五胡十六国時代に華北を統一し、中華統一にあと一歩のところまで迫った苻堅。彼の動きは淝水の戦いを中心にクローズアップされがちだが、今回は彼が前秦の君主となるまでを追ってみた。
苻堅は民族融和の理想を追い求めた仁徳の君と称されるが、実際のところそんな大層なものじゃないと思っている。
苻生から簒奪を行った結果、前秦の権力基盤であった者達との断絶が生じ、支持層を新たに開拓する必要があったから慕容垂・姚萇らを重用しただけなのではないか。実際のところはどうだったろう。
長文である。年は西暦だが、月は旧歴に準じる。
前史
後趙崩壊後、関東(函谷関より東)では前燕、関西では前秦が伸張した。一方で東晋も中華恢復の好機として北伐を目論んでいた。
353年7月、前秦各地で反乱が起こり、東晋の後ろ盾を求めた。東部方面からの北伐は殷浩と姚襄の決裂によりご破算となったが、354年2月に桓温が荊州方面から攻めてきた(桓温の第一次北伐)。東晋の漢中方面軍や前涼とも連携し、内憂外患の前秦は滅亡の危機を迎えた。しかし、皇帝苻健の弟であり、苻堅の父でもある苻雄、彼が八面六臂の活躍をしたことで危機を脱しつつあった。
資治通鑑抄訳 354年6月~357年11月
354年
6月、秦の東海王である苻雄は雍(陝西省宝鶏市鳳翔区)で喬秉(反乱勢力の一人)を攻めていたが、死んだ(諡号は敬武)。秦主の苻健は泣いて血を吐くと言った「天は私が四海(世界)を平らげることを欲していないのか。どうして私からこれほど早く元才(苻雄の字)を奪ったのか」
苻雄に魏王を贈り、葬礼は晋の安平献王(司馬孚)の故事に従った。苻雄は君主の補佐を使命として建国に絶大な功績があり、権勢は人主(苻健)に匹敵していたが、へりくだってうやうやしく、分け隔てなく人々を愛し、法令を遵守した。そのため、苻健はこれを重んじ、常に言った「元才はわが周公(周公旦=姫旦)なり」
苻雄の子である苻堅が東海王の位を継いだ。苻堅は孝行を尽くし、幼少時より志と度量があり、博学・多能で、英雄・豪傑と交わりを結んだ。呂婆楼(呂光の父)、強汪、および略陽(甘粛省天水市・陝西省漢中市をまたがるエリア)の梁平老は、みな苻堅と親しかった。
7月、秦の太子である苻萇は雍で喬秉を攻めた。
8月、苻萇は喬秉を斬り、関中(渭水盆地付近)はことごとく平らかとなった。
秦主の苻健は桓温を拒んだ功を賞し、雷弱兒を丞相、毛貴を太傅、魚遵を太尉、淮南王の苻生(苻健の息子、のちの前秦第2代皇帝)を中軍大将軍、平昌王の苻菁(苻健の甥、苻堅の従兄)を司空とした。苻健は政事に勤め、しばしば公卿を招き、統治の道を諮り講じた。趙人が虐げ贅沢した後を承けるに、心がひろく節約する風潮に置き換え、儒士を重んじた。これにより秦の人(陝西省から甘粛省にかけての住人)は前秦の統治を悦んだ。
9月、桓温は伐秦より還り、帝(司馬聃=晋の穆帝)は侍中・黄門を襄陽(湖北省襄陽市)に派遣し、桓温をねぎらった。
秦の太子である苻萇が桓温を防いだとき、流れ矢に当たっていた。
10月、苻萇が死んだ、諡号は献哀。
桓温が関中に入った時、王擢は遣使して前涼の王である張祚に告げて言った「桓温は用兵に優れ、その志は計り知れない」
張祚は桓温を恐れ、また王擢が己に叛くことを憂慮し、人を遣わして王擢を刺そうとした。事がもれ、張祚はますます恐れ、大兵を発して東伐すると言いながら実際には西の敦煌(甘粛省酒泉市敦煌市)を確保しようと欲したが、ちょうど桓温が還ったので止めた。一方で、張祚は秦州刺史の牛覇らに兵3千を授けて王擢を攻撃し、これを破った。
11月、王擢は兵を率いて秦に降り、秦は王擢を尚書とし、上将軍の啖鉄を秦州刺史とした。
秦王苻健の叔父で武都王の苻安は晋より還る途中、姚襄に捕らえられ洛州刺史となっていた。
12月、苻安は秦に亡命し、苻健は苻安を大司馬・驃騎大将軍、并州刺史とし、蒲阪(山西省運城市永済市)に出鎮させた。
この年、秦は大いに餓え、米1升が布1匹に値した。
355年
2月、秦で大層な蝗害があり、百草で遺るものはなく、牛馬は毛を食らいあった。
4月、秦の淮南王である苻生は幼い頃から片目がなく、性格は粗暴だった。彼の祖父である苻洪はかつて戯れに彼へ言った「片目が見えない子も涙を流すというが、本当か」
苻生は怒ると佩刀を引いて自ら刺して出血させ言った「これがその涙だ」
苻洪は大いに驚き、苻生を鞭打ったが、苻生は言った「刃物に耐えたのだから、鞭打ちなど耐えられるに決まっている」
苻洪は苻生の父である苻健に言った「この子は非常識で道義にそむく言動をする、早く除いた方が良い。そうしなければ、必ず家を破る」
苻健は苻生を殺そうとしたが、苻健の弟である苻雄が止めて言った「子供は成長するにつれて自然と改まるもの、急いでことを行うべきではない」
苻生が成長すると、力は千鈞(1鈞=30斤、1斤=16両、1両=14~50g)を挙げ、素手で猛獣と戦い、走れば奔馬に追いつき、斬撃・刺突・騎馬・射撃の各技術が当時としては比類のないものだった。献哀太子(苻萇)が死に、強后(苻健の正妻)は年少の子である晋王の苻柳を立てることを望んだ。苻健は予言文に「三羊五眼」とあったことを理由に、苻生を立てて太子とした。司空で平昌王の苻菁を太尉とし、尚書令の王墮を司空とし、司隸校尉の梁楞を尚書令とした。
6月、苻健は病で臥せた。4日後、平昌公の苻菁は兵を率いて東宮に入り、太子である苻生を殺して自立しようとした。当時苻生は西宮(苻健の居所)で看病していた。苻菁は苻健が既に死んだと考え、東掖門を攻めた。苻健は変を聞き、端門に登ると兵を並べて自衛した。人々は苻健を見て恐れおののき、みな武器を捨てて逃げ散った。苻健は苻菁を捕らえ、責めた後に殺したが、他の者は不問とした。
2日後、大司馬・武都王の苻安を都督中外諸軍事(全軍の指揮権を有する職位、苻雄死後に苻菁が引き継いでいた)とした。さらに2日後、苻健は太師の魚遵、丞相の雷弱兒、太傅の毛貴、司空の王墮、尚書令の梁楞、尚書左僕射の梁安、尚書右僕射の段純、吏部尚書の辛牢らを引見し、彼らは統治を輔佐するよう遺詔を受けた。苻健は太子の苻生に言った「六夷(蛮族)の族長や大臣として執権する者で、お前の命に従わない者は、徐々に彼らを除くとよい」
次の日、苻健は死んだ(数え39歳)。諡号は景明皇帝、廟号は高祖。その翌日、太子の苻生が即位した(苻生の字は長生で、苻健の第3子)。大赦し、寿光に改元した。群臣は奏上して言った「年を越えずして改元するのは非礼である」
苻生は怒り、首謀者を調べ上げたところ、尚書右僕射の段純だったため、これを殺した。
7月、苻生は母の強氏に皇太后の尊号を与え、妃の梁氏(梁安の娘)を立てて皇后とした。寵臣で太子門大夫だった南安(甘粛省定西市一帯)の趙韶を尚書右僕射とし、太子舎人の趙誨を中護軍とし、著作郎の董栄を尚書とした。
8月、苻生は衛大将軍の苻黄眉を広平王に封じ、前将軍の苻飛を新興王に封じ、彼らは皆素行が良かった。大司馬で武都王の苻安を徴集して領太尉とした(都督中外諸軍事として要衝の蒲阪に居たのを召し寄せた)。秦王の苻柳を征東大将軍・并州牧として蒲阪に出鎮させた。魏王の苻廋を鎮東大将軍・豫州牧として陝城(河南省三門峡市陝州区か)に出鎮させた。
中書監の胡文・中書令の王魚は苻生に言った「大角(うしかい座α星アルクトゥルス)の近くに彗星が現れ、熒惑(火星)が東井(ふたご座の一部、ちちりぼし)に入った。大角は帝王の地位であり、東井は秦の分裂を意味する。この占いから3年を待たずして国家には大喪があり、大臣の殺戮がある。願わくは陛下、徳を修めてこの災いを払い除かれるよう」
苻生は言った「皇后と朕は天下に相対して臨んでいるので、これをもって大喪へ応ずることができる。毛太傅(毛貴)、梁車騎(梁楞)、梁僕射(梁安)は遺言を受けて輔政しており、これをもって大臣へ応ずることができる」(災厄を皇后以下へ転嫁するという意か)
9月、苻生は梁后および毛貴(梁后の舅)・梁楞(梁安の兄弟もしくは父方いとこ)・梁安(梁后の父)を殺した。
尚書右僕射の趙韶と中護軍の趙誨はいずれも洛州刺史である趙倶の従弟であり、苻生の寵愛を受けていた。こうして趙倶は尚書令に任じられたが、趙倶は病のため固辞して趙韶・趙誨に言った「おまえらは祖先に顔向けできないぞ、一門を滅亡させたいのか。毛・梁に何の罪があって誅殺されたのか。私に何の功があって彼らに代わるというのか。おまえらが自身の行いをよしとするなら、私は死ぬまでだ」
こうして憂いをもって死んだ。
11月、秦は辛牢を尚書令とし、趙韶を尚書左僕射とし、尚書の董栄を尚書右僕射とし、中護軍の趙誨を司隷校尉とした。
12月、秦の丞相である雷弱兒は性格が剛直であり、趙韶・董栄の乱政について朝廷でしばしば公言し、2人を見る度に切歯(歯ぎしりする様子、ひどく憤慨する比喩でもある)した。趙韶・董栄は苻生に雷弱兒の譖訴を行い、苻生は雷弱兒およびその9子・27孫を殺した。こうして諸羌はみな心が離れた(雷弱兒は南安における羌の族長であったが、氐族苻氏に協力していた)。
苻生は先代の喪中であるのに自分勝手に飲み遊び、弓を引いて刀を抜いたまま朝臣と接見し、ハンマー・ペンチ・ノコギリ・ノミなど人を害しうる道具を左右に備え置いた。即位間もなく、后妃・公卿から僕隷に至るまで、およそ500余人が殺され、脛を斬られた者・脇腹の骨を砕かれた者・頸をノコギリで引かれた者・妊婦で腹を割かれた者も沢山現れた。
356年
1月、秦の司空である王墮は性格が剛峻だった。尚書右僕射の董栄・侍中の強国はいずれもこびへつらって昇進していたため、王墮は彼らを仇敵のように憎み、朝廷で向かい合っても董栄と言葉を交わすことは無かった。ある人は王墮に言った「董君(董栄)への恩寵に比べる者は無く、公(王墮)は少しへりくだって彼に接するほうがよい」
王墮は言った「董龍(龍は董栄の小字)など鶏や狗だ。国士に命じてこう言わせてやろう」
ちょうど天変があり、董栄と強国は苻生に言った「いま天罰は甚だ重く、貴臣を捧げてこれに応ずるのがよい」
苻生は言った「貴臣といってももう大司馬(苻安)と司空(王墮)しか居ない」
董栄は言った「大司馬は国の懿親(親しい血族)であり、殺せない」
こうして王墮が殺された。まさに刑が執行されようとする時、董栄は王墮に言った「今日もまたあえて董龍を鶏狗に例えるか」
王墮は目を怒らせて董栄をとがめた。
洛州刺史の杜郁は王墮の甥であったが、尚書左僕射の趙韶は彼を憎んで、苻生へ譖訴を行った。杜郁は東晋に二心ありとして殺された。
苻生は群臣と太極殿で宴を行った。尚書令の辛牢は酒宴の監督者であった。酒宴がたけなわになり、苻生は怒って言った「酒の進まない人がどうしてまだ座に居るのか」
弓を引いて辛牢を射て、これを殺した。群臣は恐れ、みな酔って、倒れて冠が脱げた、苻生はこれを悦んだ。
2月、秦の征東大将軍で晋王の苻柳は参軍の閻負・梁殊を前涼に派遣し、涼王の張玄靚(前涼の第8代、当時数え8歳)に書をもって説いた。閻負・梁殊は姑臧(甘粛省武威市一帯、前涼の首都)に到着し、張瓘(前涼の実権を掌握、前年に張祚を倒して幼主張玄靚を立てていた)は彼らに会って言った「我々は晋の臣である。臣である以上境外の交わりを行うことは無い。二君(閻負・梁殊)は辱しめを受けに来たのか」
閻負・梁殊は言った「晋王(苻柳)と君は隣り合った藩で、山河が両者を阻んでいるが、風は通じ道も会っている、ゆえに修好に来たのだ、君は何を怪しむのか」
張瓘は言った「我々が晋に忠を尽くすこと、いま6世となっている(張祚を省いたか)。もし苻征東(苻柳)と使者を通じれば、上は先君の志を違え、下は士民の節度を破ることになる、どうしてできようか」
閻負・梁殊は言った「晋室は既に衰え、天命が失墜して、すでに久しい。このため涼の2王は2趙に北面しているが(張茂が前趙に称藩し、張駿が後趙に称藩した)、これはただ機を知るなり。いま大秦の威徳がまさに盛んとなっており、涼王がもし河右(河西の地)での自立を欲するなら、秦の敵になるべきではない。小をもって大に仕えるのを欲するなら、晋を捨てて秦に仕え、長期的な幸運と繁栄を確保してみてはどうか」
張瓘は言った「中州(中央のこと、河南省一帯を指すこともある)は食言(前言をひるがえす、うそをいう、約をたがえる)を好む。石氏への使者が戻る頃には、かの軍が到着していた(346年5月、張駿が死んで張重華が前涼を継ぎ、後趙に遣使したが、石虎は王擢に涼を攻めさせた)。信じることはできない」
閻負・梁殊は言った「古より帝王として中州に居る者は、政化の度合いが各々異なる。趙は姦計・詐術をなし、秦は信義を重んじる。これらを一まとめにしてはならない。張先・楊初はいずれも兵を阻み不服で、先帝(苻健)はこれを討って捕らえたが、その罪を赦し、爵位・秩禄で寵遇した(350年の出来事)。もとより石氏の比ではない」
張瓘は言った「君の言う通りであれば、秦の威徳は無敵である。どうしてまず江南(東晋)を取らないのか。そうすれば天下は秦のものとなり、征東(征東大将軍の苻柳、東へ征討する職位であるのに東晋でなく前涼に来たことを暗に揶揄している)の使命に恥じるところはないはず」
閻負・梁殊は言った「江南は入れ墨する習俗があり、道徳は汚れて支配に対して真っ先に叛逆し、教化が十分に行き渡った後に服従する。主上(苻生)は江南に対して兵を用いて服従させるのが必須な一方、河右(前涼)は義で懐かせることができると考えている。ゆえにこうして使者を派遣し大いなる友好を申しいれた。もし君に天命が達しなければ、江南は数年延命できるが、河右はおそらく君の領土でなくなる(交渉に応じなければ兵を用いるという脅し)」
張瓘は言った「我が領土は3州(涼・河・沙)にまたがり、武装兵は10万、西は葱嶺(パミール高原)を包み、東は大河(黄河・オルドスループの上流部、賀蘭山脈とオルドス高原の間を北上)を越える。外征する余裕すらあるのだから、自守は言うまでもない。どうして秦を畏れようか」
閻負・梁殊は言った「貴州(あなたの州)における山河の堅固さは、殽山(崤山、河南省西部に位置する山脈)・函谷関(河南省三門峡市霊宝市にある天下の要衝)と比べてどうか。民・物の豊饒さは、秦(甘粛省天水市を中心とするエリア)・雍(長安を中心とするエリア)と比べてどうか。杜洪・張琚は、趙氏からの支援により兵は強く財は富み、関中(渭水盆地周辺を指す)を征服して四海(世界)を席巻するという野望を抱いていた。しかし、先帝(苻健)が軍旗を西に向けると、氷は溶け雲も散じ、旬月(10日、1ヶ月、10ヶ月)の間で知らないうちに主の交代があった(350年の出来事)。もし貴州が服さなければ、主上(苻生)は激怒して、100万の弓を携えて、鼓を鳴らしながら西に向かうだろう。貴州がこれをどのように待てばよいか分からない」
張瓘は笑って言った「この問題は王(涼王の張玄靚)が決めるべきことであり、私では決裁できない」
閻負・梁殊は言った「涼王は若くして賢く才能に恵まれているが、まだ若く、あなたが伊尹・霍光の任(ともに君主を輔政した者としてのロールモデル)にある。国家の安危はあなたの判断にかかっている」
張瓘はおそれ、張玄靚の命という体裁で遣使し秦に称藩した。そのため、秦は張玄靚が自称していた官爵をそのまま授けた。
東晋の将軍である劉度が前秦の青州刺史である王朗を盧氏(河南省三門峡市盧氏県)に攻めた。前燕の将軍である慕輿長卿が軹関(太行八徑で最も南のルート、山西の河東と河南の河内を結ぶ)に入り、秦の幽州刺史である強哲を裴氏堡(山西省運城市垣曲県にあった堡塁、永嘉の乱のころ裴氏が自衛のため築いたという)に攻めた。苻生は前将軍で新興王の苻飛を派遣して劉度を拒ませ、建節将軍の鄧羌を派遣して慕輿長卿を拒ませた。苻飛が到着しないうちに劉度は退却した。鄧羌は慕輿長卿と戦って大破し、慕輿長卿と兵の首2千余級を得た。
3月、苻生は三輔(長安周辺、これらを管轄する京兆尹・左馮翊・右扶風の3役職を指すこともある)の民を徴発して渭橋(長安付近で渭水に架けた橋)を修繕させた。金紫光禄大夫の程肱は農業を妨げるという理由で諫めた。苻生は程肱を殺した。
4月、長安で大風があり、屋根を飛ばし木を抜いた。秦の宮中は驚き乱れ、ある者は賊が来たといい、宮門は昼も閉じた。5日して風が止んだ。苻生は賊が来たと言った者を責め、その心臓を摘出した。左光禄大夫の強平は諫めて言った「天から災厄や怪異が起こったとき、陛下は民を愛し神に仕え、緩やかな刑罰と徳を尊ぶ気持ちで応じれば、避けることができる」
苻生は怒り、頭のてっぺんをノミで穿って殺した。衛将軍で廣平王の苻黄眉・前将軍で新興王の苻飛・建節将軍の鄧羌は、強平が太后の弟であることから、叩頭して固く諫めた。苻生は聴かず、苻黄眉を左馮翊(陝西省西安市および渭南市一帯)、苻飛を右扶風(陝西省宝鶏市一帯)へ出し、鄧羌に咸陽太守を行わせた。なお彼らの驍勇を惜しんだため、みな殺されなかった。
5月、太后の強氏が憂い恨みをもって死んだ、諡号は明徳。
6月、苻生は詔を下して言った「朕は皇天の命を受け、万邦に君臨した。皇統を継いで以来、何も悪いことはしていないのに、誹謗の声が天下に満ちている。殺したのは千人に満たないのに、残虐だと言われる。行者比肩,未足為希(ここはどう訳すべきか分からない)。もし峻刑極罰であたれば、朕を何に例えるだろう」
去年の春以来、潼関(陝西省渭南市潼関県にあった要衝)の西から長安まで虎狼が暴れていた。昼は街道に現れ、夜は家屋に現れ、六畜(馬・牛・羊・鶏・犬・豚)を食べずに専ら人を食べ、およそ700余人を殺した。民は農耕や養蚕を放棄して集住したが、被害は止まらなかった。
7月、秦の群臣は奏上して災いを払い除くよう請うた。苻生は言った「野獣は飢えれば人を食い、飽きれば自然と止める。どうして払い除く必要があるのか。天が民を愛さないはずがない。犯罪者が多いから、朕がこれを殺すのを助けてくれているのだ」
8月、姚襄が平陽(山西省臨汾市一帯)に逃げた(桓温の第二次北伐に敗れた)。秦の并州刺史である尹赤はまた兵を率いて姚襄に降り、姚襄は襄陵(山西省臨汾市襄汾県)にこもった。秦の大将軍である張平はこれを撃ち、姚襄は張平に敗れ、張平と義兄弟の約を結び、停戦した。
10月、苻生は夜に棗を沢山食べ、翌朝病気になった。太医令の程延を召して診させると、程延は言った「陛下には棗を食べるのが多いほか、悪いところは無い」
苻生は怒って言った「おまえは聖人でないのに、どうして私が棗を食べたと知ろうか」
ついに程延を斬った。
12月、この年、仇池公・楊国の従父(父の兄弟)である楊俊が楊国を殺して自立し、仇池公となった。楊国の子である楊安は秦に逃げた。
357年
2月、太白(金星)が東井に入った。秦の役人は上奏した「太白は罰の星で、東井は秦の分裂を意味する。必ず京師(前秦首都の長安)で暴兵が起こるだろう」
苻生は言った「太白が東井に入ったのは、渇いたからだ。何の怪しいことがあるのか」
姚襄はまさに関中を得ようとしていた。
4月、姚襄は北屈(山西省臨汾市吉県北部)から進んで杏城(陝西省延安市黄陵県)に駐屯した。輔国将軍の姚蘭(姚襄の従兄)を敷城(陝西省延安市南部)の攻略に派遣し、曜武将軍の姚益生(姚襄の兄)・左将軍の王欽盧に兵を授けて諸々の羌(姚襄と同族、前秦の苻氏は氐族)・胡(匈奴)を招かせた。羌・胡および秦の民で姚襄に帰する者は5万余戸となった。秦の将である苻飛龍は姚蘭を撃ち、これを捕らえた。姚襄は兵を率いて進み黄落にこもった。苻生は衛大将軍で広平王の苻黄眉・平北将軍の苻道・龍驤将軍で東海王の苻堅・建節将軍の鄧羌に歩騎5千を授けて派遣し、姚襄を防がせた。姚襄は守りを固めて戦わなかった。鄧羌は苻黄眉に言った「姚襄は桓温・張平に敗れ、鋭気は喪われている。しかし、その人となりは強狼であり、もし騒ぎたて旗を立てながら、彼の堡塁へ直ちに圧をかければ、彼は怒って出て、一戦で擒にできる」
5月、鄧羌は騎兵3千を率いて姚襄の塁門に押し寄せて並べた。姚襄は怒り、全軍出撃した。鄧羌は偽って敗走し、姚襄は追って三原(陝西省咸陽市三原県)に至った。鄧羌は騎兵を転回して姚襄を撃ち、苻黄眉らは大軍でこれに続き、姚襄軍は大敗した。姚襄が乗る駿馬は黧眉騧(黧=黒、騧=口先が黒く黄色い毛色の馬)と呼ばれたが、馬が倒れ、秦の兵は姚襄を捕らえて斬った。姚襄の弟である姚萇は兵を率いて降った。姚襄は父である姚弋仲の柩を軍中に載せてあった。苻生は王の礼で姚弋仲を孤磐(甘粛省天水市甘谷県)に葬り、また公の礼で姚襄を葬った。苻黄眉らは長安に帰ったが、苻生による褒賞はなく、衆人から繰り返し侮辱された。苻黄眉は怒り、苻生を弑するよう謀ったが、発覚し、誅殺された。事は王公・親戚に連なり、死者は甚だ多かった。
苻生は大魚が蒲(がま・かわやなぎ、苻氏はもともと蒲氏だった)を食べる夢を見た。また長安の民謡でいった「東海が大魚から龍となり、男はみな王に女はみな公となる」
こうして苻生は太師・録尚書事・広甯公の魚遵とその7子・10孫を誅殺した。金紫光禄大夫の牛夷は災いを恐れ、荊州に出ることを求めたが、苻生は許さず、中軍将軍とした。苻生は牛夷を引見して言った「牛は重くて遅いが、ながえを善く持つ。駿馬の脚力は無いが、100石を背負って動ける」
牛夷は言った「大きな荷車を運転したことはあるが、険しい崖を越えたことはない。重い荷物を運んでみれば、実力がわかる」
苻生は笑って言った「面白い。貴公は軽荷が嫌か。朕は魚公(魚遵)の爵位を貴公に与えよう」
牛夷は恐れ、帰ると自殺した。
苻生は昼夜を問わず飲酒し、あるいは連月で出ず、奏事を省みず、往々にして寝て滑り落ち、ある時は酔っていながら決裁した。側近を裏切り者と思い、賞罰に秩序が無かった。ある時は日暮れになって朝廷に出て、酔った状態で殺戮を多く行った。自分が片目であるため、「殘、缺、偏、隻、少、無、不具」といった言葉を忌み、犯した者の死者は数えきれなかった。生きたまま牛・羊・ロバ・馬を剥いだり、鶏・豚・ガチョウ・鴨をゆでたりするのを好み、殿の前にこれらが放置されること、数十であった。ある時は人面の皮を剥ぎ、歌舞させて、それを観て楽しんだ。
かつて側近に訊ねた「私が天下に臨んでから、お前は外で何か聞いたか」
ある者は答えた「聖明に世を治め、賞罰は公正で、天下はただ太平を歌っている」
苻生は怒って言った「お前は私に媚びている」
その者を引いて斬った。 別の日にまた問い、ある者は答えた「陛下の刑罰はいささか過ぎている」
苻生はまた怒って言った「お前は私を謗っている」
またその者を斬った。勲旧・親戚は苻生の誅殺により尽きつつあり、群臣が1日無事であれば、10年であるかのように感じた。
東海王の苻堅は、平素から評判が良く、もともと姚襄の参軍だった薛讚・権翼と仲が良かった。薛讚・権翼は密かに苻堅へ説いて言った「主上(苻生)は猜忍(疑い深く残忍)・暴虐で、中外の心が離れている。まさにいま秦の祀りの主たるべき者は、殿下(苻堅)の他に誰がいようか。早く計をなすよう願う、もし行わねば他姓がこれを得よう」
苻堅が尚書の呂婆樓に問うたところ、呂婆樓は言った「私は武力で成り上がっただけで、大事を弁ずるには足りない。私の集落に王猛という者が居り、その人の謀略は不世出である。殿下は彼を請い、諮るのが良い」
こうして苻堅は呂婆樓に王猛を招かせ、初対面にして旧友のようであった。時事について語ると、苻堅は大いに悦び、劉備と諸葛亮の出遭いに自ら例えた。
6月、太史令の康権が苻生に言った「昨夜は月が3つ並んで出て、彗星が太微(天を3分割した三垣の1つ)に入り、東井に連なった。先月上旬から今に至るまで、曇天なのに雨が降らない。下人に上を謀る災いが起きようとしている」
苻生は怒り、妖言をなしたとして、康権を撲殺した。
特進・領御史中丞の梁平老らは苻堅に言った「主上は徳を失い、上下とも騒がしく、人々は内心で秦以外を志すようになっており、前燕・東晋の二方は隙あらば動く。おそらく災いが起これば家・国ともに亡ぶ。殿下のことは、速やかに行う必要がある」
苻堅は内心納得したが、機敏で勇猛な苻生を恐れ、実行できずにいた。
苻生は夜に侍婢へ答えて言った「阿法(苻法・苻堅の兄)の兄弟も信用できん、明日にでも除くとしよう」
婢は苻堅および苻堅の兄である清河王・苻法に密告した。苻法と梁平老、および特進光禄大夫の強汪は壮士数百を率いて雲龍門(長安宮城の正南門)に潜入し、苻堅と呂婆樓は麾下の300人を率いて賑やかに後続し、宿衛の将士はみな武器を捨てて苻堅に帰した。苻生はまだ酔って寝ていたが、苻堅の兵が到着すると驚いて側近に問うた「この輩はなんだ」
側近は言った「賊である」
苻生は言った「どうして拝礼しないのか」
苻堅の兵はみな笑った。苻生はまた大声で言った「どうしてすぐ拝礼しないのか、拝礼しない者は斬る」
苻堅の兵は苻生を引いて別室に置き、廃して越王とし、尋問の上で殺した(享年は数えで23)。諡号は厲王(古国周のそれが有名、悪諡)。
苻堅は苻法に譲位しようとしたが、苻法は言った「お前は嫡子で、かつ賢い。立つがよい」
苻堅は言った「兄は年長である。立つがよい」
苻堅の母である苟氏が泣きながら群臣に言った「社稷(土地と穀物への祀りが転じて国家を意味するようになった)の事は重く、小児(苻堅)はまだよくわかっていない。後日悔いることがあれば、諸君の失である」
群臣は頓首(頭を地面につけるほど深く下げる)して苻堅が立つことを請うた。苻堅は皇帝の号を去って大秦天王を称し、太極殿で即位した。苻生の寵臣である中書監の董栄・尚書左僕射の趙韶ら20余人を誅殺した。大赦し、永興と改元した。父の苻雄を追尊して文桓皇帝とし、母の苟氏を皇太后、妃の苟氏を皇后、世子(跡継ぎの子)の苻宏を皇太子とした。清河王の苻法を都督中外諸軍事・丞相・録尚書事・東海公とし、諸王はみな公爵に降格した。従祖(祖父の兄弟、または父母のいとこ)で右光禄大夫・永安公の苻侯を太尉、晋公の苻柳を車騎大将軍・尚書令とした。弟の苻融を陽平公、苻雙を河南公、子の苻丕を長楽公、苻暉を平原公、苻熙を廣平公、苻叡を鉅鹿公に封じた。漢陽(湖北省東部)の李威(胡三省註では、苻堅の母苟氏の愛人であるために抜擢されたとある)を尚書左僕射、梁平老を尚書右僕射、強汪を領軍将軍、呂婆樓を司隷校尉、王猛を中書侍郎とした。
苻融は文学を好み、明快な弁舌は人並み外れ、耳で聞けば即座に暗唱し、一度見たことは忘れなかった。力は百人に匹敵し、騎馬・射撃・打撃・刺突を善くし、若い頃から評判が良かった。苻堅は苻融を愛し重んじ、常に一緒に国事を議した。苻融は内外を経綜(経=たて糸、綜=よこ糸)し、刑と政は明らかで、才ある者を薦め、埋もれている者を抜擢し、多くの恩恵がもたらされた。苻丕もまた文武に才幹があり、人民を治め事件を裁定する能力は、全て苻融に次ぐものであった。
李威は苟太后の姑の子で、平素から魏王・苻雄と仲が良く、苻生はしばしば苻堅を殺そうとしたが、李威を頼ってそのとりなしにより免れた。李威は苟太后に親近され、苻堅は父のごとく李威に仕えた。李威は王猛の賢を知り、常に苻堅へ国事を彼に任せるよう勧めていた。苻堅は王猛に言った「李公が君を知ることは、あたかも鮑叔牙が管仲を知るかのようである」
王猛は李威を兄としてこれに仕えた。
7月、秦の大将軍・冀州牧である張平が遣使して東晋に降り、并州刺史に任じられた。
8月、秦王の苻堅は権翼を給事黄門侍郎とし、薛讚を中書侍郎とし、王猛とともに機密へ参与させた。
9月、太師の魚遵らの官職を追って復し、礼をもって改葬し、生き残った子孫をみな才に応じて昇進させた。
張平は新興・雁門・西河・太原・上党・上郡の地(いずれも山西エリア)にこもり、壁塁(壁をめぐらせた軍営)は300余で、夷(少数民族)・夏(漢民族)が10余万戸あった。晋に征(四征将軍)・鎮(四鎮将軍)を置くよう求め、燕・秦の敵国となろうとした(後趙滅亡以降、張平は燕と秦の両国に付き従っていたが、自身の戦力を恃み自立しようとした)。
10月、張平は秦との国境地帯に侵略した。秦王の苻堅は晋公の苻柳を都督并・冀州諸軍事とし、并州牧を加え、蒲阪に出鎮させて張平を防いだ。
11月、秦の太后である苟氏が宣明台(宣明は未央宮の東にあったという;青木俊介「漢長安城未央宮の禁中」)を巡視した際、東海公である苻法の邸宅の門が馬車で賑わっているのを見た。秦王の苻堅にとって不利になることを恐れた太后は、李威と共謀して苻法に死を賜った。苻堅と苻法は東堂(太極殿の東にあり、日常朝政の場;城倉正祥「中国都城門の構造・機能とその発展」、渡辺信一郎「六朝隋唐期の太極殿とその構造」)で訣別したが、苻堅は慟哭し吐血した。苻法の諡号は献哀公、その子の苻陽(後に苻堅への復讐を謀る)を東海公に、苻敷を清河公に封じた。
放論
後の苻堅政権崩壊へ繋がるファクターを探すために読んでみたのだが、苻生による暴政への振り返りが中心となり、正直当てが外れた。それでも、天水尹氏が羌族姚氏に与したこと、淝水で戦死した苻融の器量など、多少は収穫があった。
苻生の打倒は正統な行いであるように見えるが、苻堅による史書への介入が無い前提であり、この点が疑わしいので保留とせざるを得ない。
苻生を廃するところまでは納得できるとしても、苻堅は苻健の傍系であり、苻堅自身が即位する正統性は欠けている。のちに苻柳その他多くの親族から叛かれているが、これは仕方ないところだと思う。
苻雄は、桓温の第一次北伐という未曾有の試練から前秦を救った英雄である。彼の家系には相当な求心力が生まれ、結果として苻健直系に拘らない皇位継承を是とする雰囲気があったのかもしれない。ただし、苻雄の重責を立派に引き継いでみせた皇太子苻萇が戦傷によって早世しなければ、苻健系の皇統は盤石となり、苻堅に皇帝となるチャンスが訪れることは無かっただろう。そういう意味では、桓温が歴史に与えた影響の大きさを改めて思い知らされる。
苻健が死ぬ直前になって、苻菁の挑戦を受けた事件にも注目しておく必要がある。強い者が君主となるのは五胡十六国における一般的傾向だが、氐族苻氏も例外ではなかった。また、後趙崩壊直後で誰にでも頂点を目指すチャンスがあったという時勢も考慮すべきだろう。苻生による権臣・親戚の誅殺もこの文脈で再評価した方が良さそうだ。
桓温に滅亡寸前まで追い詰められた国で、正統性の乏しいなか君主となりながら、前燕(華北平原を掌握して当時最大の人口を誇る国)や前涼・前仇池・代(これらの勢力は後趙をもってしても滅ぼせなかった)を併呑するまで前秦を成長させた苻堅。その実績はやはり五胡十六国を代表する君主だと実感させられた。
当時における姚襄の存在感が想像以上に大きかった。後趙崩壊というまたとない好機に東晋が乗じられなかったこと、前秦が桓温の第一次北伐を凌ぎきったこと、この原因の大部分が姚襄にあったといっても過言ではない。
354年5月に行われた桓温と王猛の対談で、桓温に長安を攻め取るつもりなどない、と王猛が言い当てたエピソードはよく知られる。この時示された第一次北伐の真意は、東晋朝廷での地位を高めるためのデモンストレーションだった、と専ら解釈されている。
しかしながら、もう一つの解釈が可能である。それは、第一次北伐によって姚襄が関中に入るルートを塞ぐと同時に、前秦を内向的にさせて来たるべき姚襄との決戦に介入させない、という構想である。
「本命は建康における名声なのだろう」か、はたまた「本命は姚襄なのだろう」か。時代を代表する二人の英雄による暗黙の会話はどちらだったろうか。
私自身は、第一次北伐が本番となる第二次北伐に先立っての地ならしだったとする後者の解釈を取りたい、なぜならその方が面白いから。まあ、いちおうの根拠はある。王猛に匹敵する人は江東に居ないという桓音評、前者でそこまで言えるかなと思うわけで。
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