魏晋南北朝の名包囲 その1 司馬昭 諸葛誕の乱

都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。

このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。
1回目は司馬昭による諸葛誕の乱を取り上げる。
司馬氏に対する淮南三叛の3番目という政治的な意味合いから評価されることが多いけれども、内容的に非常に面白い戦いで、司馬昭は将帥として凄まじいと実感できる名包囲である。

都督として揚州の軍権を掌握していた諸葛誕は、司馬氏でなく曹氏への忠誠を明確にしていた。そのため司馬昭は司空(人臣の頂点とされる三公の一角、国土交通大臣に相当)昇任を餌に中央へ召還しようとしたが、不自然な人事異動を察知した諸葛誕は、州都寿春(現在の安徽省淮南市、淮水南岸にある南北交通の要衝)において決起した。

諸葛誕の指揮下には15万ほどの兵が居たとされ、諸葛誕の人望を窺い知ることができる。
それに対し、司馬昭は26万もの大軍を動員した。魏領内における戦闘のため補給線確保が容易だったこともあるが、兵站が許す最大限の兵力を最初から投入したのである。また、司馬昭は出征に皇帝曹髦と郭太后を同伴させた。留守中の首都洛陽における政変を予防する目的と、諸葛誕が司馬昭でなく魏への反逆であることをアピールする目的を兼ねていた。

諸葛誕は呉に援軍を要請し、3万を率いる先発の文欽(先の毋丘倹・文欽の乱で呉に亡命していた)は司馬昭の軍勢を突破し、寿春に入城した。
文欽の合流を許した司馬昭だったが、その後は寿春を封鎖する包囲線(circumvallation)と外部からの救援に備えた包囲線(contravallation)、この二つの包囲を完成させた。
文欽に続く呉の援軍である朱異率いる5万は魏の包囲を崩せないまま兵糧が尽き撤退した。

呉の実質的な指導者であった孫綝は、朱異に再出撃を命じたが、朱異は拒否した。
領外への出征で兵站に不安のある呉の一軍が、国力・兵站ともに勝る魏のほぼ全軍を相手に重包囲を突破する、この無理難題さは現場に居ればすぐ分かったのだろう。
ところが、朱異の態度に激怒した孫綝は独断で朱異を誅殺してしまった。

これより先に孫綝は、沙羨侯の孫壱(*)に対して、諸葛誕の救援にかこつけて朱異を派遣し攻撃していた。孫壱は魏に亡命し、厚遇された。魏という大敵を前に国内の政敵を討とうとし、朱異の救援を遅らせた孫綝の態度は度し難いものがある。

*孫壱について
実際には孫懿であった可能性がある
西晋に属する陳寿は司馬懿の諱を避ける必要があったのだ
蜀漢の呉懿→呉壱の実例がある

さらに、外戚の全氏は皇帝孫亮に近い勢力であり、孫綝とは潜在的な対立があった。鍾会はこれを利用して、孫綝が全氏の誅殺を試みているという流言を広めた。孫壱や朱異の前例もあり、結果として全氏の多くが魏に亡命した。

封鎖された寿春では兵糧が不足するようになった。結果的に文欽の合流が裏目に出てしまった形になる。
文欽は魏の兵を追い出して、呉の兵のみによる戦闘継続を主張するが、諸葛誕は自分を奉じて反乱に参加した兵たちを見捨てるのが忍びなかったのだろう。
この対立が原因で文欽は諸葛誕に殺されてしまった。
文欽の息子文俶(文鴦)は寿春から出て司馬昭の下に亡命したが、司馬昭は主犯格の息子すら快く受け入れたのだった。

ここに至り、司馬昭と孫綝/諸葛誕と、どちらに付くべきか寿春の人たちにも明らかになってきた。司馬昭は自ら城への攻撃を開始したが、諸葛誕側に応戦する力は無かった。
諸葛誕は最後の力を振り絞って撃って出たものの、司馬昭配下の胡奮が迎撃し、諸葛誕は斬られた。
しかしながら、諸葛誕のカリスマもさるもので、諸葛誕に殉じる旗下の兵達が多く居たのだった。

乱の平定により、司馬昭は曹魏を擁護する勢力の排除に成功した。司馬昭が直接戦ったのは諸葛誕だが、実際には魏帝の権威に挑戦していたわけだ。この流れは関ケ原を思い起こさせる。
一方の呉は、乱に乗じて淮南の版図を広げる予定が、諸葛誕を見殺しにしたばかりか、孫壱・全氏・文俶その他多くの人々が魏に丸々寝返る結果となった。その敗戦は魏と呉のパワーバランスを大きく傾け、司馬炎による征呉以前でいえば対魏晋戦線における最も重大な敗戦となった。
また、司馬昭の仁徳ぶりは国内外で広く知られることになり、その後の統一事業を声望面から支えた。

この戦いで司馬昭が将としての評価を確立したことも大きい。
後に鍾会は、魏の兵と蜀漢の残兵で総勢20万余を掌握可能だったにもかかわらず、司馬昭が10万を率いて長安へ出馬したことに焦って拙速な決起を行った。数的優位を見込めたにもかかわらず、将として司馬昭と対決するプレッシャーが鍾会から冷静さを奪ったのだ。

南宋末~元の歴史家胡三省の評によると、たとえ周瑜・呂蒙・陸遜が存命だったとしても、包囲完了後の寿春への到達は不可能とのことである。
孫綝に勝機があるとすれば、襄陽方面から宛・洛陽を攻める、いわゆる囲魏救趙(戦国時代に斉の孫臏が魏の首都大梁を包囲することによって趙を救援した故事)しかなかったと言われている。

実はこの戦いの呉軍に、陸遜の息子である陸抗が参加していた。司馬昭が行った2種類の戦争(包囲戦と仁徳宣伝合戦)の手際に感動した部分があったのだろう、陸抗は後世においてこれを模倣する戦いを行った。それが次に紹介する西陵の戦いである。

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