褚蒜子と司馬昱 東晋の前期と中期を結ぶミッシングリンク

金民壽 「桓温から謝安に至る東晋中期の政治」を読んだことが、記事作成のきっかけとなった。
東晋中期の政治は未発掘の部分が多いと感じる。そして、だからこそ挑戦しがいのあるテーマだとも思う。

東晋を代表する名族として、琅邪王氏と陳郡謝氏の2氏族がよく挙げられる。
しかしながら、これは東晋をより高い解像度で理解する妨げとなる。
東晋の前期を主導したのは琅邪王氏と潁川庾氏であり、東晋中期の主役は譙郡桓氏と陳郡謝氏だからである。前述の2氏族のみにフォーカスすることは、東晋の実像を歪めることになる。
そして、この前期と中期を結ぶ連結点として、褚蒜子(康献皇后、崇徳太后)および司馬昱(会稽王、簡文帝)に注目すべきであると考えた。

344年、康帝司馬岳(元帝司馬睿の孫、明帝司馬紹の次男、成帝司馬衍の弟)が死に、長男の司馬聃が2歳にして即位した(穆帝)。この時、外戚の庾氏(司馬岳の母は庾氏)は司馬睿の末子である会稽王司馬昱を皇帝に推したが、司馬岳は何充が推す自身の息子を次期皇帝に指名した。
幼帝の即位は必然的に別の執政者を求める。司馬岳の皇后だった褚蒜子が称制(皇帝が幼少のときに皇太后が政務を行うこと)したが、輔政にあたる有力者を要した。
同344年に輔政に指名された庾冰が死に、翌345年に弟の庾翼が死んだ。何充は庾氏の影響力を排除して輔政したが、346年に死んだ。
何充死後に輔政者として褚蒜子から指名されたのが司馬昱である。その後、司馬昱は宗族の重鎮として東晋のキープレーヤーであり続けた。

清談を好んだ司馬昱だが、桓温と謝尚(謝安の従兄)はその学友として交流していた。
謝尚が豫州刺史になり、桓温が荊州刺史になったのは、司馬昱の輔政開始とほぼ同時期だった。これが、北府軍=謝氏、西府軍=桓氏という東晋中期を代表する図式の端緒となった。
ただ、実際の事情はもう少し複雑である。会稽王友、つまり司馬昱に属していた謝尚に対し、桓温はかつて琅邪王だった司馬岳に属していた。そして桓温の荊州刺史叙任について、直接的には何充の意向を反映したものである。

殷浩と謝安は、若い頃に清談を好んで政界への参入が遅れている。清談サロンを主宰した司馬昱とも交流を持っていた。
書家として有名な王義之(琅邪王氏)は清談をたしなんだ。官職は会稽内史、つまり司馬昱の部下でもあった。

褚蒜子の父である褚裒から、謝尚、そして殷浩と、東晋の有力者に北伐を企図する者がしばしば現れたが、結果的に成功しなかった。
それに対し、桓温は西の成漢を征服した後に北伐を行い、洛陽の奪取などある程度成功した。
軍功を背景に荊州で権勢を高めつつあった桓温に対し、建康朝廷は警戒した。殷浩の重用と失脚、桓温召還について、司馬昱から見た意義を再度読み解く必要がある。

361年に司馬聃は子供を遺さず没し、哀帝司馬丕(司馬衍の長男)が即位したものの、実権はなかった。政治に携われない司馬丕は丹薬に耽り、中毒で日常生活が不可能になった。このため、364年に褚蒜子が2度目の称制を行った。
365年に司馬丕が死に、弟の司馬奕(廃帝もしくは海西公)が即位した。
371年、桓温は司馬奕が男色に溺れたという理由で廃立を提案し、褚蒜子は真偽を確認せずこれを受諾した。司馬昱が即位した。
372年に司馬昱は危篤となり、「司馬曜が輔けるに足る人物なら補佐してもらいたい。そうでなければ桓温自ら取るが良い」という遺詔を作成した。王担之(太原王氏)はこの遺詔を破棄し、謝安は「諸葛亮・王導の如くせよ」と遺詔を改めた。こうして、11歳の孝武帝司馬曜が即位した。翌373年に桓温は臣下として死んだ。

374年に王担之は地方へ出鎮し、その翌年に死んだ。桓氏の長者となっていた桓沖も377年に出鎮し、謝安が輔政者としての地位を確立した。
ここで褚蒜子による3度目の称制(373~376年)に注目しておきたい。既に皇統が司馬紹系から司馬昱系へ移っており、司馬岳の妻による称制は少し無理筋であった。
実は、褚蒜子の母である謝真石は、謝鯤の娘・謝尚の妹で、謝安から見ると従姉妹に相当した。そして、河南褚氏(後に褚遂良を輩出)の直系を見ると、褚裒以降は東晋での影響力が低下している。謝安は有力な直系外戚を持たない褚蒜子を利用していたのだ。
褚蒜子死亡は384年で、謝安が司馬道子との政争に敗れて出鎮したのはその直後である。

司馬紹傍系である司馬昱の即位は、東晋の皇統に一石を投げかけた重大事件である。
(そもそも、司馬睿とて司馬炎傍系なのだが、まあ時代が時代なので)
桓温にとって来るべき簒奪に向けての下準備だったと解釈されているが、歴代皇帝以上の名声を得ていた司馬昱を皇帝に立てる行為が、桓温即位への近道であるとは即断し難い印象を持っている。桓温と緊張関係にあったのだから尚更である。
桓温は野心的に簒奪を目論む奸雄で、謝安は桓温と苻堅の野望を阻止した救国の名宰相というのが、歴史上の共通認識となっている。しかしながら、晋書をはじめとして、後世で歴史認識の歪みがあったのではないか。たとえば、謝安が皇太后である褚蒜子と結んで外戚政治を展開したことは、あまり批判されていない。
譙郡桓氏は後に簒奪者である桓玄を輩出したため、後世の歴史に彼らの見解を反映できなかった。この点をよくよく意識して史料を読み直す必要がありそうだ。

司馬昱については、「恵帝(司馬衷)と同類で、清談に勝っているだけ」という謝安評、「赧王(周を終わらせた姫延)や献帝(東漢を終わらせた劉宏)の同輩」という謝霊運評が晋書に掲載され有名である。
しかしながら、陳郡謝氏サイドの意見だけを取り上げ、桓温の簒奪に協力した無為無策の天子と評価することは果たして適切なのだろうか。
西晋や五胡十六国において、司馬昱に類する皇族の有力者は、朋党を巻き込んで皇帝の位を志望し、深刻な内乱をなすか粛清されるケースがほとんどであった。
現実の司馬昱は、輔政者として25年以上にわたって東晋で重きをなし、司馬昱輔政期に東晋は中興を迎えたのである。
琅邪王の固辞(司馬睿が即位前に有した琅邪王位は、東晋において特別な意義を持ち、皇位継承上は皇太子に次ぐ立場だったと考えられる;三田辰彦 「東晋の琅邪王と皇位継承」)や司馬奕廃位を悲しむ様子などからも、謙譲の心を持って輔弼を望んだ司馬昱の姿勢がうかがえる。
また、桓温に対する当初の遺詔も、劉備が諸葛亮に言い渡したものと同じであり、桓温の禅譲を容易にするものだとは言い切れない。
桓温と同根の意図に基づく編集が司馬昱にも施された、とすれば辻褄は合う。

司馬昱即位に反対した何充だが、彼は会稽王師、つまり司馬昱の師匠にあたる。
外戚の庾氏を排除して桓温を抜擢したことといい、何充の学識・政治手腕は、東晋の傑物としてクローズアップされるべきだ。
ある意味では彼こそが、前期の庾氏政権から中期の桓氏政権に至るミッシングリンクであった。

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