南朝創業紀 その4 陳覇先の陳

陳覇先は、潁川陳氏(現在の河南省許昌市を本貫地とする名門、陳寔・陳紀・陳羣・陳泰などを輩出)の末裔を自称したが、劉裕・蕭道成・蕭衍と違って寒門(中下級官僚や将軍を輩出した家柄)ですらない、土豪の出身であった。

地方の小役人・建康の油倉庫番からキャリアをスタートした陳覇先だが、その能力を認められ、最終的に広州(現在の広東省付近)の軍権を掌握した。
交州(現在のベトナム北部)土着の李賁が挙兵したが、陳覇先はこれを討ち、梁南部において威望を高めた。

侯景の乱が起こった時、陳覇先は周辺勢力をまとめながら北上し、江陵から東下していた王僧弁と合流した。
王僧弁・陳覇先同盟軍は侯景に対する反攻の主力となり、巴陵(現在の湖南省岳陽市)での戦勝から勢いに乗って最終的に建康を奪還した。侯景は逃亡中に殺された。

乱を制した王僧弁の上司である蕭繹が即位(元帝)したが、蕭繹は西魏に蜀の返還を求めたため、西魏は蕭詧を奉じて江陵に侵攻し、蕭繹は殺された。蕭詧は後梁の皇帝を自称したものの、実際には西魏の傀儡政権であった。
王僧弁と陳覇先は、蕭詧の即位を認めず建康で蕭方智(敬帝)を擁立した。

ここで西魏の手際に習ったのか、北斉が捕虜としていた蕭淵明(閔帝)を返還し皇帝とするよう迫った。王僧弁は、江陵奪還に北斉の協力が不可欠であることや北斉の強勢から、その要求に応じようとしたが、陳覇先はあくまで蕭方智の擁立に拘った。
梁の屋台骨を支える2大巨頭である王僧弁と陳覇先は、ここに決裂した。
侯景の乱から3年後の西暦555年、陳覇先は建康において王僧弁を攻め殺した。

2年後の557年、陳覇先は蕭方智から禅譲を受け、陳の皇帝(武帝)となった。なお、蕭方智は禅譲の約半年後に殺されている。

北斉に対して軍事面で優位に立った陳覇先だが、王僧弁の残党に苦しみ、また西魏から楔のように撃ち込まれた後梁の存在をどうすることもできなかった。
陳覇先は、在位2年足らずで死んだ。南朝陳は初代の短在位により、宋や斉同様の苦しい初期運営を強いられたのである。

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