慕容垂の紹介
慕容垂は前燕の初代王慕容皝の5男で、当初慕容覇と名乗っていたが、落馬して歯が折れたことから慕容缺、その後慕容垂に改名させられた(改名させたのは兄慕容儁、かつて慕容垂は前燕の太子候補であり、慕容儁との確執があった)。
高句麗・宇文部・冉魏など各戦線に従軍したあと、前燕の洛陽奪取にも貢献した。五胡十六国を代表する名将・名宰相の慕容恪が軍務・政務ともに自分の10倍の才を持つと評価した慕容垂だったが、慕容儁とその子慕容暐からは冷遇され、慕容恪死後に前燕での居場所を失いつつあった。
桓温の紹介
桓氏は豫州譙郡の名族だったが、父は蘇峻の乱で死亡した。キャリアの転機は司馬紹(明帝)の娘を妻に迎えたことである。
その後、荊州を統括する庾翼に抜擢された桓温は西府軍を引き継ぎ、西進して蜀の成漢を攻略、西暦347年に見事併呑した。荊州方面から長江を遡上して行う征蜀は基本的に難事業で、成漢李勢の暗君ぶりに助けられたとはいえ、東晋にとって生産力拡大・荊州の安全確保など、以後の強勢を支える重要な出来事だった。
桓温の北伐
桓温は石虎死後の後趙混乱を突くべく北伐の要請を行ったが、なかなか中央が動かなかった。
抵抗勢力の殷浩を追放することでようやく北伐への道が開け、長安攻略には失敗したものの、356年に西晋の旧都洛陽を占領した(365年に慕容恪率いる前燕に奪われた)。
369年に郗愔を左遷させたことで北府軍をも掌握し、全軍を挙げての北伐が可能となった桓温は、同年ついに大規模な北伐の軍を起こした。
両者の対決 枋頭の戦い
桓温の北伐に対して、前燕の諸将は敗北を重ねた。皇帝慕容暐・宰相慕容評は冷遇していた慕容垂を切り札として投入した。
慕容垂は兵8万を率い林渚(現在の河南省鄭州市)において、兵5万とされる桓温軍に戦いを挑んだが、ここでは桓温が勝利した(林渚で慕容垂が本当に負けたのか、史書により記載が異なるのだが今回は晋書・桓温伝に拠った)。
桓温は黄河北岸の枋頭(現在の河南省安陽市)まで進出したが、慕容垂の弟慕容徳によって兵站の要である石門を制圧され、前線に孤立する形となった。
東晋が補給線確保に失敗したことや前秦が前燕に援軍を出したことなどで、桓温は北伐の試みが潰えたと判断し、手際よく撤退したのだが、慕容垂は騎兵の機動力を活かしつつ、桓温の裏をかく形で追撃を仕掛け、兵3万を討ち取る大戦果を挙げた。
その後
北伐の失敗は桓温の権勢を削ぐ結果となった。それまでの東晋の歴史において、最も皇帝に近づいた権臣桓温だったが、禅譲への道のりは遠のき、その手続きを終える前の373年に寿命が尽きた。
一方の慕容垂は大功を挙げたにも関わらず、かえって慕容暐・慕容評から警戒され、やがて前秦に亡命した。
枋頭翌年の370年、前燕は前秦にあっさり併呑された。王猛の働きはあるものの、桓温の北伐による前燕の消耗、慕容垂の亡命も重要であったと思われる。
対して東晋は前燕崩壊に乗じて国威を高めることが出来なかった。そこには、桓氏・陳郡謝氏・太原王氏・司馬氏あたりが絡んだ権力闘争により、外征どころではない事情もあった。
華北を丸々掌握した前秦は、その後桓温が切り開いた蜀をも支配するようになり、南北のパワーバランスはかつてない程北側に傾いていった。
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