劉裕の出自に関する記載は魏書(北朝の正史)と宋書(南朝の正史)で異なる。少なくとも名門の生まれではなかった。
東晋を揺るがした孫恩の乱(五斗米道という道教勢力を中心に起こった乱)において、東晋の二大軍事組織の一方、北府軍を率いる劉牢之の部下として反乱軍に対して大暴れし、武名を轟かせた劉裕は将軍として名を連ね大いに出世した。
その後、二大軍事組織のもう一方、西府軍を統括する桓玄(桓温の息子)が政権を主導するようになった。上司の劉牢之は当初桓玄に付いたが、やがて後悔するようになり、北府軍を掌握して再起を図ろうとしたが失敗して自殺した。劉裕は桓玄の下に属したが、桓玄が楚の皇帝を名乗ったのちに桓玄打倒のため決起し、桓玄を西方に追い払った。桓玄はその後殺された。東晋再興の立役者となった劉裕の存在感は否応なしに増大することになった。
その後は、北方の南燕を征伐し滅ぼす、留守の建康を南方の盧循(孫恩の残党)に衝かれ窮地に陥りつつも反撃の上で討ち取る、西方の譙蜀(後蜀:五代十国のそれと区別するため)討伐の軍を起こして滅ぼす(劉裕自身は出征していない)、北西の後秦から洛陽を奪取したのち長安を攻略して滅ぼす等、基本的に騎兵戦力で劣る南側勢力としては目覚ましい武勲を挙げた。
その後、建康の留守を任せていた腹心の劉穆之が死んだため、劉裕は息子の劉義真と功臣の王鎮悪(前秦の名臣王猛の孫)を残して長安を去った。(盧循の件で建康を空けるリスクが身に染みたのだろう)
劉裕本隊が離れた隙を赫連勃勃は見逃さなかった。王鎮悪が内紛により死亡したこともあり、長安において東晋勢力は崩壊し、夏に奪取された。
長安を失ったものの、存分に武威を示した劉裕は、司馬徳文(恭帝)から禅譲を受け、宋の皇帝として即位した。
劉裕の即位によって、西晋・東晋と続いた司馬晋の系譜は途絶えた。南朝は漢人による正統王朝を標榜したが、軍事力の最も高いものが皇帝になるという実力主義的皇帝即位の仕組みは五胡・北朝と大差なく、東晋ほどの伝統・権威・正統性が担保されていたか甚だ疑問である。
また、劉裕は司馬徳文を殺害し、これより後、禅譲を受けた新王朝で旧王朝の皇族を殺すのが常態化した。背景には、桓玄が司馬徳宗(安帝)を生かしたことで、劉裕らに挽回の余地を与えた影響を考える。
旧王朝の皇族が余生を全うした魏・西晋による禅譲と異なり、本来血を見ないはずの禅譲という手続きは型式だけの殺伐としたものとなった。戦乱による世相の変化で説明できるが、皇位継承が実力本位になり誰でも成り代わりうるという事情が大きそうだ。
劉裕は直接対峙した相手を悉く倒しており、東晋・南朝で最強の武将との呼び声も高い。
一方で、赫連勃勃相手に長安を失陥したこと、北魏に対して目立った戦績がないなど相手が弱いだけだったという意見もある。確かに、拓跋珪、赫連勃勃、拓跋燾らを相手にしても劉裕が勝てたのか、これは分からない。
しかしながら、しばしば周辺情勢によって不本意な動きを強いられながらも、東晋・南朝における最大版図を築いた劉裕の実力は、やはり特筆すべきものがある。劉裕の滅ぼした胡漢勢力は3つ(南燕・譙蜀・後秦)だが、これは個人が滅ぼした数として最高峰である。五胡十六国を調べると漢人が滅ぼした国の多さに驚くが、劉裕の働きによるところは大きい。特に、淝水の戦い後を主導した関西(函谷関より西側)の大国後秦を滅ぼしたことは注目される。
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