五胡十六国ドリームマッチ その1 石勒 VS 劉曜

石勒の紹介
石勒は匈奴系の羯族出身で、西晋の司馬騰(司馬越の弟)勢力下で奴隷にされたところから、華北の覇者となった。五胡十六国のメインプレーヤーの一人であり、彼の足跡を辿ることで五胡十六国序盤の動きは大体わかるといっても過言ではない。
八王の乱において司馬穎陣営に身を投じ、そののち匈奴漢に属した。中華各地で大暴れし、司馬越病死後の残党10万人を惨殺するなど西晋滅亡に大きく関わった。
三国志の曹操に勝るとも劣らない実績を残した彼だが、実は戦争に結構負けている。そんな中でも滅亡することなく勢力を維持し続けた粘り強さが彼の持ち味だ。宿敵の王弥と仲直りの宴会を開いて酔わせた後に斬殺したり、宿敵の王浚を皇帝に推戴する振りをして襲撃したり、謀略もしばしば使いつつライバルを出し抜いている。ただし、今回紹介する劉曜に対しては真正面から激突している。

劉曜の紹介
劉曜は匈奴漢の初代皇帝劉淵の族子(同族の養子)であり、3代皇帝劉聡の族弟である。優れた軍才を持ち、劉淵・劉聡の下で将軍として大活躍した。
王弥に続いて洛陽に入ると、西晋の懐帝と国璽を劉聡の下に送り、自身は恵帝の皇后だった羊献容を妻とした。
続いて長安の攻略を行った。一度は西晋の名将賈疋(賈詡の末裔)に奪還されたものの、最終的に長安を奪取、西晋滅亡に貢献した。
劉聡の死後、匈奴漢は外戚である靳準が4代皇帝の劉粲を殺し、大混乱に陥った。それを収拾した劉曜は5代皇帝として即位した。

石勒と劉曜の対立
石勒は反靳準の立場で劉曜に協力し、劉曜は石勒に趙王の称号を送った。
しかしながら、その直後に劉曜と石勒は決裂した。劉曜は国号を趙に改め、その皇帝となった。趙王の石勒と並び立つことはあり得ない、不倶戴天の敵だというサインを発したのだ。
劉曜の国号改変については別の見方もある。漢という大義名分ある国号(*)を捨てて趙を名乗った背景は、石勒への嫌悪だけではないかもしれない。劉曜の劉淵・劉聡に対する思いは、一般的な父兄に対する敬意とは異なっていた。劉曜の宗廟からすると高祖父まで辿っても劉淵・劉聡と繋がらない。族子といってもそれほどの遠戚だったのだ。
都を平陽から長安に遷したことも注目される、匈奴漢の根源地である太原盆地を離れたのだ。

*劉淵が漢を立てたときのスローガンを私訳
私は匈奴だけれど、漢の皇族劉氏の血を引いている。偉大な漢が途絶えたことを天が悲しみ、晋の皇族たちを相争わせた。苦しんでいる晋の民のため、私が漢を復興します。みんなよろしく。

両者の激突 洛陽決戦
石勒は劉曜に対し、石虎(※)を差し向けた。ところが、劉曜はその石虎を完膚なきまでに叩きのめした。河東は前趙支配となり、後趙の戦線は洛陽付近まで後退した。石勒傘下の石虎は当時最高峰の将軍で、劉曜の他だと祖逖に負けたかどうか。(石虎と祖逖の勝敗は史料によって異なり詳細不明。ちなみに、君主となった後の石虎は慕容部に負けている)
もはや石勒自身で対峙するしかないが、石勒の出馬は乾坤一擲の戦を意味しリスクがある。後趙の家臣内でも賛否が分かれた。
洛陽の要となる防御施設の金墉城に攻め寄せた劉曜の兵力は、晋書石勒載記によると10万以上であった。対して石勒の下に集結した兵は歩兵6万と騎兵2万7千であった。石勒は成皋関(虎牢関の別名がメジャー)や洛水(崋山から洛陽南側を通って黄河に注ぐ支流)といった要害で劉曜が阻んでくることを恐れたが、劉曜は洛陽西側になんの工夫もなく布陣していた。石勒は隠密かつ迅速な進軍で機先を制して分進合撃を仕掛け、劉曜の兵5万人超を殺したばかりか劉曜本人を捕らえることができた。
晋書劉曜載記によると、彼は大酒を飲んで備えを怠り、敗戦後の退却途中でも泥酔しており、そのせいか落馬して後趙に捕まったとされる。
劉曜は石勒に捕まって間もなく殺された。劉曜の息子には、皇太子の劉煕や才知に富んだ劉胤などが居たのだが、彼らは長安を放棄し、西方の天水に逃げた。長安より安全なのは確かだったが、これにより前趙は求心力を失い、石勒に付く者達が更に増えた。劉胤は捲土重来を目論んで長安に侵攻したものの、石勒は石虎を投入し、今度は石虎が勝利した。劉煕・劉胤などは石虎に捕まって殺され、ここに前趙は滅びた。

※石虎は史書において、字呼びの石季龍と記されることが多い。唐の太宗李世民の曾祖父に李虎という人物が居るからだ。中国では、目下の人間が名を呼ぶのは失礼と考えられていた(だから忌み名=諱と呼ぶ)。皇帝ともなると、公文書等でもその名を避ける必要が生じたのだ。例として挙がるのは、相邦→相国(劉邦)、建業→建康(司馬鄴)、長安→常安(姚萇)、京師→京都(司馬師 異説あり、西晋期成立の三国志でも徹底されていないからだ)など。

前趙の隠れた名将 游子遠
五胡好きとしては、この決戦の結果を変え得た人物について言及しておきたい。游子遠である。
游子遠は劉曜に対してしばしば諫言を行ったがその内容は常に適切であったし、兵を率いて関西(函谷関の西側)支配の確立に貢献した軍才も有していた。
しかしながら、巨大な陵墓を造築しようとした劉曜を諌めた322年以降、彼の事績は途絶えている。失脚・粛清なのか、引退・自然死なのか、彼の末路は分からない。
石勒と激突した328年時点で游子遠が健在であれば、劉曜にどのような献策を行い、将としてどう活躍しただろうか。IFを言うなら石勒についても322年に死んだ張賓を持ち出さねばならないし、まあここまでとする。

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