蕭道成は西漢(前漢)の名臣である蕭何の末裔を自称していたが、寒門としてのキャリアを辿っている。
蕭道成に出世への道を開いた要素は2つある、一つは北魏相手の武勲である。
竟陵(旧江夏郡 現在の湖北省中部)で北魏を攻撃して勝利、襄陽防衛と樊城攻撃で成果、関中(現在の陝西省)への侵攻など、蕭道成は北魏相手に見事な戦績を誇った。劉義隆(劉宋の文帝)による北伐への反攻として、西暦450年に拓跋燾(北魏の太武帝)が親征し、淮水周囲で簫道成と衝突した。蕭道成といえど流石に拓跋燾相手では不利な戦いを強いられたが、疫病や気候の違いに苦しんだ拓跋燾は兵を退き、防衛の目的は果たされた。
もう一つは南朝劉宋に対する反乱鎮圧に功績があったということである。劉休範(桂陽王)は劉昱(後廃帝)の皇族一掃に抵抗して反乱を起こした。一時は首都建康に迫るほどの勢力を誇った反乱軍だったが、蕭道成はこれを見事鎮圧した。後に劉景素(建平王)の反乱も蕭道成によって鎮圧された。
こうして宋の実権を握った蕭道成だが、皇帝劉昱が蕭道成の腹を矢の的にして殺そうとするなど不穏な空気となったため、先手を打って劉昱を殺害した。
皇帝弑殺に続いて蕭道成の専横に対する反乱が起こった。反乱者として、蕭道成・褚淵とともに四貴と称された袁粲・劉秉、反乱鎮圧や外征に功績のあった沈攸之など当時の重臣が名を連ねている。政敵の反乱平定・粛清を繰り返して権勢を確立した蕭道成は、479年に劉準(順帝)から禅譲を受け、斉の皇帝になった。国号の根拠として、本貫地が東海郡蘭陵県(現在の山東省臨沂市)であったことを記しておく。
劉準は禅譲から一か月足らずで殺された、劉準は「生まれ変わっても帝王の家には生まれたくない」と言ったとされる。
蕭道成は即位から3年後の482年に死んだ。次代の蕭賾(武帝)は名君とされるが、禅譲から体制を整える間もなくの皇帝交代が、南朝斉の短命(23年)に大きく影響したと思われる。
政敵となった権臣や宋皇族に対して苛烈な態度を示した蕭道成だったが、民衆に対しては戸籍整備、私兵制限、儒学奨励、宋時代の暴政を除くなど愛護的に接していたようだ。ただし、劉昱の暴君ぶり同様、その評価に何らかの手心が加わっている可能性は否定しない。
蕭道成の事業としては、建康の都城整備も言及しておきたい。建康の城壁は従来竹垣だったが、蕭道成はレンガ造りとした。また左右対称な都の様式もこの頃形成されたという。
後に北魏が洛陽に遷都する際、都城の参考として斉の建康に視察を派遣している。そうしてできた洛陽は建康をモデルとして整備された都城であった。また、唐の長安も北魏洛陽の延長上にある都市である。
日本に目を向けると、日本最初の宮都とされる藤原京は建康もしくは北魏洛陽を模範にしたとされる。平城京・平安京が長安を参考にしたことは広く知られている。
つまり、蕭道成による都市設計が、その後各国の首都の在り方に大きな影響を及ぼしたのである。
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