巴と蜀 重慶と成都

四川(*)の地のことをしばしば巴蜀という。春秋戦国の頃、四川の地に巴の国と蜀の国があったことに由来する。
蜀が成都を中心とするエリアなのは三国志などで比較的理解しやすいが、では巴とは何なのかと言われると少し考え込むかもしれない。
巴とは重慶を中心とするエリアを指す。
現在でも重慶と成都は四川を代表する二大都市として知られる。成都は四川省の省都であるし、重慶は中央政府による直轄市(他に北京・上海・天津 人口は重慶が最多だが面積も圧倒的に広い)である。

*ちなみに四川とは長江支流の4つの川、岷江(ミンコウ)・沱江(トウコウ)・涪江(フウコウ)・大渡河(ダイトガ)のことを指すとされる

成都の歴史
成都市よりやや北東の徳陽市に長江文明の三星堆遺跡が発見されており、古くからの人口集積を示唆する。
古蜀を建国したとされる伝説上の王、蚕叢は養蚕との関わりで語られることがある。蜀錦という語が示す通り、絹は古来より蜀の伝統産業として有名であった。蜀という地名そのものが、このエリアにおける養蚕の盛んさを象徴する。
伝説上の王、杜宇は農業を発展させるよう人々を教え導いたという。杜宇は治水に功のあった開明に位を譲り、開明は王朝を開いたとされる。このあたりは舜から禹への禅譲劇を彷彿とさせる。

史料で確認できる歴史は秦が蜀の開明王朝を征服したところから始まる。秦の縦横家として有名な張儀は、蜀への出征に反対したものの、征服後に成都の城郭整備を行った。辺境である蜀における都城の造築は反乱の嫌疑をかけられやすく、大規模な工事はなかなか難しかったようだ。張儀による都市計画は、後世まで影響を及ぼした。

秦の蜀郡太守であった李冰は、都江堰に代表される成都治水の基本的デザインを成し、これは現在まで引き継がれている。李冰の偉業により蜀は、安定した農業生産を行えるようになり、中国最高峰の穀倉地帯となった。続漢書郡国志によると、西暦140年時点の東漢(後漢:五代のそれと区別するため)13州の中で、益州は人口・戸数ともにトップであった。蜀は三国時代の諸葛亮をして、「沃野千里、天府之土」と評させるほどの豊かな地となったのだ。その後、諸葛亮自身も蜀の治水事業に携わっている。

三国時代の劉備は蜀の地で漢を名乗って自立した。その後も、五胡十六国の成漢・譙蜀(後蜀:五代十国のそれと区別するため)と成都を都とする独立政権がしばしば現れたが、外部の諸勢力に翻弄されがちであった。

東晋から楚への易姓革命を行ったものの維持に失敗した桓玄は、蜀に逃れて再起を図ろうとしたがその前に殺された。
唐の時代において、李隆基(玄宗)は安禄山の乱で混乱した長安から成都に逃げた。息子の李亨(粛宗)や名将郭子儀の働きにより、結果的に唐は命脈を保つことができた。唐において成都は再び皇帝を迎えることになる、黄巣の乱で李儇(僖宗)が逃げてきたのだ。この後まもなく唐は滅び、朱全忠(後梁の建国者)と李克用(のちの後唐の基礎を作った)の2人を軸に時代が動き始める。五代十国の開幕である。
五代十国において、王蜀(前蜀)・孟蜀(後蜀:五胡十六国の譙蜀と区別するため)と成都を首都にした国はあったが、地方政権の域を出なかった。

重慶の歴史
重慶市内から古の人類、いわゆる巫山人(Wushan man)が出土している。
これは約200万年前の骨とされ、ジャワ原人(Homo erectus erectus、かつてPithecanthropus erectusと呼ばれた、年代は130-150万年前とされる)や北京原人(Homo erectus pekinensis、かつてSinanthropus pekinensisと呼ばれた、年代は68-78万年前とされる)よりも古い。
Homo erectusは、約200万年前にアフリカでHomo habilisから進化した後アジアに移動した、というのが定説であったが、巫山人の発見によってHomo erectusのアジア起源説が浮上し、古人類学上の論点となった。
ただし現在、巫山人はHomo erectusでなく、より原始的な種とする考えが主流のようだ。

歴史の段階まで時代は下る。公孫述(王莽の新から東漢にかけての四川群雄)が建造した白帝城、三国志の劉備が夷陵の敗戦後に落ち延び永安宮として臨終まで過ごした地でもあるが、これは重慶市内にある。
白帝城から西陵(夷陵:現在の湖北省宜昌市)に至るまで、3つの峡谷(上流から瞿塘峡、巫峡、西陵峡)があり、三峡という。現在は中国最大の三峡ダムが設置されている。
荊州と益州との交通にあたっては、長江を利用してこの三峡を越えるしかなかったのだ。

そのため、重慶は長江水上交通の要衝として古来より重要視された。
劉備による劉璋討伐にあたっては、現在の重慶にあたる江州が劉備軍の橋頭保となった。また、夷陵の戦いに先立って劉備は江州で張飛と合流しようとした(合流前に張飛は殺された)。

周の時代は巴国の首都が置かれていたが、その後は四川における成都の副都という位置付けで、重慶を掌握した勢力も蜀と見做されることが多かった。広大な平地を備える成都に比べて、起伏に富んだ丘陵地にある重慶は農業面で劣っていた。しかしながら、商工業の発展に伴い、四川の玄関口である重慶は、四川の資源と長江下流の需要地を結び付けるロケーションとして存在感を高めていった。

重慶は何度か呼称を変えているが、隋時代の渝州は、現在も重慶の別名として用いられている。南宋時代の西暦1189年、当地である恭州を治めていた趙淳が皇帝に即位(光宗)し、重なる慶びという意味で現在の重慶という地名になった。

1363年、元末の農民反乱の指導者である明玉珍は、重慶において皇帝に即位し、国号を大夏とした。重慶を首都とする政府は、伝説上の巴国以来であった。

日中戦争のころ、日本軍の侵攻で首都南京を失った蒋介石率いる中華民国は、重慶に首都機能を移転した。
中国各所から四川の地に至るルートは、北方から秦嶺山脈の隘路いわゆる蜀の桟道を超えるルート、東方から長江を遡上して三峡を超えるルート、近代までこの2つしかなかった。四川は中から守りやすく、外から攻めにくい地として古くから有名だったが、この原則は第二次世界大戦時点でも当てはまったのだ。
そのため、日本軍は陸路からの重慶攻略を諦め空軍による爆撃を行った。重慶は霧や曇天が多い地域であり、精確な目標設定は難しく、無差別爆撃の様相を呈した。それでも結局、中華民国政府の屈服には至らなかった。

その後の国共内戦で、共産党相手に劣勢となった蒋介石は再び重慶に拠ったが、この時は持ちこたえることが出来ず、台湾に活路を求める結果となった。

四川の人口集積を支える塩は、どのように得ていたのか
長江とその支流に由来する淡水が、四川の繁栄に重要であったことは議論の余地がない。
問題はもう一つの必需物資である塩の確保である。中国の内陸部にあたる四川で塩をどのように調達したのか、疑問に思うのは当然である。
四川において、地下の岩塩層から汲み上げた鹹水を煮詰めて塩を得ていた。これを井塩・井礦塩という。

地殻変動による隆起を経るまで、四川盆地を含む周囲一帯は海底だったのだ。海底の塩は隆起後に、水の動きに伴って周りの山脈・高原より低い四川盆地に流れ込んだ。運城塩湖、青海塩湖のように塩湖として定着するケースもあるが、四川ではよりドライな変化を示し、地下の岩塩層となった。
四川における製塩の中心地だった自貢市は化石の町としても知られる。その理由は、元々海底で、かつ周囲より深いエリアでもあったため、生物の死骸が堆積しやすかったからだと考えられている。

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