四公の乱は、晋公の苻柳・趙公の苻雙(双)・魏公の苻庾・燕公の苻武という4人の宗室が苻堅に対して反乱を起こした出来事であり、西暦367年から1年余り続いた。
比較的マイナーと思われるが、苻堅政権について分析を試みる上で欠かすことのできない事件であり、ここにフォーカスした論文もある(小野響 「前秦苻堅政権論序説」)。
苻生からの簒奪に続いて何が起こったか確認してみることにした。苻騰の乱(364年)、および苻幼の乱(365年)も、全体の流れを把握する上で必要と考え、訳出した。
実を言うと今回の記事は、苻堅のウィキペディアでほとんどの内容を知ることができる。よほど熱心な編集者が居るようだ。
年は西暦だが、月は旧歴に準じる。
資治通鑑抄訳 364年8月~368年12月
364年
8月、秦の汝南公である苻騰が謀反し殺された。苻騰は苻生の弟であった。この時、苻生の弟は晋公の苻柳などなお5人いた。王猛は苻堅に言った「五公を排除せねば、ついに必ず患いをなす」
苻堅は従わなかった。
9月、秦王の苻堅は公国に三卿(郎中令・中尉・大農)を置くよう命じた。また、郎中令だけは中央が任命するが、他の官は各自で採用することを許した。豪商である趙掇らの車や服は身分不相応であったが、諸公は競って彼らを高官に招いた。黄門侍郎で安定(候補複数だが甘粛省平涼市涇川県か)出身の程憲はこの風潮を治すよう請うた。こうして苻堅は詔を下して称した「本当は諸公に優秀な儒者を選抜して欲しかったのに、このように無分別な選抜が行われてしまった。官吏に調査を命じ、不適格者を招聘した者はことごとく侯爵に降格とし、いまより国官を全て吏部尚書に委ねる。命士(勅任の士)より上でなければ車や馬に乗ることを禁じる。京師(前秦の首都長安=陝西省西安市)から100里以内では、工商・召使いで服に金銀・錦繍を用いることを禁じる。犯した者は棄市(死刑にして屍を市にさらす)とする」
ここにおいて、平陽・平昌・九江・陳留・安楽の5公が全て侯爵に降格となった。
365年
7月、匈奴の右賢王である曹轂と左賢王である劉衛辰(赫連勃勃の父)がみな秦に叛いた。曹轂は兵2万を率いて杏城(陝西省延安市黄陵県)を攻め、秦王の苻堅は自身が将となって曹轂を討ち、衛大将軍の李威と尚書左僕射の王猛を太子苻宏の補佐に付けて長安の留守とした。
8月、苻堅は曹轂を撃って破り、曹轂の弟である曹活を斬った。曹轂は降伏を請い、その豪傑6千余戸を長安に徒した。建節将軍の鄧羌が劉衛辰を討ち、木根山(内モンゴル自治区オルドス市オトク前旗)で捕らえた。
9月、苻堅は朔方(内モンゴル自治区オルドス市とバヤンノール市にまたがる地域;匈奴の勢力圏で、後に赫連勃勃が本拠地とした統万もここにある)に行き、諸胡(匈奴系異民族もしくは異民族全般)を巡撫した。
10月、秦の征北将軍・淮南公の苻幼(苻生の弟)が杏城の兵を率いて虚に乗じて長安を襲った。李威は苻幼を撃ち、これを斬った。
11月、苻堅は長安へ帰り、李威を守太尉とし、侍中を加えた。曹轂を鴈門公とし、劉衞辰を夏陽公とし(夏という国号の由来とも読める)、各々その部落を統べさせた。
367年
9月、秦の淮南公である苻幼が反乱した時、征東大将軍・并州牧・晋公の苻柳と征西大将軍・秦州刺史・趙公の苻雙は、みな苻幼と通謀していた。苻堅は、苻雙が親しい同母弟で、苻柳が苻健の愛子であることから、通謀の事実を隠して不問とした。苻柳・苻雙はまた鎮東将軍・洛州刺史・魏公の苻庾(苻健の子)、および安西将軍・雍州刺史・燕公の苻武(苻健の子)と乱をなすよう謀った。鎮東主簿で南安(甘粛省定西市一帯)の姚眺は諫めて言った「明公(貴人への二人称)は周・邵の親で(邵は召公奭の封地を指す解釈と古国晋の別名とする解釈がある、ともに古国周と同族)、方面の任を受け、国家に難があれば、力を尽くしてこれを除くべきだというのに、自ら難となるのか」
苻庾は聴かなかった。
苻堅はこれを聞くと、苻柳らを長安に徴集した。
10月、苻柳は蒲阪(山西省運城市永済市)に籠り、苻雙は上邽(甘粛省天水市)に籠り、苻廋は陝城(河南省三門峡市陝州区)に籠り,苻武は安定に籠り、みな兵を挙げて反した。苻堅は遣使して彼らをこのように諭した「私の卿らへの待遇は、恩を尽くしてきた、何を苦にして反したのか。今止不徴(いま徴集は止めにするので、と解釈したいものの自信がない)、卿は兵を収めて各々の持ち場へ戻り、全て元通りにするのが良い」
各々に齧棃(かじった梨:心を同じくするための儀式という解釈と、内乱で弱体化した秦の比喩という解釈がある)を添えて信証としたが、みな従わなかった。
368年
1月、苻堅は、後将軍の楊成世、左将軍の毛嵩に上邽・安定を分けて討たせ、輔国将軍の王猛・建節将軍の鄧羌に蒲阪を攻めさせ、前将軍の楊安・広武将軍の張蚝に陝城を攻めさせた。苻堅は蒲阪・陝城方面軍に対して、みな城から30里離れて守りを固めて戦わず、秦・雍(上邽・安定方面)の平定を待ち、その後で力を併せてこれを取るよう命じた。
2月、秦の魏公である苻庾は陝城をもって前燕に降り、援軍を請うた。秦の人は大いに恐れ、大軍を華陰(陝西省渭南市華陰市)の守備にあてた。
燕の魏尹(前燕の首都は鄴なので魏郡太守ではなく魏尹:類例に河南尹・京兆尹)で范陽王の慕容徳は上書しておもえらく「先帝(慕容儁)は天に応じ命を受け、六合(四方上下、全世界)の平定を志した。陛下(慕容暐)が即位し、まさにこの事業を継いで成そうとしている。いま苻氏は骨肉で乖離し、国は5つに分かれ(蒲阪・陝城・上邽・安定・長安)、救援要請が相次いでいる。これは天が秦の地を燕に賜ったのだ。天が与えたものを取らなければ、かえって天からの災いを受ける。呉・越のことは、この点を十分に物語っている(史記越王句践世家 「天以越賜呉,呉不取。今天以呉賜越,越其可逆天乎?」)。皇甫真に并州・冀州の兵を授けて蒲阪に直行させ、呉王の慕容垂に許昌・洛陽の兵を授けて苻廋の包囲を解くよう向かわせ、太傅(慕容評)に京師(首都鄴)の軍を総べてこれら2方面軍の後継となるよう命じるのがよい。三輔(長安周囲、それらを管轄する京兆尹・右扶風・左馮翊の3役職に由来)に檄を飛ばして禍福を示し、懸賞を明らかにすれば、かの地は必ず慕い応じるだろう。統一の期はここにあるのだ」
当時の燕では陝を救って関中(渭水盆地周囲)を図るよう請う者が多かった。太傅の慕容評は言った「秦は大国である。いま難ありといえども、いまだ容易に図ることはできない。朝廷(国主の慕容暐)は明であるが、いまだ先帝(慕容儁)に及ばない。我らの智略もまた太宰(慕容恪、前年に死んでいる)の比ではない。ただ関を閉じて国境を保つので十分だ、秦の平定は私の事業ではない」
秦の魏公である苻庾は燕の呉王である慕容垂および皇甫真に手紙を送っていった「苻堅・王猛はみな人傑であり、久しく燕の患いとなるような謀を行っている。いま機に乗じてこれを取らなければ、おそらく他日に燕の君臣は甬東之悔をすることになるだろう(春秋左伝より;越に対し優勢となった夫差だが、伍子胥の言葉に逆らって句践を生かした。後に呉との戦争で勝利した句践は、夫差に甬東へ行くよう請うたが、夫差は伍子胥の言葉を用いなかったことを後悔しながら自殺した:甬東は鄮県=浙江省寧波市の鄞州区・北侖区および舟山市の舟山群島に対応すると記され、専ら舟山群島と解釈されている)」
慕容垂は皇甫真に言った「現在の我々にとって最大の脅威は秦にある。主上(慕容暐)はまだ若く、太傅(慕容評)の識度を観るに、どうして苻堅・王猛に敵うだろうか」
皇甫真は言った「その通り、私もそれは知っているが、助言が用いられないのをどうしたものか」
3月、秦の楊成世は趙公苻雙の将である苟興に敗れ、毛嵩もまた燕公苻武に敗れ、逃げ帰った。苻堅はまた武衛将軍の王鑒・寧朔将軍の呂光・将軍で馮翊(陝西省西安市および渭南市一帯)出身の郭将・翟傉らに兵3万を授けて苻雙・苻武を討たせた。
4月、苻雙・苻武は勝ちに乗じて榆眉(現在地を同定できず)に至り、苟興を前鋒とした。王鑒は速戦を欲したが、呂光は言った「苟興は新たに志を得て、気勢はまさに鋭い。自重してこれを待つのが良い。彼は食糧が尽きると必ず後退するので、後退したところを撃てば、きっと成功する」
20日経って苟興が後退したので、呂光は言った「苟興を撃てる」
ついにこれを追った。苟興を破り、さらに苻雙・苻武を撃ち、これを大破した。1万5千の首級を斬って得た。苻武は安定を放棄し、苻雙とともに上邽へ逃げた。王鑒らは進んでこれを攻めた。
晋公の苻柳はしばしば出撃して戦いを挑んだが、王猛は応じなかった。苻柳は王猛が自身を恐れていると考えた。
5月、苻柳は世子(跡継ぎの子)の苻良を蒲阪の守りに留め、自身は兵2万を率いて西の長安へ向かった。蒲阪から去ること百余里にして、鄧羌が精鋭騎兵7千を率いて夜襲し、苻柳は敗れた。苻柳は兵を引いて帰り、王猛はここに待ち伏せを仕掛け、ことごとくその兵を捕虜とした。苻柳と数百騎は蒲阪に入城し、王猛・鄧羌は進んでこれを攻めた。
7月、王鑒らは上邽を抜き、苻雙・苻武を斬ったが、その妻子は赦した。左衛将軍の苻雅を秦州刺史(苻雙の後任)とした。
8月、長楽公の苻丕を雍州刺史(苻武の後任)とした。
9月、王猛らは蒲阪を抜き、晋公の苻柳とその妻子を斬った。王猛は蒲阪に駐屯し、鄧羌を派遣して王鑒らと共同で陝城を攻めた。
12月、秦の王猛らは陝城を抜き、魏公の苻庾を捕らえて長安に送った。秦王の苻堅が反乱の理由を問うたところ、苻庾は答えて言った「臣は元々反心がなかった。ただ、兄弟がしばしば逆乱を謀っていたので、臣も連座で死ぬことを恐れた。故に謀反したのみだ」
苻堅は泣いて言った「あなたは元々徳が優れており、もとよりあなたの本心でないことは知っていた。また高祖(苻健の廟号)の後継ぎを絶やすことはできない」
こうして苻庾に死を賜ったが、その7子は赦し、長子に魏公を継がせ、他の子はみな県公に封じて、越厲王(苻生は廃位後に越王とされ、諡号は厲)およびその諸弟で後継ぎのなかった者を継がせた。苟太后(苻堅と苻雙の母)は言った「苻庾と苻雙はともに反したのに、苻雙のみが後を置けなかった、何故だ」
苻堅は言った「天下は、高祖(苻健)の天下である。高祖の子に後継ぎを無くすわけにいかない。仲羣(苻雙の字)は太后を顧みず、謀で宗廟を危機にさらした。天下の法を私的に運用してはいけない」
范陽公の苻抑を征東大将軍・并州刺史とし、蒲阪に出鎮させた。鄧羌を建武将軍・洛州刺史とし、陝城に出鎮させた。姚眺(前出、苻庾を諫めた)を汲郡太守に抜擢した。
放論
先述した小野氏の論文によると、四公の乱は宗室中心だった苻生の体制から苻堅が能力主義に移行したことを示す事件と位置付けられている。
概ね首肯するが、やや単純化しすぎな印象も持っている。四方面への鎮圧軍に苻氏がほぼ居ないのに対し(資治通鑑では皆無だが、晋書苻堅載記には苻雅の名がある)、鎮圧後の後任者は4人中3人が苻氏なのだ。こういった裁定がいかなるプロセスによって下されたか、さらに検証する余地があると思われる。
苻生の弟たちが苻堅に反旗を翻すのは、ある意味当然の帰結であるが、四公の乱では苻堅の同母弟である苻雙も加担していたことに注目しておく必要がある。
小野氏は364年に封国から人事権と爵位を取り上げた出来事を取り上げ、自身の権限を強めていく苻堅と、宗室との緊張関係に、乱の発生原因があったとしている。 苻健系と苻雄系の対立だけでなく、苻堅による宗室抑圧というファクターも加味すれば、実弟の参加も多少納得できるようになる。
前燕と東晋の動きは概ね省略したが、四公の乱に対する前燕の反応は取り上げざるを得なかった。ここで前燕が介入していれば前秦の華北統一は成しえなかったかもしれず、歴史的に重要な分岐点だった。
呉と越の故事がしばしば持ち出されているが、後世への伏線としてあまりにも出来過ぎていて、慕容垂らによる潤色を疑いたくなってくる。一方で、慕容垂・慕容徳・皇甫真なら、こうした予言者じみた見通しも十分持ちうる。全員がそれほどの怪物であった。そして、苻庾もまた、その水準に達していた可能性がある。
予備知識の段階では、苻生と皇位を争うほど有力な宗室だった苻柳、苻堅の弟である苻雙、この2人の役割が大きいのだろうと思っていた。実際に読んでみると、燕への働きかけといい、鎮圧後の待遇といい苻庾の存在感が想像以上に大きくて驚いた。前秦宗室における良識人・才人としてかなり重んじられていたのだろう。苻庾喪失に対する苻堅の悲しみは、兄苻法へのそれをなんとなく思い起こさせる。
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