劉禅を強引に再評価する

劉禅は、三国志だけでなく中国史全体で見ても暗君を代表する存在として、一般に理解されている。しかしながら、史実を詳細に吟味すると、劉禅について別の可能性を感じるようになってくる。
ここに劉禅の再評価を試みる。無理矢理感は否めないが、司馬衷といい逆張りが好きなので仕方ない。

諸葛亮は、蜀漢の臣下で最も皇位を脅かしかねない存在であった。実際に、劉備から国を取ってもよいと遺言されたり、李厳から九錫(皇帝と同格の待遇を意味する9つの特典、皇帝即位の前段階)を勧められたりしている。
劉禅は丞相(非常時に設けられる宰相位、蜀漢で就任したのは諸葛亮のみ)・録尚書事(皇帝への上奏文を閲覧できる要職)と既に臣下として最高峰の権力を持っていた諸葛亮に、開府によって独立した政庁を持たせた。これほどのフリーハンドを与えながら、諸葛亮の寿命が尽きるその時まで揺るがぬ信頼を示したのだ。

劉禅ほど臣下を信頼して統治を委ねられる皇帝は、歴史上でも稀なのである。
中国史において、重臣の粛清は枚挙に暇がないほど起こっている。西漢(前漢)における韓信や南朝の劉宋における檀道済のように、君主権確立のためやむを得ないと評価できるケースもあるが、一方で国家の藩屏を失い亡国まっしぐらになったことも多い。後者の代表例として、伍子胥を殺した春秋呉の夫差、李牧を殺した戦国趙の幽繆王、斛律光を殺した北斉の後主、袁崇煥を殺した明の崇禎帝などが挙がる。
対して劉禅であるが、諸葛亮・蔣琬・姜維などの重臣を粛清した様子がない。費禕は暗殺されているが、魏陣営の意を含んだか姜維の差し金であると考えられている。
涼州出身の姜維は、それまで録尚書事・大将軍(武官の最高位)に任命された者達と比べて政権での求心力に乏しく、北伐により蜀漢の国力を疲弊させているという批判もあり、非常に危うい立場だったが、そんな彼も劉禅によって排撃されることはなかった。

ただ殺さないだけではなく、これら国家の重鎮に対する録尚書事・大将軍・開府など権限の与え方がなんとも絶妙で、北伐積極派と消極派、荊州人士と益州人士などのバランスを劉禅なりに考慮してコントロールしていたことがわかる。

劉禅の暗愚を示す例として、姜維の北伐を制御できなかったこと、黄皓の専横を許したこと、黄皓の占いを信じて蜀漢防衛を手抜いたこと、後宮の拡大を図ったことなどがよく挙がる。これらについて検討してみる。
劉禅自身は北伐積極派であった節がある。しかしながら、北伐積極派の陳祇が亡くなってから、姜維は蜀漢政権内で孤立しており、諸葛亮の息子諸葛瞻すら北伐消極派であった。そういった政権主流派への配慮か、姜維には一貫して開府を許しておらず、その権力には一定の制限を設けていた。
鍾会の侵攻時点で、北伐を繰り返した姜維の煽りを無視する風潮が政権内のメインストリームであったとして何の不思議もない。黄皓に関しても、姜維に対抗するため、諸葛瞻らによって担ぎ出されたという説がある。
最後に後宮に関して、12人より多く抱えようとしたのだが、どこまで増やすつもりだったかは分からない。桁を間違えなければ国家運営における致命的な問題とはならなかったであろう。
こういった問題に関する好意的な解釈を除くとしても、先に挙げたような亡国の君主や秦の二世(胡亥)などと比べてそれほど目立った失点とは思えない。

司馬昭から蜀の思い出を尋ねられて、思い出すことはないと答えた逸話は、劉禅の暗愚を象徴するエピソードとして有名だが、私にはむしろ劉禅の老獪さを示しているように思われる。権力掌握の途上にあった司馬氏を横目に寿命を全うしたことは勿論、鍾会・姜維の反乱を生き延びた時点で地味に驚く。いつ不穏分子に担がれてもおかしくないし、次の反乱を予防する観点から劉禅を除こうとする魏将が居ても不思議ではないからだ。よほど慎重に立ち回ったのだろう。

劉禅は司馬衷同様、自ら執政するというより、徳性・善性を示すことで天下を治めようと試みた皇帝だったように思われる。その治世に大きな破綻はなかったものの、それだけで蜀漢が生き残れるほど甘くなかった。魏に対してジャイアントキリングを決めるには、何らかの奇跡を起こすことが不可欠だったのだ。残念ながら蜀漢においてその奇跡が起こることはなく、最終的に魏に飲み込まれる結果となった。
そのような状況下で、蜀漢の結末だけから劉禅を世紀の暗君と呼ぶ行為は、果たして適切なのだろうか。

最後に、劣勢下の国家であるにもかかわらず、劉禅の皇帝在位40年は、当時だと西漢の武帝に次ぐ長さを誇った。
そして、諸葛亮の死後から数えても、29年にわたって蜀漢の政体を維持したのである。

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