鮮卑の通婚関係 その3 武川鎮軍閥編

鮮卑の通婚関係を掘るシリーズ、最後は武川鎮軍閥。

・宇文泰(北周文帝)

正妻は元氏=拓跋氏、北魏の皇族で孝武帝の妹。宇文覚を産んでいる。
妻に姚氏(おそらく後秦の皇族)がおり、宇文毓を産んでいる。
妻に叱奴氏がおり、宇文邕を産んでいる。
叱奴氏については、赫連夏の武将に叱奴侯提の名があり、北魏を裏切って庾岳に討伐された纥奚部(高車とされるが鮮卑とも)の長が叱奴根、西魏の将に叱奴興の名がある。北方異民族なのは間違いない。

西魏の文帝に嫁いだ娘が居る。
匈奴系の竇氏に嫁いだ娘がおり、さらにその娘が李淵の妻・李世民の母となる(李世民は宇文泰の曾孫)。
楊氏(楊瓚:楊堅の弟)に嫁いだ娘は、楊堅の妻・独狐信の娘である独狐伽羅と対立し呪詛を行った。

・宇文覚(孝閔帝)

母も皇后も元氏。

・宇文毓(明帝)

皇后は独狐信の娘。

・宇文護

妻は元氏。

・宇文邕(武帝)

皇后は阿史那氏 突厥リーダーの娘で、北斉と北周の両方から求婚された。当初はより有力な北斉との婚姻が濃厚だったが、北周の使者が来た際につむじ風でテントが壊れたため北周に行った。
妻に李氏(楚の人であり、唐の皇族とは異なる)がおり、宇文贇を産んでいる。

・宇文贇(宣帝)

皇后を5人立てた人(匈奴漢の劉聡には7人皇后が居たとされ、特別多いわけではないが)。
一応の正妻は楊氏、楊堅の長女で名を麗華という。宇文贇に自殺を迫られ、母の独狐氏が謝罪し、ようやく許されたというエピソードがある。
皇后に朱氏(呉の人)がおり、宇文衍を産んでいる。

・宇文衍(静帝)

皇后は司馬氏、北斉から北周に亡命した司馬消難(北方に残った西晋宗族の子孫とされる)の娘で、司馬消難が陳に亡命したため廃位された。

・楊堅(隋文帝)

父は西魏の十二大将軍・北周の太傅である楊忠、母である呂苦桃の素性は明らかでない。

妻として独狐信の七女、独狐伽羅を迎えた。彼女は楊堅の帝業を支える賢妻であった一方で嫉妬深く、楊堅が自分以外の妻を持つことを基本的に許さなかった。また乱倫を避ける価値観を息子達にも要求し、色好みだった長男楊勇を廃嫡して次男楊広(煬帝)を太子に立てさせた。

独狐氏の死後、楊堅の寵愛を受けたのが、陳氏。彼女は陳の最後の皇帝である陳叔宝の妹であった。
その陳氏に対し楊広が関係を迫った。関係を拒んだ陳氏が楊堅に訴えた結果、楊堅は廃太子の楊勇を召喚しようとした。楊勇の乱倫と楊広の貞節から皇太子をすげ替えたのに、まるでアベコベだと気付いたのだろう。ただ、その直後に楊堅は急死し、色々と陰謀の余地が残る結果になってしまった。
陳氏は楊広に蒸された(母と通じる、身分の高い女性に私通する等の意味らしい)。陳氏は楊広の後宮に迎えられたが、楊堅が没した翌年に死去。楊広は彼女のことを悼んで詩を詠んだ(楊広は優れた詩才を持っていたとされる)。
楊堅には蔡氏という妻が別にいたのだが、彼女もまた楊広の蒸するところとなった。

・楊広(煬帝)

母は独狐伽羅。
皇后は蕭氏、後梁の皇族であった。他にも蕭氏の妻がおり、前述の陳氏とは別に陳氏を妻とするなど、南朝系への傾倒を感じるラインナップ。ちなみに妻の中に李淵(唐高祖)の姪が居た。
長女が嫁いだ宇文士及(北周の皇族とは別系統)は、その兄が楊広を殺害している。
李世民(唐太宗)に嫁いだ娘がいる。

・李淵(唐高祖)

父方祖父は西魏八柱国の李虎。母は独狐氏(独狐信の4女)。
皇后は竇氏。実は宇文泰の孫であり、叔父である宇文邕に可愛がられた。竇氏の宇文邕に対する敬愛の念も強く、宇文氏が楊氏に族滅されたときは深く嘆いたという。李建成・李世民などを産んでいる。

李世民以後は南北朝期との関わりが少ないと考え省略。

宇文泰と李氏との通婚・独狐信と各皇室との通婚をメインで書こうと思ったら、隋が面白くてついヒートアップ。

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