南北朝– category –
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西暦493年以後 その1 南朝斉で何が起こったのか
西暦493年(南朝斉の永明十一年・北魏の太和十七年)以後しばらく、南北両朝で重大な出来事が集中して起こっているにもかかわらず、あまり注目されていないようだ。南朝斉での動きを追ってみた。一部は割愛したものの資治通鑑をベースにした長文である。月は旧暦、年齢は数え年とした。 493年1月、皇太子の蕭長懋(斉武帝蕭賾の長男で蕭道成の孫)が死んだ、享年36。蕭長懋は調和のとれた人柄で、遊興を好んだ晩年の蕭賾に代わって一部の決裁を代行していた。一方で、蕭長懋は贅沢好きであったため、太子死後に訪... -
京兆韋氏 南北両朝で最高峰の武将を輩出した名家
京兆韋氏とは、京兆郡杜陵県(現在の陝西省西安市)を本貫地とする氏族である。西漢(前漢)の丞相(非常設の宰相職)を輩出するなど、名門として古くから知られていたが、南北朝時代ではそれ以上に存在感のある名将を2人輩出した。韋叡と韋考寛である。そして、韋叡が南朝所属であるのに対し、韋考寛は北朝と、南北両朝で存在感を示した点も興味深い。 韋叡京兆を本貫地とする韋叡が南朝に属した理由は、劉裕が北伐で長安(京兆郡に属する)を奪取したことにある。劉裕は建康に帰還した隙を突かれて赫連勃勃に長... -
南朝創業紀 その4 陳覇先の陳
陳覇先は、潁川陳氏(現在の河南省許昌市を本貫地とする名門、陳寔・陳紀・陳羣・陳泰などを輩出)の末裔を自称したが、劉裕・蕭道成・蕭衍と違って寒門(中下級官僚や将軍を輩出した家柄)ですらない、土豪の出身であった。 地方の小役人・建康の油倉庫番からキャリアをスタートした陳覇先だが、その能力を認められ、最終的に広州(現在の広東省付近)の軍権を掌握した。交州(現在のベトナム北部)土着の李賁が挙兵したが、陳覇先はこれを討ち、梁南部において威望を高めた。 侯景の乱が起こった時、陳覇先は周... -
南朝創業紀 その3 蕭衍の梁
蕭衍の父である蕭順之は、南朝斉を創建した高帝蕭道成の族弟(一族の年少者)であった。蕭道成・蕭順之をさかのぼると、共通の祖先として高祖父(祖父の祖父、4世代前)の蕭整で結びつくとのことである。 蕭道成の孫である蕭子良は、南朝斉を代表する文人であり、儒学・老荘・仏教の全てに通じていた。蕭衍は蕭子良サロンの著名人「竟陵八友」に名を連ね、文化的中心を担った。 時代は下って、その後暴君とされる皇帝蕭宝巻(東昏侯)が、蕭衍の兄である蕭懿を殺した。これにより決起した蕭衍は蕭宝巻を殺害し、代... -
南朝創業紀 その2 蕭道成の斉
蕭道成は西漢(前漢)の名臣である蕭何の末裔を自称していたが、寒門としてのキャリアを辿っている。 蕭道成に出世への道を開いた要素は2つある、一つは北魏相手の武勲である。竟陵(旧江夏郡 現在の湖北省中部)で北魏を攻撃して勝利、襄陽防衛と樊城攻撃で成果、関中(現在の陝西省)への侵攻など、蕭道成は北魏相手に見事な戦績を誇った。劉義隆(劉宋の文帝)による北伐への反攻として、西暦450年に拓跋燾(北魏の太武帝)が親征し、淮水周囲で簫道成と衝突した。蕭道成といえど流石に拓跋燾相手では不利な戦... -
南朝創業紀 その1 劉裕の宋
劉裕の出自に関する記載は魏書(北朝の正史)と宋書(南朝の正史)で異なる。少なくとも名門の生まれではなかった。東晋を揺るがした孫恩の乱(五斗米道という道教勢力を中心に起こった乱)において、東晋の二大軍事組織の一方、北府軍を率いる劉牢之の部下として反乱軍に対して大暴れし、武名を轟かせた劉裕は将軍として名を連ね大いに出世した。 その後、二大軍事組織のもう一方、西府軍を統括する桓玄(桓温の息子)が政権を主導するようになった。上司の劉牢之は当初桓玄に付いたが、やがて後悔するようになり... -
侯景 南北朝時代を彩ったトリックスター
侯景の出身は定かでない。北魏において爾朱栄の部下として頭角を現し、その後は高歓の下で重んじられた。しかしながら、高歓は自分の死後に侯景が息子らに従わないことを予想し、警戒していた。高歓死後、長男の高澄と対立した侯景は南朝梁と結ぼうとした。戦上手で知られる侯景の謀反は大変な脅威であったが、高歓が対侯景の切り札として用意していた名将慕容紹宗の参戦により、侯景は敗れた。 侯景は梁を頼ろうとしたが、おりしも梁の皇族が東魏の捕虜となっており、身柄交換の対象となる可能性があった。身の危... -
宇文泰 善手を積み重ね関中政権による統一を決定づけた南北朝最高の指導者
宇文泰の祖先は宇文部の族長家系である。宇文部はもともと匈奴だったが、その後鮮卑に所属し、中華東北部に割拠した。鮮卑慕容部と鎬を削ったが敗北し燕に編入。その後は北魏に属し、宇文泰の父である宇文肱は武川鎮に配せられていた。宇文肱は六鎮の乱で鎮圧側→反乱側(鮮于修礼)と立場を変え、その後鎮圧軍との闘いで戦死した。宇文泰は乱を鎮圧した爾朱栄傘下として、武川軍主の家系である賀抜岳に従った。爾朱栄は暗殺され、高歓が北魏の実権を握っていった。賀抜岳は関中(渭水盆地、現在の陝西省付近)で自... -
鮮卑の通婚関係 その3 武川鎮軍閥編
鮮卑の通婚関係を掘るシリーズ、最後は武川鎮軍閥。 ・宇文泰(北周文帝) 正妻は元氏=拓跋氏、北魏の皇族で孝武帝の妹。宇文覚を産んでいる。妻に姚氏(おそらく後秦の皇族)がおり、宇文毓を産んでいる。妻に叱奴氏がおり、宇文邕を産んでいる。叱奴氏については、赫連夏の武将に叱奴侯提の名があり、北魏を裏切って庾岳に討伐された纥奚部(高車とされるが鮮卑とも)の長が叱奴根、西魏の将に叱奴興の名がある。北方異民族なのは間違いない。 西魏の文帝に嫁いだ娘が居る。匈奴系の竇氏に嫁いだ娘がおり、さら... -
鮮卑の通婚関係 その2 拓跋部編
鮮卑の通婚関係を掘るシリーズ、慕容部に続いて拓跋部だが、あまりにも言及しなければならないことが多すぎてまとめられる気がしない。 ・そもそも拓跋部は鮮卑なのか これまで鮮卑として理解されていた拓跋部だが、近年では匈奴とみなす説も出ている。拓跋部との通婚関係で重要な賀蘭部、中華北東部で鮮卑慕容部と鎬を削った宇文部についても同様の議論がある。鮮卑はもともと匈奴から分枝しており、民族というより様々な起源を持つ部族の連合と解釈した方が良いのかもしれない。 ・拓跋珪(道武帝)をめぐる部族...