朱齢石の征蜀

慕容白曜について調べていると関連キーワードとして朱齢石の名前が出てきた。
なんでも譙蜀(後蜀:五代十国のそれと区別したいので)を攻め滅ぼした名将であるという。譙蜀の滅亡は劉裕の功績としか認識していなかったので、資治通鑑に当たってみた。年は西暦だが、月は旧歴に従う。

資治通鑑抄訳(412年11月~413年7月)

412年
11月、東晋の太尉である劉裕は蜀の征伐を謀ったが、元帥の人選は難航していた。西陽太守の朱齢石は武の業前を備え、官吏としての職務にも熟練していることから、彼を用いようと思った。人々はみな齢石の身分や名声がまだ乏しいため、重任は荷が重いと考えていたが、劉裕は従わなかった。

12月、劉裕は朱齢石を益州刺史とし、寧朔将軍の臧熹・河間太守の蒯恩・下邳太守の劉鍾らを率いさせ、蜀の征伐を開始した。大軍の半分を分け、2万人を征蜀に配した。臧熹は劉裕の妻の弟で、位は齢石より上だったが、これを朱齢石に隷属させた。
劉裕と朱齢石は密かに侵攻を謀り、言った「劉敬宣(劉牢之の子)がかつて黄虎(四川省遂寧市)に出撃したが功無く退却した(408年7月、巻114参照)。賊(譙縦ら)は我らが今まさに外水(岷江)に沿って行くと言っているが、我らがその不意をついて内水(涪江)から来る可能性を考慮している(巴郡江州県=重慶市渝中区から2つの水路があり、成都に向かうものを外水、涪=四川省綿陽市涪城区に向かうものを内水という)。このため、彼らは内道に備えるため、涪城の守備に多くの兵を置くだろう。もし黄虎に向かえば、まさに彼らの術中にはまることになる。いま大軍で外水から成都を取るよう見せ、かつ内水への出兵を疑わせたなら、これは敵を制する奇策となる」
しかしこの謀を事前に明らかにすれば、賊は真実を見抜く。別に函書(手紙)を封じて齢石に渡した。その函書のそばにはこう記してあった「白帝(重慶市奉節県)に着いたら開けろ」
諸軍は行先と理由を知らないまま進軍した。
毛修之は行くことを固く請うた。劉裕は毛修之が蜀に行けば、誅殺が多く行われ、原住民と毛氏の対立から、敵が死守するようになると憂慮し、許可しなかった(毛修之の父である毛瑾は譙縦に殺されている)。

413年
6月、朱齢石らは白帝に到着し、函書を開けると、こうあった「衆軍はことごとく外水に沿って成都を取れ、臧熹は中水(沱江)に沿って広漢(四川省徳陽市広漢市)を取れ、老兵弱兵を高艦10余りに乗せ、内水に沿って黄虎に向かえ」
こうして諸軍は倍の速度で昼夜兼行した。はたして譙縦は重兵を率いて涪城を鎮守するよう譙道福(かつて劉敬宣を撃退した将)に命じ、内水に備えた。
齢石は成都から200里離れた平模(四川省眉山市付近か)に到着した。譙縦は秦州刺史の侯暉と尚書僕射の譙詵に兵1万余を授け、平模の駐屯に向かわせ、岸を挟んで築城して朱齢石軍を防いだ。齢石は劉鍾に言った「いま天の時は盛んで熱い、しかし賊は厳重に守備しているので、攻めても抜けるか分からず、疲労困憊を増すだけかもしれない。兵を休めて鋭気を養い彼らの隙を伺ってはどうか」
劉鍾は言った「それは違う。さきに大軍を内水に向かわせると喧伝し、譙道福は涪城をあえて捨てなかった。いま重軍はにわかに到着したばかりで、彼らの不意をついて出撃すれば、侯暉のようなやつらは胆をつぶすだろう。賊は兵をたのんで難所を守る者、あえて出戦しないのは彼らが恐れているからだ。この恐怖を理由に鋭気を尽くして彼らを攻めれば、その勢いは必ず勝つ。平模で勝った後、鼓を鳴らしながら進軍すれば、成都も決して守ることはできない。もし兵を緩めて守りあえば、敵はわが軍の配備状況を知る。涪軍(譙道福軍)はたちまち来着し、力を合わせて我らを拒む。人情はもはや安定し、良将(譙道福)もまた集まる。この段階で戦を試みても成果はなく、兵糧は尽き、2万余人はことごとく蜀の捕虜となるだろう」
齢石は劉鍾の助言に従った。川北の城は地が険しく兵が多いため、諸将は南城を先に攻めるよう望んだ。齢石は言った「いま南城をほふっても、北城を破るには足りない。もし鋭気を尽くして北城を抜けば、南城は戦わずとも自ら散ずるだろう」

7月、齢石は諸軍を率いて北城を急攻して勝ち、侯暉・譙詵を斬った。兵を転じて南城に向かったところ、南城は自潰した。
齢石は船を捨て、徒歩で進軍した。譙縱の大将である譙撫之は牛脾(四川省成都市簡陽市)に駐屯し、譙小苟は打鼻(四川省眉山市彭山区にある山)を塞いだ。臧熹は譙撫之を攻撃し、これを斬った。譙小苟はこれを聞き、また潰えた。こうして譙縱の諸軍営は形勢に従って相次いで潰走した。
譙縱は成都を棄てて逃げ出した。蜀の尚書令である馬耽は府庫(財貨や文書などを貯めるくら)を封じて東晋軍を待った。齢石は成都に入り、譙縱の親族を誅殺したが、他の者はみな安堵し、復職させた。
譙縱が成都を出るに先立って墳墓へ報告した際、彼の娘は言った「逃げても免れることはできず、辱められるだけだ。死ねば、先人と同じ墓に入ることができる」
譙縱は従わなかった。
譙道福は平模の防衛失敗を聞き、涪より兵を転じて成都に向かい、譙縱は譙道福のもとに行って身を投じた。譙道福は譙縱に会うと、怒って言った「大丈夫(譙縱)はかくの如き功業があったのに、これを棄てて安楽に帰したというのか。人はみな死ぬ、どうしてそれほど甚だしく怯えるのか」
こうして譙縱に剣を投げつけ、剣は譙縱の馬鞍に当たった。譙縱は譙道福陣営から去り、自ら首くくって死んだ。巴西(重慶市と四川省東部にまたがる地域)の人である王志が譙縦の首を斬って齢石に送った。
譙道福は兵達に言った「蜀の存亡はまこと我らにかかっている。王の譙縦は不在だが、いま我らがおり、なお一戦するには十分である」
兵達はみな許諾した。譙道福は金帛(金と絹)をことごとく散じて兵たちに下賜し、兵達は受けたのちに逃げた。譙道福は獠(西南地方に住む少数民族)の中に逃げたが、巴(重慶市と四川省東部にまたがる地域、巴西より南)の民である杜瑾が譙道福を捕らえて送り、譙道福は軍門で斬られた。
齢石は馬耽を越巂(四川省西南部と雲南省東北部にまたがる地域)に移した。馬耽は彼の従者に言った「朱侯(朱齢石)が私を京師(東晋の首都である建康)に送らなかったのは、口封じをしたいからである(朱齢石は蜀の府庫から大量に着服したという)、私は決して免れない」
手や顔を洗って横になり、縄に引かれて死んだ。まもなく、齢石の使者が来て、馬耽の死体を辱めた。
詔により、齢石は監梁・秦州六郡諸軍事に進み、豊城県侯の爵を賜った。

放論
こうして実際読んでみると、サプライズ人事を行ったうえで戦争全体をデザインした劉裕の凄みが際立ち、朱齢石自体は慕容白曜に匹敵するほどの名将とは思えなかった。

長江支流の進軍ルートに関する劉裕と譙縱の駆け引きが面白かった。慕容垂と翟釗による黄河をめぐる駆け引き、慕容垂と慕容永による太行山脈をめぐる駆け引きなど、個人的に結構好きな分野である。
ただ、劉裕や慕容垂を相手に、複数ルートがあるうち1つでも突破されたら終わり、という戦いを挑むのはあまりにも筋が悪い。三峡(長江には重慶市奉節県から湖北省宜昌市までの間に3つの峡谷があり、上流から瞿塘峡・巫峡・西陵峡)に防衛線を張れなかった時点で正直厳しかった。
よく考えると、劉備と劉璋、桓温と李勢の間でも同様の駆け引きが行われていたはずであり、掘ってみると面白いかもしれない。

その後の朱齢石だが、劉裕による後秦征服の際は、劉穆之とともに建康の留守を預かった。劉裕の凱旋後は関中(陝西省、渭水盆地付近に相当)の守備に赴いたが、赫連夏の襲撃によって捕らえられて死んだ。
この末路も朱齢石を名将と位置付けることに躊躇する理由となっている。

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