三国志– category –
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孫権の皇帝即位には道理がある
孫権の皇帝即位になんの根拠も無いとする見解をしばしば見かけるため、記事を書くことにした。陳寿はなぜ「魏志」や「魏蜀志」でなく「三国志」にしたのか、その意図を読み取れていないからだ。田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」をまず読んでほしい。 221年、皇帝に即位したばかりの曹丕は、臣従していた孫権に対し、気前よく九錫(皇帝と同等の待遇を意味する9つの特典)を与えた。この時点で九錫を受けた前例は王莽と曹操しかない、この点が極めて重要である。劉氏による両漢王朝は約400年の歴史を持つ。曹魏... -
曹操にとって、劉備はどれほど重要な存在だったか
曹操から見た劉備にフォーカスし、三国志を引用しながら適当に放論してみる。 ・布請曰「明公所患不過於布、今已服矣、天下不足憂。明公将步、令布将騎、則天下不足定也」太祖有疑色。劉備進曰「明公不見布之事丁建陽及董太師乎」太祖頷之(呂布伝)曹操が歩兵を率いて、呂布が騎兵を率いる。降伏した呂布による提案は、人材マニアの曹操から見て大変魅力的だった。曹操が得意とした兵科は歩兵だった。孫子は曹操の愛読書として知られるが、軍の運用については歩兵ベースで議論されている。并州五原郡九原県(内モ... -
詳述 二宮の変
二宮の変。中国では二宮之争もしくは南魯党争の名称が一般的なようだ。三国時代に孫呉で起こった宮廷闘争である。多くの人が三国志に無関心となる諸葛亮死後の出来事であり、更にドロドロの内紛なので興味を惹かれる人は少ないようだ。私自身も大まかなところしか知らなかったため、資治通鑑を紐解いてみた。長文である。魏や蜀漢の重大イベントにも興味はあったが、約10年の長丁場なので省略した。呉の戦役についても簡略にとどめた。年は西暦だが、月は旧歴とする。 241年5月、呉の太子である孫登が死んだ。 242... -
劉宏と董卓 その虚像と実像
劉宏。東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)の霊帝として知られる。売官・汚職を横行させ、清廉な官人たちを党錮の禁で弾圧するなど、東漢が民衆・名士からの支持を失うきっかけとなった暗君とされる。董卓。皇帝を廃位したのちに殺し、雒陽(東漢期の洛陽はこう記した)を焼き、悪貨を流通させるなど、乱世の呼び水になった暴虐の支配者とされる。なぜ彼らの悪評は固定化されるに至ったか、共通点があると考え、ここに放論を行う。 東漢末期の頃はグローバルでの寒冷期にあたった。世界各地でそれまでの生... -
孫呉の首都に関する考察
西暦200年、孫策死亡後に勢力を引き継いだ孫権は、当初の本拠地を呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)とした。ここで注目すべきは呉の四姓である。顧氏・陸氏は呉県を本貫地とする氏族である。朱氏・張氏は候補が複数あるのだが、両方に呉県を本貫地とする氏族が居る。孫氏は呉郡富春県(浙江省杭州市富陽区)出身であるが、孫堅・孫策は北方を転戦しており、孫策は陸氏の長老である陸康と対立する有様であった。孫策までと違い、呉県に根を下ろした孫権の姿勢は注目しておくべきだろう。 208年、黄祖を討伐し、揚州南... -
二人の文鴦 文俶と段文鴦
魏晋南北朝には文鴦と呼ばれる武将が二人居る。曹魏・孫呉・西晋で活躍した文俶と、五胡十六国初期に鮮卑段部で活躍した段文鴦である。ともに当時では最高峰の勇将として知られていた。 文俶姓は文、名は俶、字は次騫。文鴦として有名だが、鴦は彼の幼名である。父の文欽が毋丘倹と共に司馬師に反旗を翻した時、数え18歳にして軍中随一の勇将として知られるほどであった。幼名が流布したのも年少時からの武名ゆえかもしれない。 鄧艾は自身で文欽を誘い出したのち、司馬師の本隊とぶつける作戦を実行した。司馬師... -
魏晋南北朝の名包囲 その2 陸抗 西陵の戦い(歩闡の乱)
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。2回目は陸抗による西陵の戦いを取り上げる。三国志を代表する見事な包囲戦なのだが、三国時代の後期ということもあり、今一つマイナーな感は否めない。 呉の皇帝孫晧は、西陵(かつての夷陵を改名 現在の湖北省宜昌市)に駐屯する歩闡を都へ召還しようとした。残念ながら暴君とされた孫晧の為人・実績の... -
魏晋南北朝の名包囲 その1 司馬昭 諸葛誕の乱
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。1回目は司馬昭による諸葛誕の乱を取り上げる。司馬氏に対する淮南三叛の3番目という政治的な意味合いから評価されることが多いけれども、内容的に非常に面白い戦いで、司馬昭は将帥として凄まじいと実感できる名包囲である。 都督として揚州の軍権を掌握していた諸葛誕は、司馬氏でなく曹氏への忠誠を明確... -
夏侯惇はなぜ重用されたか
三国志演義から正史に入ると、多くの人が両者に横たわる夏侯惇像の差に注目する。三国志演義では曹操陣営を代表する猛将であるのに対し、正史だととてもそうは思えないのだ。兗州を奪おうとした呂布に抵抗を試みたものの捕虜となる、呂布陣営から攻撃を受ける劉備を救援しようとして高順に敗北、劉表傘下時代の劉備に博望坡(現在の河南省南陽市)で敗北と、夏侯惇の軍功は今一つパッとしない。しかしながら、曹操は不動のNo.2というかほぼ同格の存在として夏侯惇を遇し、曹丕も武官の頂点である大将軍という地位... -
荀彧と周瑜は名士から見た行動規範の先駆けとなった
荀彧と周瑜、両者が三国志の行く末を大きく左右したキーマンであったことに議論の余地はない。そして実はこの2人、以後の名士にも引き継がれた、ある共通点がある。 荀彧の動き荀彧の出身氏族たる潁川荀氏は歴史的大儒である荀子の末裔とされ、東漢(後漢:五代十国のものと区別するため)においても叔父の荀爽が司空として三公(人臣の頂点とされる3つの公職、東漢では太尉・司徒・司空)に名を連ねるなど、清流派(当時の東漢における宦官の跋扈・汚職の横行を濁流であると批判した儒家勢力、党錮の禁での弾圧...
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