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朱齢石の征蜀
慕容白曜について調べていると関連キーワードとして朱齢石の名前が出てきた。なんでも譙蜀(後蜀:五代十国のそれと区別したいので)を攻め滅ぼした名将であるという。譙蜀の滅亡は劉裕の功績としか認識していなかったので、資治通鑑に当たってみた。年は西暦だが、月は旧歴に従う。 資治通鑑抄訳(412年11月~413年7月) 412年11月、東晋の太尉である劉裕は蜀の征伐を謀ったが、元帥の人選は難航していた。西陽太守の朱齢石は武の業前を備え、官吏としての職務にも熟練していることから、彼を用いようと思った。... -
西晋はいかにして匈奴漢の前に滅び去ったか (長文の資治通鑑抄訳)
西晋と匈奴漢との戦役を資治通鑑で追ってみることにした。当初の動機は、八王の乱を制した司馬越が匈奴漢の脅威にどう対処したのか確認してみたくなったからだが、果たして。長文すぎて通読が厳しい記事になっている。年は西暦だが、月は旧歴とする。 資治通鑑抄訳 304年8月~316年11月 304年8月、かつて皇太弟の司馬穎は上表し、匈奴の左賢王である劉淵を冠軍将軍・監五部軍事(曹操が南匈奴を左・右・南・北・中の五部に分けた)に抜擢し、兵とともに鄴(河北省邯鄲市臨漳県の周辺)に駐屯させていた。劉淵の子... -
褚蒜子と司馬昱 東晋の前期と中期を結ぶミッシングリンク
金民壽 「桓温から謝安に至る東晋中期の政治」を読んだことが、記事作成のきっかけとなった。東晋中期の政治は未発掘の部分が多いと感じる。そして、だからこそ挑戦しがいのあるテーマだとも思う。 東晋を代表する名族として、琅邪王氏と陳郡謝氏の2氏族がよく挙げられる。しかしながら、これは東晋をより高い解像度で理解する妨げとなる。東晋の前期を主導したのは琅邪王氏と潁川庾氏であり、東晋中期の主役は譙郡桓氏と陳郡謝氏だからである。前述の2氏族のみにフォーカスすることは、東晋の実像を歪めることに... -
長沙厲王 司馬乂 兄弟愛とその結末
司馬乂は、八王の乱において唯一良識的な行動を取った諸侯王として、その戦績も含め肯定的な評価が多い。彼の事績を晋書ベースで追ってみた。 司馬一族の親疎を分かりやすくするよう、カテゴライズしてみた。カテゴリー1 Cat.1 司馬炎の子孫カテゴリー2 Cat.2 司馬昭の子孫(司馬炎系除く)カテゴリー3 Cat.3 司馬懿の子孫(司馬昭系除く)カテゴリー4 Cat.4 司馬防の子孫(司馬懿系除く) 長沙厲王 司馬乂(Cat.1) 字は士度。司馬炎の第6子(異説あり)。西暦289年、長沙王に封じられた。290年、司馬... -
西晋で見られた難民の連鎖
飢饉・斉万年の乱により、中華西部で難民発生東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)や曹魏は、少数民族を関西(函谷関より西側のエリア)に移住させる徙民政策を採っていた。彼らは差別的な対応を受け生活も貧しかった。西晋は司馬衷の頃、関西で飢饉が発生しており、不満を抱いた異民族は氐族の斉万年を推戴し晋への反乱を起こした。これが斉万年の乱である。乱自体は299年に孟観の手で鎮圧されたものの、関西の困窮から、多くの者が食糧を求める難民となった。 四川に南下した難民が、現地での摩擦により... -
二人の文鴦 文俶と段文鴦
魏晋南北朝には文鴦と呼ばれる武将が二人居る。曹魏・孫呉・西晋で活躍した文俶と、五胡十六国初期に鮮卑段部で活躍した段文鴦である。ともに当時では最高峰の勇将として知られていた。 文俶姓は文、名は俶、字は次騫。文鴦として有名だが、鴦は彼の幼名である。父の文欽が毋丘倹と共に司馬師に反旗を翻した時、数え18歳にして軍中随一の勇将として知られるほどであった。幼名が流布したのも年少時からの武名ゆえかもしれない。 鄧艾は自身で文欽を誘い出したのち、司馬師の本隊とぶつける作戦を実行した。司馬師... -
魏晋南北朝の名包囲 その1 司馬昭 諸葛誕の乱
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。1回目は司馬昭による諸葛誕の乱を取り上げる。司馬氏に対する淮南三叛の3番目という政治的な意味合いから評価されることが多いけれども、内容的に非常に面白い戦いで、司馬昭は将帥として凄まじいと実感できる名包囲である。 都督として揚州の軍権を掌握していた諸葛誕は、司馬氏でなく曹氏への忠誠を明確... -
羊献容への態度で、八王の乱における諸勢力を二分割できる
羊献容は賈南風に続く司馬衷の皇后として司馬倫・孫秀によって立てられた。母方の孫氏は孫秀の親戚にあたるが、三国呉の皇族とは無関係で、徐州琅邪郡をルーツとした寒族と考えられている。父方の泰山羊氏は、司馬師の妻や羊祜などを輩出した晋を代表する名家である。 その後、司馬倫が皇帝になると、羊献容は必然的に廃后させられた。司馬冏・司馬穎・司馬顒の三王が決起し、司馬倫が倒された。司馬衷が皇帝に復位したため、羊献容も皇后に戻った。しかし、羊献容の母方孫氏の一族は誅殺された。その後、朝廷の主... -
賈充は羊祜と対立していたのか
賈充は、名臣羊祜の提案した征呉を、自身の権勢の為に押し留めた抵抗勢力・悪臣と評価されている。今回はその評価への修正を試みたい。 羊祜の同母姉である羊徽瑜は司馬師の妻かつ司馬攸の養母である。一方の賈充は司馬攸の舅である。つまり、羊祜と賈充はともに司馬攸の後ろ盾となるべき人物であり、司馬攸を立てるという共通の目的を持っていたはずなのだ。司馬攸が大業を成すには、征呉の功績が決定的に重要である。賈充からすれば、「征呉は結構だが、司馬攸を総大将にする算段が先だ、軍略自慢に溺れて本分を... -
司馬衷を強引に再評価する
前回の投稿で、賈南風について強引に再評価を行った。続いて司馬衷を擁護してみたい。 賈南風は苛烈な性情を持つものの、最終的には司馬衷自身の判断を尊重する妻であった。帝位を得るに相応しいか司馬炎が課した試験を彼女のおかげでクリアできた(晋書の記載だが事実性に疑義あり)。そんな賈南風に対し、司馬衷は政権運営上の信頼と自由を一貫して与え続けた。 賈南風を失った後、司馬衷が味方した王は司馬乂と司馬越である。司馬乂は八王の乱において数少ない良識的な行動をとったプレーヤーで、朝政の第一人...
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