二人の文鴦 文俶と段文鴦

魏晋南北朝には文鴦と呼ばれる武将が二人居る。曹魏・孫呉・西晋で活躍した文俶と、五胡十六国初期に鮮卑段部で活躍した段文鴦である。ともに当時では最高峰の勇将として知られていた。

文俶
姓は文、名は俶、字は次騫。文鴦として有名だが、鴦は彼の幼名である。
父の文欽が毋丘倹と共に司馬師に反旗を翻した時、数え18歳にして軍中随一の勇将として知られるほどであった。幼名が流布したのも年少時からの武名ゆえかもしれない。

鄧艾は自身で文欽を誘い出したのち、司馬師の本隊とぶつける作戦を実行した。司馬師の大軍を前に文欽は逃げようとした。それに対して、文俶は一戦の価値があると判断し、騒いで軍を鼓舞したのだが、父が応じなかったため退いた。
退く文欽軍に対し司馬師が追撃をかけたところ、文俶は手勢で司馬師の陣に反転攻勢をかけ、追撃の腰を折った。
司馬師は眼病の手術から間もない出馬であったが、文俶の急襲により病状が悪化した。眼球が飛び出る状況で死ぬという壮絶な最期を迎えた。戦争には負けたものの、政権から司馬師を除くという目的は皮肉にも達せられたのだ。
乱での敗北後、文俶は父と共に呉へ亡命した。

諸葛誕の乱が起こると父子で諸葛誕の救援に向かった。司馬昭の軍勢を突破して寿春に入城できた呉軍は文欽らの先発隊のみだった。
寿春での籠城戦において苦戦を強いられ、文欽は諸葛誕との意見対立により殺された。文俶は諸葛誕の許に向かおうとしたが、部下たちが付いてこなかったため弟の文虎と共に司馬昭へ帰順した。
文俶達は間接的とはいえ司馬師死亡の原因と見做されていた。処刑すべしという意見も多かったが、司馬昭は他の降伏を促すためこれを許した。

西晋成立後、文俶は司馬駿の指揮下で禿髪樹機能(鮮卑とされるが羌とも)を攻撃し、大戦果を挙げている。樹機能の乱は、西方の刺史が何人も戦死、上役の都督が免官となるなど西晋初期でもっとも大きな内乱であった。戦死者の中には、胡烈(名将羅憲を救援した人)・牽弘(名将牽招の子)と対蜀漢・対呉で功績のある、西晋を代表する勇将達も居た。彼らすら失敗した樹機能の鎮圧に成功した司馬駿・文俶の功績は極めて大きかったのだ。(ただし、樹機能はその後活動を再開し、完全な鎮静化には馬隆の討伐を待つ必要があった)

文俶は東夷校尉(遼東地方の軍事長官、後世において高句麗王への称号となった)・仮節(軍令違反者を独断で処刑できる権限)まで昇進したが、司馬炎により嫌われ、適当な理由をつけて免職とされた。
賈南風による楊氏打倒の政変に参加した司馬繇、彼の母は諸葛誕の娘であった。司馬繇は、出自故の害意から文俶が賈南風政権への反逆者であると誣告を行った。結果的に文俶は殺され、その近親者も殺された。

段文鴦
段文鴦の生年は定かでない。樹機能の乱以後なら文俶を意識して命名された可能性が高まるのだが、それすら分からなかった。
東夷校尉の文俶が、鮮卑の有力者である父段務勿塵と何らかの関わりを持っていた可能性は十分考えられる。

五胡十六国開始当初、西晋の残存勢力で最大のものは東北幽州の王浚だった。西晋の最高権力者だった司馬穎を倒すほどの武力、その源泉は鮮卑・烏丸であり、その鮮卑の中で最も強勢なのが段部だったのだ。そのため、段務勿塵は王浚政権下で大単于、つまり異民族を統括する立場に任じられている。まもなく段務勿塵は死亡し、段文鴦の兄段疾陸眷が大単于となった。

王浚が石勒討伐の兵を起こし、本拠地の襄国(現在の河北省邢台市)を目指した。段疾陸眷らは主力として襄国の攻城に着手したが、孔萇・石勒の抗戦により従兄弟の段末波が捕まった。
石勒は段末波を人質とし、段疾陸眷に講和を求めた。
段文鴦がこれに対して曰く、「石勒を撃つという命令を受けたのだ、末波一人を惜しんで、捕虜を取った賊どもを野放しにするのか。既に王浚の意向に背いている、なおかつ後の憂いを残すことになろう、決して和睦を許してはならない」
ところが、段疾陸眷は文鴦の諫めを聞かず講和に応じた。講和の使者として赴いた石虎は、段文鴦と兄弟の契り(段文鴦が兄)を交わした。
一方の石勒陣営において、段末波を殺すべきという意見もあったが、石勒は盛大な宴会を開き、父子の契りを交わした上で帰した。段末波は以後石勒に心酔したという。

段部は兵を退き、以後王浚と段部の間には懸隔が生じることとなった。王浚は再び石勒攻撃を企図したが、段疾陸眷は出撃を拒否した。そのため、王浚は拓跋部と慕容部を動員して、逆に段部を攻撃させたのだが、段部は拓跋部を撃退した。慕容部を率いるのは名将慕容翰だったが、彼すら段部を攻めあぐねた。一方で、石勒はその隙に支配域を広げていった。
永嘉の乱より後、中華の人たちは親晋勢力として最大の王浚を頼っていたが、応接や制令が悪く失望されていた。晋陣営で最強の異民族だった段部は続く候補となったのだが、武勇一辺倒で士大夫への礼も欠いていた。結局慕容部が受け皿として選ばれることになった。
石勒は孤立しつつあった王浚を皇帝に推戴する素振りから襲撃、王浚は滅びた。

段疾陸眷が病死した後、段部は分裂した、段末波と段疾陸眷の弟段匹磾である。前者は石勒を奉じ、後者は并州で晋の旗を掲げた劉琨を収容していた。段文鴦は兄の段匹磾に従った。
両者の衝突の過程で、劉琨の息子劉羣の身柄を段末波が押さえた。段末波は劉羣から劉琨にあてた内応要請の手紙を書かせ、段匹磾がこれを見つけたことによって劉琨との関係は瓦解、結局段匹磾は劉琨を殺した。
段匹磾は晋の大義を失い、続いて邵続を頼ったものの退勢明らかだった。そんな段匹磾陣営において段文鴦は奮戦し、後趙に奪われた薊城(現在の北京市)の奪還、孔萇の侵攻軍相手に大勝、と成果を挙げたが、趨勢を変えるには至らなかった。

次々と石勒の手に落ちる幽州の諸城。石虎の略奪を前に、段文鴦は義憤から兵を動かすよう段匹磾に進言したが、兄は従わなかった(伏兵を警戒したという説がある)。
それでも段文鴦は出撃し、後趙の兵を殺していったが、多勢に無勢、ついに動けなくなった。
そこに石虎は呼びかけた、「兄(段文鴦)と私はともに戎狄で、共に馬を並べたいと昔から思っていました。天が願いを叶え、今日会うことができました、何故また戦うのですか。武器を置いて下さい」
それに対し段文鴦は「お前は略奪や虐殺を行った、とっくに死んでいるべき人間だ。思えば兄が私の計略を用いなかったせいで(疾陸眷が石勒と講和したことを指すとされる)、お前がここまでのさばることになった。私は戦って死ぬ、捕まえてくれるな」と罵った。
その後も段文鴦は馬を降りて戦いを継続した。後趙軍は四方から馬の泥除けを押し付けることで段文鴦を制圧し捕らえた。その戦いは辰刻から申刻(8時から16時あたり)に及んだという。

段匹磾は単身建康に逃れようとしたが、邵続の弟邵洎に阻まれ、邵洎はそのまま石勒に降伏した。
石勒・石虎は義兄弟の段匹磾らを丁重に扱ったが、段匹磾は襄国にあっても晋への忠節を示し続けた。
その後、後趙内で段匹磾を盟主とする反乱計画が露見したため、段匹磾は段文鴦ともども殺された。

私評
文俶は間違いなく当時最高峰の将軍だったが、名臣司馬駿を除いてそれを使いこなせる者が居なかった。呉では降将扱いだし、晋では司馬師を殺した仇敵なので、それぞれ仕方ない部分もあるが、父である文欽すら文俶を使いこなせたとは言い難い。そもそも、呉で降将となったのも晋の仇敵となったのも父に従ったが故である。文欽に自身の成り行きを大きく規定された文俶の生き様は少し勿体なく思う。また、生涯を通して、彼を動かしていたのは家の事情と自身の功業だけだったように見える。その行動原理に大きな芯が通っていないことは責められるべきかもしれない。
文俶が兄司馬師の仇であるにもかかわらず、これをよく用いた司馬駿の器量は改めて感心させられる。司馬駿は司馬攸出鎮を諫めたが聞き入れられず、その直後に病死している。その唐突さには、司馬攸本人と同様の不審感を抱いている。文俶が司馬炎に白眼視されたのも、あるいは司馬攸派と見做されていたせいかもしれない。
結果として西晋は文俶の武力を十分に活用できなかった、これは国としての限界を早々に露呈した案件とも考えられる。

敗北時の段部は晋への忠節をアピールしておりそれ自体殊勝なことだが、であれば段疾陸眷が王浚を裏切って石勒と講和したこと、段匹磾が劉琨を誅殺したこと、この両事件は晋を後退させて後趙を利する行為でしかなく、完全に矛盾している。結局、彼らは戦地での理に通じていたのかもしれないが、政治上の因果について理解が浅かったと言わざるを得ない。
そのような中で、弱小のうちの石勒討滅を勧め、名将孔萇を撃破し、石虎すら武将として敬意を示した段文鴦、その生き様は私自身強く印象に残っており、もし段部の意思決定に段文鴦がより多く関われていたなら、という思いを強く持っている。
一方で、従兄弟の段末波を見殺しにする献策は情実に反するものであったとも思う。また、この献策が晋国再興の大義や石勒の脅威に対する正確な見通しでなく、もっぱら王浚の威を恐れて行われたように見えるのも問題だろう。もしかすると、この非情な献策が段文鴦によって行われたことで、後の段末波自立に至ったのかもしれない。
五胡十六国で最初の覇者である石勒、彼にとって最大の危機は、段部に首都襄国を脅かされた時だった。王浚・段疾陸眷・段匹磾が、段文鴦に象徴される段部の武力をもう少し巧く使えていたなら、華北の歴史は晋にとって好ましい展開に向かったのではないかと惜しむのである。

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