権限移譲が不完全なうちに、皇帝即位の既成事実を作る動機があった。司馬衷は306年11月に急死しているが、司馬顒が死んだのは306年12月で、ギリギリのタイミングだった。
自身に不利な情勢の変化であるにも関わらず、司馬越は司馬熾擁立に協力しており、挙国一致・滅私奉皇と表現すべき気概が感じられる。八王の乱を収束させた司馬越は西晋の立て直しを目指していたが、残念ながら司馬熾は彼を再び政争の舞台に引き戻したのであった。

司馬衷は確かに愚鈍であり、自ら統治を行う能力はなかった。けれども、誰に委ねるべきかの判断は比較的適正であったと思われるのだ。自らは動かずとも徳性・善性を示し続けることで天下を治める、皇帝の判断への信頼により詔が非常に重く受け止められる、司馬衷は儒家が理想とする聖天子の在り方を踏襲しようとしたのではないだろうか。実際、在位前半における司馬衷の権威は、外戚・宗族・権臣であっても無視できない重みをもっていたように思われる。しかしながら、皇帝の意思決定を経ることなく矯詔を濫発した司馬倫・孫秀により司馬衷の権威は毀損され、司馬穎に対して行った親征の失敗により、その失墜は決定的なものとなった。

以上2回の投稿で賈南風と司馬衷についての擁護を試みた。史料を色々見ていくと、二人がパートナーとしてしっかり連帯していた様子が何となく透けてきて、世間のように悪女&無能と切り捨てるのを惜しいと感じるようになった。
西晋にとっての不幸は、従来から唱えられている賈南風の専断や司馬衷の暗愚でなく、司馬衷が信任した賈南風・司馬乂を八王の乱により失ったこと、そして最後に選んだ司馬越と共に歩む間もなく司馬衷自身がこの世を去ったことであったように思われてならない。

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