南北朝– category –
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拓跋燾南伐 西暦450年における南北朝の重大局面
西暦450年は、北魏および南朝劉宋の両者にとって極めて重大な局面だったと思うのだが、あまり注目されていない印象がある。今回、資治通鑑で何が起きたかを実際に確認することとした。長文である。年は西暦だが、月は旧暦とする。 448年8月、平城(北魏の首都、山西省大同市)から1万里以上離れた西域の般悦国(中央アジアのテュルク系遊牧国家、北匈奴の末裔で後世のエフタルとされる)が北魏に遣使し、柔然を東西から挟撃することを請うた。拓跋燾(北魏の世祖・太武帝)はこれを許可し、国内外に戒厳令を発した... -
西魏の軍制について 八柱国・十二大将軍は虚構だったのか
前島佳孝 「西魏の統治領域区分についての補論」で感得するところが多く、記事を書くことにした。 周書 巻16列伝第8によると西魏では、爾朱栄以後に最高指導者の称号となった柱国大将軍に至った者が8名居り、八柱国と呼ばれている。メンバーは、宇文泰(のちの北周太祖)・李虎(唐高祖李淵の祖父、のちの唐太祖)・元欣・李弼・独狐信・趙貴・于謹(於謹)・侯莫陳崇である。 柱国大将軍の下位に位置付けられた大将軍(かつて武官の頂点を意味した)には12人が任じられ、十二大将軍と呼ばれている。メンバーは... -
彭城太妃爾朱氏 数奇な生涯を辿った爾朱栄の長女
爾朱栄の記事を書くために色々調べていると、その長女の生涯にも興味を持った。そこで、簡単に紹介することとした。北史に従って彭城太妃爾朱氏としたが、大爾朱氏と呼ばれることが多い。爾朱栄の娘と爾朱兆の娘が、どちらも北魏皇后を経た後に高歓の側室となっており、後者は北史において小爾朱と記されているからである。 北史 巻14 列伝第2 后妃下彭城太妃爾朱氏は、栄の娘、魏の孝荘(元子攸)の皇后である。神武(高歓)は彼女を側室として迎えると、婁妃(正室の婁昭君)より重んじ、爾朱氏と会うときは... -
爾朱栄 北魏の秩序維持とその崩壊
五胡末から南北朝と長期に渡って存在感を示した北魏、爾朱栄がその転機になったことは間違いない。以前から魏書爾朱栄伝に興味はあったが、今回読んでみることにした。ただし、北斉期編纂の魏書は、正史でありながら多くの曲筆が指摘され「穢史」とも呼ばれるいわくつきの書である。魏書を読む際は、常に北斉政権・編者魏収によるフィルターを意識する必要がある。唐代成立の北史にも爾朱栄の列伝があるため、魏書に準拠して記載しながら、食い違う所は適宜追記する。 爾朱栄伝 (魏書 巻74列伝第62、北史 巻48... -
祖沖之 南朝に現れた算術の特異点
中華の度量衡について調べていると、南朝の祖沖之についての記載を認めた(丘光明、楊平 「中国古代度量衡史の概説」)。以前の暦に関する記事で見た名前ということもあり、彼の事績をまとめてみた。 円周率隋書律暦志によると、古代では円周率を3とみなしてきた。その状況が変わったのは王莽の新の頃。劉歆が「新莽嘉量」という度量衡の傑作を造り、その銘文中に円面積の算出法も記された。劉歆の円周率は3.1547であったと推算されている。曹魏の劉徽は割円術(円に接する正多角形を用いる)によって円周率の算... -
前回からの続きで崔猷についても調べてみた
前回の王思政に関する記事で、長社県(現在の河南省許昌市長葛市)に駐屯しようとした王思政の判断に否を突き付けた崔猷。彼に興味を持ったため、周書・北史からユルく引用しながら足跡を辿ってみた。 崔猷の生涯(北魏~隋、周書巻35列伝第27/北史巻32列伝第20)崔猷の字は宣猷、博陵郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人、漢の尚書崔寔の十二世孫である。(父祖・肩書系は割愛)猷は年少時より学問を好み、物静かでエレガントな佇まいにあっても性格は剛直で、軍略の才もあった。北魏で任官されていたが、... -
慕容紹宗と王思政 東魏・西魏の激闘で失われた東西の名将
慕容紹宗慕容紹宗は前燕の名将かつ名宰相、慕容恪の末裔とされる。爾朱栄相手に洛陽での誅殺を諫止したり、爾朱兆相手に高歓への警戒を説いたり、各所で適切な助言をしているが、聞き入れられなかった。爾朱兆の敗北後は高歓に投降し、その後東魏の将として各地で戦勝を得てきた。547年、東魏の黄河以南を任されていた侯景が、高歓死後に息子の高澄に対し乱を起こした。侯景の言動からすると、高歓は主君でなく同僚であり、まして息子の高澄に従うつもりは全くなかったようだ。ただ、生前の高歓は侯景が高澄に従わ... -
宇文邕の廃仏 魏晋南北朝における法難 その2
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は後編とし... -
拓跋燾の廃仏 魏晋南北朝における法難 その1
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は前編とし... -
西暦493年以後 その2 北魏で何が起こったのか
西暦493年(南朝斉の永明十一年・北魏の太和十七年)以後しばらく、南北両朝で重大な出来事が集中して起こっているにもかかわらず、あまり注目されていないようだ。北魏での動きを追ってみた。ある程度割愛したものの資治通鑑をベースにした長文である。月は旧暦、年齢は数え年とした。 493年1月、南朝宋から亡命した劉昶は、泣きながら雪辱戦を乞うた。拓跋宏(孝文帝、高祖)は南伐について公卿と会議した。 2月、拓跋宏は平城の南で藉田を耕した。藉田とは中華において行われた皇帝による農耕儀式であるが、北...