侯景の出身は定かでない。
北魏において爾朱栄の部下として頭角を現し、その後は高歓の下で重んじられた。しかしながら、高歓は自分の死後に侯景が息子らに従わないことを予想し、警戒していた。高歓死後、長男の高澄と対立した侯景は南朝梁と結ぼうとした。戦上手で知られる侯景の謀反は大変な脅威であったが、高歓が対侯景の切り札として用意していた名将慕容紹宗の参戦により、侯景は敗れた。
侯景は梁を頼ろうとしたが、おりしも梁の皇族が東魏の捕虜となっており、身柄交換の対象となる可能性があった。身の危険を察した侯景は梁に対して攻撃を仕掛けた。䔥衍(梁の武帝)に不満を持つ宗室の抱きこみ、兵糧攻め、巧みな講和と宣戦布告などによって建康を陥落させた。
東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)の行政区分における徐州・豫州方面から長江を渡って建康を落とすことは大変な難事業で、曹操・石勒・苻堅など挫折した英雄達を連ねてみると錚々たる面子になる。侯景が彼らですら不可能だった、中国史上稀にみる偉業をなした武将であるということは強調しておきたい。
䔥衍を餓死させた後、梁における事実上の支配者になった侯景は、宇宙大将軍・都督六合諸軍事という珍妙な役職に就いた。
宇には屋根・軒といった意味があり比較的ソリッドな実体を伴うもの、宙は空・虚空であり実体が不明瞭なものを指すが、どちらも上にあるのは共通している。北魏において、従来からある大将軍の上位に柱国大将軍が設けられ、そのさらに上に天柱大将軍という称号があった。侯景はこれらに満足せず、さらに上の称号を志向したと考えられる。
六合とは、前後左右もしくは東西南北の4方に、上下もしくは天地の2方を足した意味だと考えられる。軍司令官の頂点である都督中外諸軍事よりさらに上の称号が欲しかったのだろう。
その後侯景は皇帝に即位したのだが、在位わずか5か月で南朝側の逆襲により殺害された。もし長期政権を築けていたのなら、皇帝よりさらに上の称号を捻り出していた可能性があり、どうなっていたか興味深い。
国号は漢を選択したが、漢中や漢水(長江の支流の一つ)流域になんの地縁もなければ、劉姓というわけでもない。
国号選びの原則を完全に無視して、もっとも格の高そうなものを選ぶあたりが侯景らしくて、ここまで徹底していると寧ろ好感を持ちたくなってくる。
侯景が皇帝となるにあたって、7代前までの先祖を祀るよう言われたため、「父親の名しか知らん」と答えて嘲笑を浴びた。名士の中では当然の作法なのかもしれないが、これまで散々寒門を皇帝に担ぎ上げておきながらのこの仕打ち、まるで京都人のイケズのようである。現代の価値観からすると、平然と正直なところを述べた侯景の態度に共感するところも多いように思われる。
侯景が対峙して敗れた相手を列挙すると、陳慶之・慕容紹宗・王僧弁・陳覇先となんとも豪華な顔ぶれ。
ちょっとこれはしょうがないかな、時代が少しでも違っていればさらに大活躍できたはず。
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