後漢から西晋まで、その根底にあるもの

後漢(*)から曹魏、曹魏から西晋に至る王朝交代には、歴史的必然性があった。その背景について概説する。

*五代十国の後漢と区別するため、このブログにおいて前漢・後漢ではなく、西漢・東漢と表記する

長期政権となった東漢だが、外戚の専断に対するカウンターとして皇帝権の強化を目指した、宦官の跋扈はその結果である。また、行財政改革目的もあったようだが、売官・汚職などが横行するようになっていた。そして、こうした風潮を正そうとした清流派官僚は党錮の禁により弾圧された。

そのため、東漢政府は民衆・知識階級(名士)の支持を急速に失っていく。まず民衆が不満を爆発させ、その結果が黄巾の乱となって現れた。皇甫嵩や盧植らの働きもあって黄巾は鎮圧されたが、続いて東漢を中華古来の儒教的価値観に立脚した徳治主義に改めようとする名士達の動きが起こった。

最初に目を付けられたのは宗族の劉虞であったが、儒家かぶれの常で戦争に弱く公孫瓚に敗れた。続いて徳治主義勢力の旗頭となったのは、臣下として最高の名声を持つ袁紹だった。宦官の誅殺、領内の善政、異民族烏丸との融和など、為政者として名士好みの資質を示しており、各所の期待を集めた。一方で、袁紹に乱世を束ねるだけの実力があるか疑問視する名士も居り、その代表が潁川人士の荀彧であった。荀彧の眼力と支援がものを言ったのか、結果的に乱世を制する一番手として名乗りをあげたのは、袁紹でなく曹操であった。

数百年続いた秩序の変革には抵抗もあったが、東漢が衆望を失っていたこともあり、曹魏への禅譲は少しずつ進行していった。一方で、要職に就ける見込みの乏しい華南の名士や曹操による虐殺で影響を受けた徐州人士(たとえば諸葛亮、魯粛)など、曹魏以外の勢力を頼る必要のある者達も少数ながら居た。劉備は善政で民から愛され、その経歴の多くが袁紹の立身に捧げられていた。そのため、袁紹に続く徳治主義勢力の象徴として劉備に期待する風潮もあったが、十分な実力を得られなかった。

結果主義・法治重視で、皇帝集権を志向して諸侯の力を削ぐ曹魏の統治法が明らかになるにつれ、名士の不満は次第に大きくなっていった。儒家の薫陶を受けた名士の一門の中で、結果主義の曹魏にあってなお頭角を現したのが司馬懿である。そのため、司馬氏に政権を取って代わって欲しいと思う名士が次第に増えていった。

その後に登場した司馬昭は、当初司馬師を支える役割を担っていたこともあり、輔弼に徹する姿勢や謙譲の美徳を示し、周公旦を理想とする知識階級には大変好ましい指導者として受け止められた。皇帝弑殺に間接的に手を貸す事件(高貴郷公の変)を起こしたにもかかわらず、司馬昭の皇帝即位を望む意見は根強く、蜀漢征服の功績により皇帝即位の一歩手前まで至った。司馬昭の死後に跡を継いだ司馬炎は、魏からの禅譲と呉の征服を成し遂げた。

こうして中華を統一した西晋であったが、徳治主義・名族重視・地方分権と中華古来の儒教的価値観に立脚せざるを得なかった。その結果、皇帝の権力は相対的に弱く、一方で外戚・諸侯王の力が無視できないほどに強くなった。最終的には、こうした西晋の特徴が王朝の短命を決定づけた。

三国志ファンには、魏・呉・蜀漢のいずれでもない西晋が天下を取ったことをバッドエンドと解釈している傾向があるように思うが、劉虞・袁紹・劉備と挫折続きだった徳治主義勢力が、最終的に司馬氏を担ぐことで天下を取った結末は、ある意味ハッピーエンドであったとも考えられる。

また、長期統一王朝であった漢を絶対視し、その崩壊を惜しむ歴史観は比較的根強いが、東漢がその終末期に民衆・名士からどれほど愛想を尽かされていたか、という視点で曹魏による王朝交代を再評価する必要もあるだろう。

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