五胡十六国後期は国の興亡が一層複雑になり、なかなか理解しにくいが、国同士の同盟関係を把握することで幾分わかりやすくなる印象を持っている。
後秦・南燕・譙蜀(後蜀)アライアンス VS 劉裕
楚を名乗って東晋から禅譲を受けた桓玄だったが、劉裕によって建康の主導権を失った。その後桓玄は西に向かって再起を図った。
やがて桓玄は殺されたのだが、荊州における桓氏の抵抗は続いた。この背景として、桓氏が荊州の西府軍を代々掌握していたことは重要である。
東晋から蜀に向けて荊州の桓氏討伐の命があったが、405年、蜀軍は譙縦を推戴して東晋から独立した。これが譙蜀(後蜀:五代十国のそれと区別するため)である。独立の理由は遠征への嫌気とされているが、蜀を切り拓いたのが桓温であったことも考慮すべきだろう。国の成り立ちから東晋との対立は避けられず、東晋と対抗するには別の大国の後ろ盾を必要とした。結果的として、譙蜀は後秦に従属した。
北魏に攻撃された後燕は領土南部の山東半島周囲が孤立し、南燕となった。
405年から南燕の皇帝となった慕容超は、もともと後秦に居住しており、彼自身が南燕に迎えられた後も、母と妻は後秦領内に居た。慕容超が彼女らの身柄を要求したところ、後秦は、南燕の臣従と、前秦→後燕→南燕と引き継がれていた楽団を要求した。慕容超はこれらの要求を受諾したが、音楽のレベル低下を嘆いて、優れた楽団を擁する東晋を攻撃した。
南燕による東晋攻撃への反攻として、劉裕は自ら南燕征伐を行った。属国の南燕に対する攻撃のため、後秦は参戦を仄めかしつつ劉裕を脅そうとした。予告なしに打撃を加えるのが最も効果的なのにそれをしなかったこと、夏の反逆で後秦に南燕を救援する余裕がないことなどから、劉裕は後秦の脅しがブラフと見抜いてそのまま滅ぼした。
南燕攻撃のために劉裕が建康を空けた隙に南方から五斗米道の盧循が建康に攻撃をかけた。この時、北西の後秦・西方の譙蜀は盧循と連携し、三方から攻撃を仕掛けたのだが、劉裕軍はこの難局に勝利した。
劉裕は411年に盧循、413年に譙蜀を滅ぼし、後秦を孤立させた。
416年、姚興死亡を好機として、ついに後秦への攻撃を開始した。同年に洛陽を奪取、翌417年に長安を占領し後秦を滅ぼした。
夏・北涼・吐谷渾・柔然・北燕アライアンス VS 北魏・西秦アライアンス
南涼を滅ぼした西秦と西涼を滅ぼした北涼は、河西回廊の覇権を巡って直接対決するようになった。北魏に従属してその支援を受けた西秦に対抗するため、北涼は夏に従属した。
夏にとって、西に国境を接する西秦は、西域との交通・交易に邪魔だったので、従属勢力の吐谷渾・北涼と三方から圧力をかけた。一方で天敵の北魏に対しては、柔然・北燕と連携して包囲網を構築した。
425年、建国者である赫連勃勃の死亡により、夏はその屋台骨が揺らぎだした。拓跋燾は柔然に親征し、可汗(族長)の大檀は北に逃れた。
426年、夏は西秦に対して大規模な侵攻を仕掛けたが、その隙に北魏は長安を奪取した。
427年、北魏は続く攻勢で夏の首都である統万城を占領した。
429年、拓跋燾は柔然に対し、大規模な遠征を行った。北方を蹂躙し、バイカル湖まで到達した。柔然は西走したものの、大檀が逃走中に病死し、その勢力は四散した。可汗の地位は息子の呉堤に引き継がれたが、その後しばらく北魏を侵すことが絶え、一時北魏への朝貢国ともなった。
430年、夏は過去に長安を奪い合った南朝の劉氏と同盟して、北魏への反撃を試みたが、柔然の脅威が大幅に減じた北魏は遠征軍を派遣、夏は敗北し新都である平涼を失った。
431年、夏は再起すべく根拠地を求めて西進した。西秦はこれにより滅びた。その後に北涼を攻撃したが、従属していた吐谷渾が裏切って夏軍に突如襲い掛かってきた。夏の皇帝赫連定は捕獲されたうえで北魏に送られ、その後殺された。かつての従属国を襲った夏の非道、および夏の没落を考えると、吐谷渾の裏切りは仕方ないところがある。
塞北の柔然が大幅に弱体化し、関西の大国たる夏を倒した後の北魏は、残りの国を各個撃破するだけだった。
436年に北燕、439年に北涼を滅ぼし、ここに華北統一がなった。
ただし、柔然は439年に北涼からの救援要請に応じて出兵していた。また436年、北魏と和親していた柔然が久々にこれを侵しており、北燕と連絡を取っていた可能性がある。
放論
譙蜀が東晋から独立して後秦に従属したこと、後秦に従属した南燕が東晋への攻撃を試みたことなど、後秦の外交は順調で、さすが姚興といったところか。あるいは、南方における盧循の乱も、後秦による調略活動の成果だったかもしれない。
ところが、劉裕の軍事力により全ての盤面を覆された。劉裕は彼の前に立ちふさがった後秦勢力と生涯をかけて対峙し、ついにこれを滅ぼした。
ただし、後秦滅亡で空いた華北のケアが不十分であったため、夏や北魏の飛躍を招くことになった。後秦に対する劉裕の執念は、少し異常に映る。その熱意を北魏や夏にも向けていれば、劉宋が中華統一していてもおかしくなかった。
北魏や夏は塞外勢力であるにすぎず、後秦さえ倒せば中華統一はなるというのが、劉裕当時の共通認識だったのだろうか。
五胡十六国として、北魏と華北を争った最後のライバルは夏である。夏が諸勢力を糾合して北魏包囲網を形成していたことは、学術関係者だと常識のようだが、一般的にはあまり認識されていないように思われる。
そして、その包囲網の中で、十六国にカウントされていない塞外の柔然が最も重要である。
北魏にとって、420年代(特に429年)における柔然遠征の成果は、他国に向かえるだけの余力を生み出し、これこそが華北統一に至る画期だったとする報告(峰雪幸人 「五胡十六国時代における交通・交易と北アジア世界」)もある。
北燕滅亡・北涼滅亡の各タイミングで柔然の蠢動が見られたのもそうだが、後世で柔然の影響を考慮すべき重大なイベントがある。
それが450年の拓跋燾南伐である。かつて劉裕は南燕の旧領である山東半島まで掌握していた。拓跋燾南伐後、南朝宋は長江北岸まで支配域を後退させている。まさに南北朝のパワーバランスを一変させた大イベントである。
実はこの前年である449年、拓跋燾は柔然に対し大規模な遠征を行い、柔然は429年以来の大ダメージを受けていたのだ。
北魏が版図を大きく広げる各段階に先立って、北魏は柔然に攻撃を仕掛けて北方の安全を確保していた。東晋十六国・南北朝だけを見ていると抜け落ちやすい視点であり、周辺勢力に目を配る必要性を改めて実感した。
今回取り上げた例以外にも、柔然は北魏による執拗な攻撃を受けつづけたが、定住しない北方民族の柔然は捕捉・撃滅が難しく、6世紀に至るまで北方における北魏の煩いとして残り続けた。
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