お人好し司馬昭が類を見ないほどの野心家扱いされている件

私が三国時代で最も好きな人物は司馬昭である。

後世では奸臣の代表格とされ、野心を秘めた謀略の気配があるたびに「司馬昭の心」とか持ち出されてしまう彼だが、史実を紐解けば時勢や周囲に振り回されたお人好しの姿が浮かび上がってくる。

  • 父と兄が自分に無断でクーデターの計画を練っていた件

曹爽に対するクーデターである高平陵の変において、司馬懿と司馬師はかねてから計画を練っていたが、司馬昭は前夜まで知らされておらず、計画を知った司馬昭の落ち着かない様子を司馬懿が人を遣って観察した、と晋書で記されている。フィクションじみた話のようではあるが、謀略の苦手な性格が偲ばれる。

  • 兄の指揮した征呉戦線失敗でなぜか自分が降格させられた件

司馬師は呉に侵攻したが、諸葛恪により阻まれた(東興の戦い)。司馬師は処分を司馬昭の降格のみとし、敗戦の責任を諸将に問わなかった。結果主義かつ厳罰をもって当たりがちであった曹魏との対比で、指揮官としての徳をアピールしたのだろうが、司馬昭としてはとんだ貧乏クジである。そんな中にあっても、兄に従う司馬昭の姿勢は微塵も揺るがなかった。

  • 兄への反逆者(毋丘倹・文欽)が自分推しで立場が微妙な件

毋丘倹・文欽が司馬師に対して反乱を起こした。彼らの上奏文は、司馬師の悪行を弾劾する一方で、司馬昭に関してはその人徳を讃えており、司馬師に代わる宰相として推挙していた。この上奏文が兄弟の仲を裂く意図を持っていた可能性はあるものの、記載されている司馬昭の人物像自体は、他の資料から読み取れるものと矛盾していない。このような文書が出たことから、司馬昭の立場も危ぶまれたが、司馬師は自身が出征した時に首都洛陽の留守を任せるなど、司馬昭に全幅の信頼を置いていた。

  • 兄の死んだ直後に、皇帝が兵を取り上げようとしてきた件

司馬師は病をおして毋丘倹・文欽の反乱に出馬したため、程なく亡くなってしまった。司馬昭は司馬師から後事を託されたが、魏の皇帝曹髦はこれを好機と見て、司馬昭の兵権を削ぐべく詔勅を下した。これまで高度な政治判断を兄任せにしていた司馬昭、その目の前に突如ルビコン川が現れたのだ。いきなり運命の分岐点。司馬昭は逡巡したものの、鍾会の協力などもあり、兵権を維持したまま首都洛陽に帰還できた。

  • 司馬攸を棟梁にしようと九錫を断り続けたら、皇帝がブチ切れて自ら殺しに来た件

司馬攸は司馬昭の実子であるが、司馬懿から高く評価されていた。そのせいか、男子の居ない司馬師の養子となり、司馬氏本流としての大役を見込まれていた。司馬師の急死により俄かに司馬氏の長となった司馬昭であったが、そうした父や兄の意向を尊重し、兄から借りた天下を司馬攸に返すという意識を強く持っていた。
九錫とは、皇帝と同格の待遇を意味する9つの特典である。司馬昭以前に九錫を受けた者は王莽、曹操、孫権であり、いずれ皇帝に即位するという告知に等しい。司馬昭はこの九錫を度々拒絶しているが、曹操の魏公就任や曹丕の皇帝即位における儀礼的な辞退とは異なる印象を持つ。
仮に司馬昭が九錫を受けると、司馬昭と長男の司馬炎が司馬氏の正統ということになり、司馬攸に天下を渡すことは難しくなる。司馬昭はこの展開を避けるべく必死に抵抗していた様子が伺える。
翻って曹髦の視点に立って見ると、司馬昭の九錫拒否は野心の裏返しとしか映らず、その頑なさは却って不気味に映ったかもしれない。英明だが激情の癖を持つ曹髦は、ついに司馬昭打倒の意志を表明し、自ら司馬昭を襲おうとした。

  • 賈充に防衛を指示したらその場で皇帝を殺害し、以後汚名を着ることになった件

司馬昭が賈充に曹髦の進軍阻止を命じたところ、賈充は自らの指示で曹髦を刺殺させた。
曹髦自身が武器をとって戦う状況であったこと、賈充の指示を受けた成済がそのまま玉体に到達したことなどから、曹髦側の寡兵は明確であり、曹髦を捕縛する選択肢も十分とりうる状況であったと考えられる。曹髦を生かしておくリスクだけでは、類例のない皇帝弑殺の悪名に見合わないように思う。身柄は容易に押さえられる状況なのだから、退位させて好きなように処置する、幽閉して餓死させる、こっそり毒殺する等、比較的穏便に皇帝を除く手法はいくらでもあった。
ではなぜ衆人環視の中で殺したか。考えられる理由の1つは、司馬昭の本意を知る賈充があえて彼に悪名を被せて、司馬攸を棟梁に導く手伝いをしたというもの。もう1つの理由は、司馬昭の登極以外考えられない賈充が発破をかけたというもの。皇帝殺しは他の勢力が司馬氏と置き換わる大義名分となるため、これまで態度を保留していた司馬昭は、権力確立に向けてなりふり構っていられなくなるという理屈だ。
どういった理由にせよ、皇帝弑殺という前代未聞の悪名を背負う覚悟で司馬昭のため行動した賈充には、ある意味で感動すら覚える。また、自身に火の粉が飛んでくるリスクを承知の上で賈充を生かした司馬昭の判断も、それはそれで貴いと思う。

  • 漢中取れれば御の字のつもりで鍾会の作戦にゴーサインを出したら、出征に反対だった鄧艾が余計な気を利かせて成都まで落とした件

司馬昭自身の皇帝即位を望む声や皇帝弑殺の悪名などのせいか、いつしか司馬昭は九錫・晋公を受けるに足る功績を求めるようになった。やはり蜀漢か呉の征伐ということになる。司馬昭が諸将の反対にも関わらず鍾会の作戦を採用して蜀漢への侵攻を試みたのは、そうした背景によるものと考えられる。
北伐で消耗した蜀漢は魏の本格的な侵攻の前にひとたまりもなく、早々に漢中を失ったが、圧倒的不利の中でも歴戦の姜維は手強く、鍾会は剣閣から先に進めなくなった。しかし実は、司馬昭から見れば漢中奪取のみで十分だったのだ。曹操が失陥して以来、四十余年ぶりの旧領奪還という偉業なのである。また、蜀というのは魏晋から見た国名で、彼ら自身は漢を名乗っていた。漢という国号の根拠地である漢中を失陥することは、領土だけでなく国家としての正当性をも失う大ダメージであった。この時点で司馬昭は、九錫・晋公を受ける資格に達したと判断した。
しかしながら、ここで誤算が起こった。当初鍾会の征蜀に反対していた鄧艾が、その類まれな軍才を発揮して成都まで落としたのだ。蜀漢の完全征服が可能であれば、最初から司馬昭自ら出征して戦功を得ようとしたはずであり、ある意味で戦争の行方を完全に読み違えたのだ。蜀漢を降伏させた鄧艾と作戦立案者の鍾会は、あまりにも大きい軍功を立ててしまった。
司馬昭が心配したとおり、二人ともコントロール不能になったのだが、念のため長安まで出馬したこと、与党を征蜀に同行させていたこと、魏が全体として司馬昭の天下を受け入れる流れになっていたこと等、様々な要素が司馬昭に味方し、気が付けば鄧艾・鍾会ともに死んでいた。

  • 成り行きで九錫・晋王受けちゃって、もう皇帝への歩みを止められない件

蜀漢の征服を以て、司馬昭は晋王に位を進めた。もはや彼の皇帝即位は既定路線となった。司馬昭自身は、司馬攸の成長を待って天下を預けたかったようである。自身は頂点を取ることなく天子(天の意思を受け世を治める者、皇帝など)を支え続ける、そんな周公旦に象徴される輔弼は、中華古来より理想的な政治家の在り方と考えられてきた(周公旦が天子であった可能性は割とあるのだが)。司馬昭もまた、司馬師や司馬攸の帝業を支える日々を夢見ていたに違いない。しかしながら、司馬師の早すぎる死によりその夢は破れた。
皇帝即位が秒読みの西暦265年、司馬昭はこの世を去った。長男司馬炎は司馬昭の地盤を継承し、皇帝即位・中華統一を成した。ちなみに司馬攸は、司馬炎との対立により、失意の中で病死した。

これまで示した通り、司馬昭は世間一般で考えられているような、目的のためなら手段を選ばない謀略家・野心家では決してなかった。彼は司馬氏のため、人柄を武器として政界を勝ち抜いた一方で、時流や輿論に翻弄され続けた。
私自身は、司馬昭こそが司馬氏の皇位を決定づける存在だったと評価しているが、少なくとも西晋では相当に評価されていたようである。その証拠は彼の諡号(しごう:生前の事績に基づき死後贈られる名)と廟号(びょうごう:先祖を祭る墓所に死後載せられる名)にある。
まず、司馬昭の諡号は最高峰とされる文である(司馬炎が武)。ただし、この経緯については注意を要する。晋王となった司馬昭は、司馬懿を宣王、司馬師を景王と諡(おくりな)し、自身に文・武の諡号が割り当てられるよう誘導した節がある。しかしながら、この処置については、司馬昭-司馬炎ラインを中心に据えることで司馬炎の立場を守りながら、兄も皇統に名を連ねて敬意を示したいという、いかにも司馬昭らしい配慮を感じる。
続いて、司馬昭の廟号は最高峰とされる太祖である(司馬懿が高祖、司馬炎は世祖で司馬師は世宗)。廟号は功徳に対応しており、功のある者を祖、徳のある者を宗とするのが原則であるが、基本的には祖の方が格上の廟号と考えられている。司馬懿・司馬師・司馬昭の廟号を定めた司馬炎は、司馬懿-司馬昭-司馬炎ラインを皇統の本流と考え、司馬師を1段低く扱いたかったようである。

西晋の華々しい統一事業の片隅には、1人の指導者の葛藤が秘められていた。私はそんな司馬昭の生涯を愛してやまない。
また、司馬昭のように多くの者から登極を望まれながら、輔弼に徹したまま生涯を終えた慕容恪。その人生の対比はなかなかに興味深く、彼もまた私の大好きな人物なのである。

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