都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。
このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。2回目は陸抗による西陵の戦いを取り上げる。
三国志を代表する見事な包囲戦なのだが、三国時代の後期ということもあり、今一つマイナーな感は否めない。
呉の皇帝孫晧は、西陵(かつての夷陵を改名 現在の湖北省宜昌市)に駐屯する歩闡を都へ召還しようとした。
残念ながら暴君とされた孫晧の為人・実績の関係で、歩闡は身の危険を感じ、呉に対して反乱をおこした。晋は降伏した歩闡に対し、衛将軍(大将軍、驃騎将軍、車騎将軍に続く序列4位の将軍職)・儀同三司(人臣の頂点である三公と同等の待遇)という要職を授けた。
歩闡の反乱の報に、陸抗は兵3万を率いて西陵に急行したが、攻撃は行わず、陣地の構築を始めた。攻撃を行わなかった理由は、陸抗自身が西陵城を整備してその堅固さを理解していたため、援軍来着までに落とす見込みがなかったことによる。諸将は消極的な陸抗の戦い方に不満を抱いたが、一度だけ試みた西陵への攻撃が失敗したため、土木作業に専心するようになった。
陣地は西陵城を封鎖する内側の包囲線(circumvallation)と、やがて現れる晋の援軍に対する外側の包囲線(contravallation)を備えたものであった。
晋の都督荊州諸軍事・車騎将軍である羊祜は、荊州刺史の楊肇に兵1万を授けて西陵に向かわせ、自身は兵5万を率いて江陵(現在の湖北省荊州市)に向かった。江陵は西陵より長江下流側の港湾都市で、荊州の要といっても過言ではない。
諸葛誕の乱に関する記事で言及したが、寿春における司馬昭の包囲を解く唯一のチャンスは荊州から北進して宛・洛陽を脅かすことであった。西陵より遥かに重要な要衝を狙った羊祜は、その戦略を的確に選び取ったことになる。
諸将は西陵を放棄して江陵に向かうよう提案したが、陸抗は西陵の包囲を維持し続けた。もし陸抗がここで西陵を放棄していれば、西陵以西は晋の支配下に落ちていた可能性が高い。
江陵の堅固さを正確に見積もった陸抗は、西陵攻略の方が早く、たとえ羊祜が江陵を攻め取れたとしても攻城戦による消耗から自軍による奪還は可能と計算した。慧眼である。
陸抗は張咸に江陵を守備させる一方で、孫遵に長江南岸を守備させた。羊祜に長江南岸を押さえられると、西陵の陸抗軍が帰る場所を失ってしまい、戦闘どころではなくなってしまうからだ。
陸抗は江陵周囲の水路をせき止めて、城の周囲を水で満たしていた。羊祜が水運を利用しようとしたところ、今度は堤を切って対抗した。羊祜は改めて車での陸上輸送を試みたが湿地帯を運行することになり、大きな損害を出した。
楊肇が西陵に到着した後に、陸抗配下の2部将が呉を見限って晋に投降した。晋と呉の盛衰を見比べればやむを得ない判断だし、消極的な陸抗に飽き飽きしたのかもしれない。
ところが、陸抗はその状況すら利用した。軍の急所である異民族部隊の配置が漏れることを計算して、そこに精鋭部隊を当てたのだ。楊肇は降将からの情報に基づいて包囲陣への攻撃を仕掛けたが、徒に兵を損なう結果となった。
楊肇は長期に渡って対陣したものの、なすすべなく、ついに西陵を諦め退却した。それに伴い羊祜の本隊も兵を退いた。外側からの脅威を排除した陸抗は、ついに西陵城への本格的な攻撃を開始。やがて落城させ歩闡を捕らえた。
陸抗は、歩闡ら首謀者を処刑したものの、それ以外の者については助命し、その徳を知らしめた。
包囲の手際といい、敵味方に徳を知らしめた行為といい、陸抗は司馬昭による諸葛誕包囲を模範し、見事な成果を得たのだった。
しかしながら、味方の呉は衰微しつつあり、陸抗一人の奮戦ではいかんともし難かった。
また、陸抗の相手は孫綝のような愚将でなく、名将羊祜だった。陸抗は西陵包囲戦で羊祜を出し抜いたものの、仁徳宣伝合戦については概ね互角で拮抗していた。
陸抗と羊祜は荊州における良きライバルとなり、両者の関係(羊陸之交)は三国時代終盤を彩った。
歩闡の乱から2年後の西暦274年に陸抗は病死した。陸抗の死によって、晋と呉の均衡は完全に崩れ去ったのだった。
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