羊献容は賈南風に続く司馬衷の皇后として司馬倫・孫秀によって立てられた。
母方の孫氏は孫秀の親戚にあたるが、三国呉の皇族とは無関係で、徐州琅邪郡をルーツとした寒族と考えられている。父方の泰山羊氏は、司馬師の妻や羊祜などを輩出した晋を代表する名家である。
その後、司馬倫が皇帝になると、羊献容は必然的に廃后させられた。
司馬冏・司馬穎・司馬顒の三王が決起し、司馬倫が倒された。司馬衷が皇帝に復位したため、羊献容も皇后に戻った。しかし、羊献容の母方孫氏の一族は誅殺された。
その後、朝廷の主宰者が司馬穎となると、羊献容を廃した。
司馬穎の専断に対し、対抗する術を持たない洛陽朝廷だったが、実力者司馬越が立ち上がり、洛陽周囲から司馬頴の影響力を排すると、羊献容を皇后にした。
司馬衷を奉じた司馬越の軍が司馬頴に敗北し、洛陽は司馬顒配下の張方が掌握した。これにより羊献容は再び廃位された。
王浚・司馬騰が司馬穎を鄴から追い出すと、洛陽において羊献容が再び立后された。ところが、その後朝廷の主宰者が司馬顒となり、配下の張方は羊献容をまた廃位した。
司馬顒と司馬越の権力闘争により、羊献容の廃立は目まぐるしく変転した。司馬顒は政争の材料であった羊献容を殺そうとしたが、洛陽朝廷の抵抗により阻止された。
司馬越の勝利が確定して皇后に戻った直後に司馬衷は急死した。羊献容は皇太后になるべく、皇太弟司馬熾でなく皇太子司馬覃を皇帝にしようとしたが、司馬越らの反対によって実現しなかった。しかしながら、司馬熾は羊献容を恵皇后とし、尊重する姿勢を取った。
西晋における羊献容の廃立を簡単にまとめると下のようになる
立后 廃后
①孫秀・司馬倫 孫秀・司馬倫
②司馬冏 司馬穎
③司馬越 張方(司馬顒派)
④洛陽朝廷(荀藩・劉暾ら) 張方(司馬顒派)
(司馬越派の皇甫昌による立后未遂)
⑤周権(司馬越派) 何喬(派閥不明)
⑥司馬越
混沌とした八王の乱の様相だが、羊献容への態度を基準とすることで、
・洛陽朝廷を重んじる勢力(許昌の司馬冏、東海郡の司馬越)
・諸侯王としての意識が強い勢力(鄴の司馬穎、長安の司馬顒)
に二分されることが分かってくる。
羊献容の廃立に関わらなかったため省略したが、司馬乂は明らかに前者である。
無為と見なされがちな司馬衷だが、前者の勢力を明確に支持している。
ところが、後者が備える実力を西晋皇帝の権威だけではどうにもできなかった。司馬乂を攻めるときに司馬穎が動員した20万超は、地方政権とは思えない規格外の大兵力であり、司馬顒の動員した7万も十分に大軍であった。
諸侯王にこれほどの軍権を与えた西晋の制度設計にはやはり問題があった。皇帝集権寄りだった曹魏へのカウンターとして成立した王朝とはいえ、西漢(前漢)における呉楚七国の乱など先例をきちんと検証しておくべきだった。
永嘉の乱により洛陽が匈奴漢に占領されると、羊献容は劉曜の妻となった。羊献容は劉曜に寵愛され、史料に残る限りでも劉煕ら3人の男子を産んでいる。劉曜が前趙の皇帝として即位すると、羊献容は皇后となった。自身にとって7度目の立后であった。
あるとき劉曜は羊献容に対し「自分と司馬衷を比べてどうか?」と聞いた。
羊献容はこう答えた「陛下は創業の聖主、あの人は亡国の暗主でした、あの人は皇帝なのに妻子ばかりか自分の身すら守れず、一家は庶民の手によって辱められました、その頃私は死にたいと思っていました、当時の私は現在のような素晴らしい境遇を想像できたでしょうか?私は身分の高い家に生まれましたが、世の中の男はみな同じだと思っていました、あなたに仕えるようになってから、世の中には本当に立派な旦那さんが居ることを知りました」
(晋書 恵羊皇后伝のbing翻訳を踏まえて私訳)
もちろん劉曜の歓心を買うための修飾はあるのだが、彼女の境遇を踏まえると、本心から出ている言葉が多分にあったのではないだろうか。
立后から4年後の西暦322年に羊献容は死去、劉曜は立派な墳墓を作ってその死を悼んだ。329年に劉曜、劉煕らが石勒に敗れて死ぬ結末を見ずに済んだのは幸運だったといえる。
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