徐州虐殺の影響①:徐州統治の難化
曹操が徐州で行った住民虐殺行為は、以後の徐州支配を難しくした。
昌豨は度々曹操に背いた人物として知られているが、根拠地は徐州東海郡である。徐州住民の曹操に対する嫌悪感は相当のものであったのだろう。また、昌豨の反乱については劉備に呼応したものがある。劉備は徐州で善政を敷いており、再来を待望する民意があったとしても不思議はない。曹操自身も、劉備の大器ぶりを誰よりも評価していた。曹操がなぜ昌豨に厳罰を下さなかったか、その心の内はある程度察せられる。
徐州虐殺の影響②:徐州人士の反発
諸葛亮・魯粛・張昭・張紘など、徐州人士は蜀漢・孫呉で中心的役割を果たした。特に諸葛亮・魯粛は曹魏に対する反攻プラン策定の主要メンバーであった。彼らの与えた影響を考えると、曹魏が中華統一できなかった原因を徐州虐殺に求めるのも極論ではあるまい。
曹操傘下への編入を嫌った徐州人士の多くは、隣接した揚州の孫呉に合流した。それに対して、諸葛亮は荊州に移住し、そこで劉備と出会っている。早い段階で地元徐州から劉備の英名は得ていたはずである。劉備は荊州でも民衆の心を掴んでおり、諸葛亮が実際に会う前から「今一つパッとしないけど、本当はあの人が天下を取ってくれたらいいのに」と望みをかけていても不思議はない。ずっと前から、主として見込んでいたであろう劉備に対し、荊州人士のフリをして3回訪ねる礼を取らせたなら、三顧の礼も微笑ましい故事に思えてくる。
徐州虐殺にまつわる謎:陳琳の檄文
陳琳が曹操を貶して袁紹に付くよう促した檄文「為袁紹檄豫州文」は、曹操でさえ祖先への誹謗を除いて内容を評価したとされる名文で、文選に収載されている。
この有名な檄文であるが、何故か徐州虐殺に関する文言が一切ない。曹操を非難するなら恰好の材料であるにも関わらず、である。つまり袁紹には、曹操の徐州虐殺を糾弾できない理由があった。考えられる説を下に列記する。
1つ目は、徐州虐殺に袁紹が関わっていたという説である。そもそも、曹操の徐州侵攻は袁紹の指示に基づいて行われている。従軍する中に袁紹の配下もおり、彼らが虐殺を主導した可能性はある。ただし袁紹が徐州虐殺の黒幕であった場合、陶謙から徐州を受け継いだ劉備が公孫瓚派から袁紹派に鞍替えした際に、なぜこれといった抵抗がなかったのか、うまく説明できない。徐州侵攻で曹操の家族がどうなるかを予期しつつ指示を下したため、後ろめたさがあったというくらいが妥当かもしれない。
2つ目は、他国の民草より親を重んじるのが当然という、当時の価値観を反映した説である。儒教では、親の死に対して重く応じることを求められた。孝の深さを宣伝し、名声を高めるため、如何に大きくリアクションするか競う風潮すらあったかもしれない。親の死に対して虐殺で報いた曹操の行動は、孝に基づく君子の振る舞いだと解釈されていたかもしれない。
3つ目は、檄文の対象であった豫州では、徐州と利害の衝突があり、徐州虐殺がマイナス材料にならなかった説である。これについて具体的根拠を挙げるのは難しく、あくまで可能性の話のみとなる。ただ、曹操の父曹嵩は沛国譙県、つまり豫州の人で、戦禍から逃れるため徐州に身を寄せていた。戦争で徐州に逃れていた同胞とそれを殺した徐州人、豫州の民がどちらにより同情したかは容易に想像できる。
4つ目は、虐殺の経緯など史料そのものが間違っているという説である。三国志・後漢書への挑戦状ということで大変に分の悪い勝負である。三国志は当時の王朝である西晋を正当化するようしばしば筆を曲げている(典型例は高貴郷公の変)。陳寿の曹魏に対する姿勢は、西晋に繋がる正統王朝としつつ、徳が足りないため天命が西晋に移ったとする微妙なバランスに基づいている。曹操の汚点である徐州虐殺にも何らかの手心が加わっていた可能性は十分考えられる。後漢書は更に時代の下った南朝の劉宋時代の史書であるし、曹操の悪事を誇張する傾向がある。こちらも三国志同様に、事実を記載しなかった可能性は十分ある。
孟子いわく「悉く書を信ずれば即ち書無きに如かず」。正史とされる資料もその記載が無謬というわけでない。記載の矛盾や不自然な状況などについては、他の資料や考古学的成果を参照し、それでも足りないピースを想像力で補っていく形になる。世間で広まっている歴史上の知識が完全に証明された事実ではない、私自身はこのことを割と楽しく思うタイプである。学究的に全く褒められたものではないが、日々歴史をテーマに脳内で遊んでいる。
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