遼東の鮮卑に渡河渉帰がいた。若洛廆が跡を継いで部族長となり、慕容氏に改めた。慕容廆には妾腹の兄がおり、それが吐谷渾であった。
吐谷渾は父渉帰から部民1700家(左記は晋書による、魏書・北史では700戸)が割り当てられていた。慕容廆と吐谷渾の馬同士が争ったことにより、吐谷渾は中国の東北部から西へ向かった。
西晋の混乱により吐谷渾の部民はさらに西へ向かい、結果的に西方の羌や氐を従えつつ青海地方に根を下ろした。
700もしくは1700世帯という少数でありながら、支配階級となりえたのは彼らが騎馬民族として持つ高い戦闘力と関わっている。ただし、その道のりは険しかったようで、吐谷渾の息子である吐延は羌に刺殺されている。
吐延の長男である葉延は祖父の名である吐谷渾を自身の氏とし、国号ともした。
前秦が中華西方を掌握すると、吐谷渾はその藩国となった。前秦崩壊後は西秦に臣従したが、一方で西域の権益を争いしばしば衝突している(峰雪幸人 「五胡十六国時代における交通・交易と北アジア世界」)。
その後吐谷渾は赫連夏に従属し、西秦と対立している。夏は北魏の圧迫を受けて西進したが(この道中に西秦は滅ぼされた)、吐谷渾は夏を裏切って壊滅させ、皇帝の赫連定を北魏に送った。この際、吐谷渾は西秦の故地であった河南(甘粛省西部で黄河以南)の地を欲し、河南王の称号を求めたが、北魏はこれを拒否し、吐谷渾と対決する構えを見せた(和田博徳 「吐谷渾と南北兩朝との關係について」)。
南北朝期の吐谷渾は、原則的に南朝側へ与する勢力だった。
南朝は吐谷渾を仲介することによってのみ西域との交流が可能だったのだ(小谷仲男、菅沼愛語 「南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注」)。
また、南朝がしばしば柔然と結んで北魏への挟撃を試みたことは、南北朝史において非常に重要な外交的視点であるが、この南北間の連絡を取り次いだのは吐谷渾であった(和田博徳 「吐谷渾と南北兩朝との關係について」)。
とはいえ、圧倒的な軍事力を誇る北魏に対しては現実的な折衝が必要であった。444年から445年、吐谷渾は北魏の侵攻により一時的に滅亡した(榎本あゆち 「南斉の柔然遣使 王洪範について」)。北魏の大討伐を受けた473年の翌年より、吐谷渾はしばしば北魏への遣使を行うようになった。
西域交通の主要ルートは河西回廊であったが、北魏と柔然の権益争いが熾烈となり、バイパスとして吐谷渾の支配する青海湖とツァイダム盆地が重要になった(「南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注」)。
北魏分裂後は東魏・北斉と結び、西魏・北周と衝突している。これについては、西域の権益を西魏・北周と争った影響が大きいと思われる。
河西回廊を西魏に押さえられた東魏は西域との交通に苦労したが、吐谷渾の仲介によって柔然経由のルートを開拓した(後藤勝 「東魏・北斉期の西域人」)。
西魏・北周は侯景の乱に乗じて蜀を領有し、南朝梁と吐谷渾の連絡を絶つと、柔然に置き換わった突厥と連携し、吐谷渾を攻撃した(菅沼愛語 「西魏・北周の対外政策と中国再統一へのプロセス」)。
西魏・北周による支配域・権益の浸食が吐谷渾の衰運を決定づけた。
吐谷渾は隋・唐による圧迫も受け弱っていたところに、チベット系の吐蕃がソンチェン・ガンポのもとで勃興した。
663年、吐谷渾は吐蕃(ソンチェン・ガンポ死後でガル・トンツェンが執政していた)により滅ぼされた。
吐谷渾の王族は唐に亡命し、青海国王・慕容氏として800年頃まで活動した。
青海国消滅後も帰義軍(吐蕃に反抗し敦煌を中心として樹立した独立政権)や北宋禁軍の中に吐谷渾の名が見え(村井恭子、市来弘志 「周偉洲『吐谷渾墓誌通考』」)、軍の一系統として活動していたものと思われる。
葉延による吐谷渾国樹立から吐蕃による滅亡まででも300年を超える月日を経ている。
これは、同族の前燕を始めとする五胡十六国の諸国はもとより、同じ鮮卑系の北魏(386-535、代や西魏をカウントしても300年には満たない)や唐(618-907)よりも長く存続している。
五胡(匈奴・羯・氐・羌・鮮卑)としての最長政権は、吐谷渾だったのだ。
コメント