総論– category –
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秦嶺淮河線 中華の分水嶺
秦嶺淮河線とは、中華における年間降水量1000mmのラインを指す。これがちょうど秦嶺山脈と淮水(黄河以外を河と表記することは個人的に抵抗がある)を結ぶ線に一致することからそう呼ばれる。中国語読みを踏まえてチンリン・ホワイ線と表記することもある。ちなみに英語表記はQinling-Huaihe Lineである。北緯にするとおよそ33度に相当する。 秦嶺淮河線の北側では気候が乾燥した寡雨地帯であるのに対し、南側は適雨ないし多雨の国土が拡がっている。また、この線の北では1月の平均気温が氷点下となり、しばしば川... -
突厥 南北朝以後に中華の命運を大きく左右した遊牧民族
突厥はテュルク系民族で、遡ると五胡十六国で河南周囲に割拠(翟魏)した丁零に行き着くとされる。当初は柔然の支配下で鍛鉄に従事したが、柔然が北魏や高車(テュルク系遊牧民族)と対立するなかで、密かに力を蓄えていた。 突厥の有力者だった土門は柔然から妻を迎えようとしたが、柔然は身分の違いを主張して拒否した。そのため、土門は西魏から妻を迎えて後ろ盾とした上で柔然を攻撃した。柔然は突厥に敗れて北斉に逃げ込み、土門は可汗(北方でのリーダー)を襲名した。北方の主役交代を告げる革命的イベント... -
中華の流通を支えた貨幣と度量衡について
貨幣総論貨幣には3つの機能がある。 1.交換機能(決済機能)米を持っている人が魚を欲しくなったとする。物々交換では、魚が余っていて尚且つ米が欲しい人の中からマッチング先を探さなければならない。貨幣経済では、とりあえず米が欲しい人の中から広く交換先を探して貨幣を得た後、魚が余っている人の中から広く交換先を探し貨幣を渡して魚を得る。2段階のマッチングを要するものの、実はこちらの方がはるかに目的を達しやすい。 2.価値の尺度機能米と引き換えで魚を得る例のまま続ける。物々交換では、マッ... -
魏晋南北朝史の文献を巡る現状
・正史全訳まずは正史全訳の通読が基本になる。中国正史の訳出状況について、国立国会図書館でまとめられている。https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/asia/post_73 史記、漢書、三国志については、価格や入手難易度などから筑摩のものが標準的なテキストになっている。後漢書について、岩波と汲古書院のものとどちらを優先すべきか悩ましい。最近出版されている早稲田文庫のシリーズで全訳が揃うかどうかに注目している。史記、漢書、後漢書、三国志以外の正史全訳は無い。つまり、魏晋南北朝に関わる正史は、ほと... -
魏晋南北朝では、封禅が行われていない
封禅(ほうぜん)とは、中国の帝王が政治上の成功を天地に報告する国家的な祭典である。泰山(山東省泰安市にある標高1,545mの山)の山上に祭壇を作り、天に対してまつりを行う「封」、泰山の麓にある小山を払い清め、地に対してまつりを行う「禅」、この二つの祭祀を組み合わせることで封禅が成立する。伝説上は三皇五帝以来とされるが、史実だと趙政(秦の始皇帝)によって行われたものが最初である。彼の事績からすると、封禅に不死を祈願する性質があったことにも注目すべきであろう。 趙政の創始した仕組みの... -
皇帝という称号が決まるまで
史記によると、秦王の趙政が中華を統一した際に、それまでの「王」や、かつて用いられた上位称号「帝」に飽き足らず、新たな称号を志望した。群臣は三皇(※)のうち「泰皇」が最上位であるとして薦めたが、趙政はそれを却下し、新たに「皇帝」の称号を作った。 ※三皇の内訳について史記の秦始皇本紀において、天皇・地皇・泰皇としている。泰皇の代わりに人皇を入れることもあるが、この両者を同一視していいか未確定である。別に女媧・伏羲・神農を三皇とする説が有名で、他にも諸説ある。 疑問点は泰皇を三皇の... -
巴と蜀 重慶と成都
四川(*)の地のことをしばしば巴蜀という。春秋戦国の頃、四川の地に巴の国と蜀の国があったことに由来する。蜀が成都を中心とするエリアなのは三国志などで比較的理解しやすいが、では巴とは何なのかと言われると少し考え込むかもしれない。巴とは重慶を中心とするエリアを指す。現在でも重慶と成都は四川を代表する二大都市として知られる。成都は四川省の省都であるし、重慶は中央政府による直轄市(他に北京・上海・天津 人口は重慶が最多だが面積も圧倒的に広い)である。 *ちなみに四川とは長江支流の4... -
高句麗という一大勢力
高句麗の歴史におけるハイライトは、隋の度重なる侵攻を撃退し、隋崩壊のきっかけとなったことである。高句麗はその後の李世民(唐太宗)による攻撃すら凌いだ。そんな凄まじい底力を持った高句麗だが、魏晋南北朝でもしばしば存在感を示している。 高句麗は西漢(前漢)期の前1世紀ごろに興った勢力とされる。その起源は更に古い歴史を持つ夫余族であると史料に残っているが、墳墓など考古学的観点から否定する意見もある。王莽は高句麗兵を用いて匈奴を討伐しようとしたが、うまく動員できなかった。そのため王... -
河東の重要性 塩の産地であり交通の要衝
渭水合流前に南北に流れている黄河、現在は山西省と陝西省の境界になっている。そこに北東方向から合流するのが太原盆地を流れる黄河支流、汾水である。そして、汾水と黄河に囲まれたエリアが河東エリア(現在の山西省運城市)である。 伝説上の天子の舜は河東エリアの蒲阪に都をおいていたとされる。また、禹が王となり夏王朝を建てたとされる都市が安邑である。その後も安邑は戦国魏の都として栄えた。安邑は北魏による分割後に北部を夏県と改称されている。夏県は北宋の政治家にして資治通鑑の編纂で有名な司馬... -
江南の安全保障における荊州の役割
長江を跨いで江南の建業・建康を攻略するのは、大変な難事業である。歴史上でも、曹操・曹丕・曹休・司馬師・苻堅など攻略に失敗した英雄達を多数挙げられる。(唯一成功したのが宇宙大将軍こと侯景。何かとネタにされがちな人物だが、その突破力は本物。高歓ほどの英雄が危険視したのも納得である。)江南攻略の鉄板は、荊州方面から長江を攻め下るルートで、蜀の豊富な木材を造船に用いることができれば盤石となる。西晋も隋もこのルートからの攻略であった。 江南と荊州の関係を踏まえた上で注目しておきたい事...
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