西晋はいかにして匈奴漢の前に滅び去ったか (長文の資治通鑑抄訳)

西晋と匈奴漢との戦役を資治通鑑で追ってみることにした。
当初の動機は、八王の乱を制した司馬越が匈奴漢の脅威にどう対処したのか確認してみたくなったからだが、果たして。
長文すぎて通読が厳しい記事になっている。年は西暦だが、月は旧歴とする。

資治通鑑抄訳 304年8月~316年11月

304年
8月、かつて皇太弟の司馬穎は上表し、匈奴の左賢王である劉淵を冠軍将軍・監五部軍事(曹操が南匈奴を左・右・南・北・中の五部に分けた)に抜擢し、兵とともに鄴(河北省邯鄲市臨漳県の周辺)に駐屯させていた。劉淵の子である劉聡は驍勇が人並み外れ、経書史書を渉猟し、文才があり、300斤の弓を引いた。弱冠(20歳)にして京師(洛陽)で遊学し、名士は皆彼と交流した。司馬穎は劉聡を積弩将軍とした。
劉淵の従祖(父母のいとこ)で右賢王である劉宣は一族の人達に言った「漢が亡びて以来、我らの単于は虚号を与えられたのみで、僅かばかりの土地すら与えられなかった。そのほかの王侯は降下され平民と同じになった。いま我らの兵は衰えたといえども、なお2万人を下らない。どうして首を縮こまって役に就き、百年以上経ってしまったのか。左賢王(劉淵)の英武は世を超える。もし天が匈奴の勃興を欲さなければ、この人は生まれなかったに違いない。いま司馬氏は骨肉で殺し合っており、四海は鼎の湯が湧きたつように混乱している。呼韓邪(西漢時代の匈奴単于、漢と結んで匈奴を統一した、王昭君の夫)の事業を復するなら、今しかない」
こうして人々とともに謀って劉淵を大単于に推戴すると、党人の呼延攸を鄴に派遣し、その旨を告げた。
劉淵は、葬儀に参加するため鄴からの帰還を請うたが、司馬穎は許可しなかった。劉淵は呼延攸を先に帰らせて、劉宣らに告げて五部および雑胡を招集させ、司馬穎を援助することを宣言しつつ、実際には叛こうとした。王浚と東嬴公の司馬騰(司馬越の弟)が挙兵したため、劉淵は司馬穎に説いて言った「いま2鎮(幽州の王浚と并州の司馬騰)が跋扈し、兵は十余万。宿衛と近郡の兵のみでは防禦できないだろう。私の帰還を許してくれれば、殿下のために五部を説いて国難に赴かせる」
司馬穎は言った「はたして五部の衆を発するべきだろうか。たとえ上手く徴発できたとしても、鮮卑・烏恒(彼らは王浚・司馬騰陣営についた)に当たるのは容易でない。私は皇帝・司馬衷を奉じて洛陽に帰って彼らの鋭鋒を避け、おもむろに天下へ檄を伝え、逆順の道理をもって彼らを制したい。君の考えはどうか」
劉淵は言った「殿下は武皇帝(司馬炎)の子であり、王室において大勲があり、威光と恩恵は遠方まで行き渡り、四海の内で殿下のために死力を尽くさない者は居ない。徴発になんの困難があろうか。王浚は豎子(青二才・未熟者)で、司馬騰は傍系(司馬懿の弟である司馬馗の孫)で、殿下と優劣を争うことはできない。殿下がひとたび鄴の宮から出発し、弱さを人々に示せば、洛陽にたどり着くことさえできない。たとえ洛陽にたどり着けたとしても、殿下は権威を取り戻すことができない。願わくは殿下、兵や民を慰め励まし、彼らを鎮め安定されたし。淵は殿下のため、2部で司馬騰をこなごなにし、3部で王浚をさらし首にするよう要請する。2豎の首は指日にして(日を指定して or 太陽の方に向けて)懸けよう」
司馬穎は喜び、劉淵を北単于・参丞相軍事とした。
劉淵は左国城(匈奴左部の居城、山西省呂梁市離石区付近にあったとされる)に到着した。劉宣らは大単于の号で劉淵を呼び、20日間のうちに5万人を集めた。離石に都を置き、劉聡を鹿蠡王(漢書・匈奴伝にある谷蠡王、および晋書・北狄匈奴伝にある奕蠡王か:ともに賢王に次ぐ称号)とした。
左於陸王(匈奴の王号、前出の晋書・北狄匈奴伝に記載あり)の劉宏に精鋭騎兵5千を与えて派遣し、司馬穎の将である王粹と合流した上で、司馬騰を拒もうとした。既に王粹が司馬騰に敗れていたため、劉宏は及ぶところなく帰った。王浚・司馬騰連合軍に王斌、石超が敗れ、鄴は震撼した。盧志は司馬穎に皇帝を奉じて洛陽に還るよう勧めた。この時点で司馬穎の兵はなお1万5千居た。
盧志は夜に支度し、翌朝まさに出発しようとしたが、程太妃(司馬穎の母)が鄴を恋うて去ろうとせず、司馬穎は決断を下せずにいた。俄かに兵は潰え、司馬穎はついに帳下の数十騎で盧志と共に皇帝を奉じて犢車(諸公の乗り物、急場で天子の格式を取れなかった)を御し、南の洛陽へ逃走し、惨めな逃避行となった。皇帝は司馬顒陣営の張方が収容し、洛陽宮に還った。
王浚は鄴に入り、兵達は暴掠を行い、死者が多数出た。烏恒の羯朱に司馬穎を追わせ、朝歌(河南省鶴壁市淇県)に至ったが追いつけなかった。王浚は薊(北京市)に戻った。鮮卑で婦女を掠奪した者が多かったため、「何かを抱えている者は斬る」と命じたところ、易水(河北省を流れる川)に沈められた者が8千人居た。
司馬騰は劉淵を討つため拓跋猗㐌に出兵を求めた。拓跋猗㐌は弟の拓跋猗盧と共同で西河(山西省および内モンゴル自治区にまたがる地域)にて劉淵を攻撃し、これを破った。拓跋猗㐌は司馬騰と汾東(黄河の支流である汾水の東)で会盟して帰った。
劉淵は司馬穎が鄴から退去したことを聞くと、嘆いて言った「私の進言を用いず、逆に自ら潰走し、本当にしょうもない奴だ。しかしながら、私は彼と約束を交わしたので、救わないわけにはいかない」
まさに兵を発して鮮卑・烏恒を討とうとしたところ、劉宣らがこのように諫言した「晋の人は我々を奴隷のように扱ってきたが、いま骨肉で殺し合っている。これは天が彼らを見捨て、我らに呼韓邪の事業を復興させようとしているのだ。鮮卑・烏恒は我らの同類で、援けるべきである。どうして討とうというのか」
劉淵は言った「善い。ただ、大丈夫(劉淵自身)は漢高(劉邦)・魏武(曹操)に相当し、呼韓邪程度は倣うに値しない」
劉宣らは稽首(頭を地につけるまで深くたれて礼をすること)して言った「及ぶところにあらざるなり」

10月、李雄が成都王に即位した(成漢の成立)。
劉淵は都を左国城に遷し、胡や晋で彼に帰属するものはますます多くなった。
劉淵は群臣に言った「むかし漢は長久に天下を有し、民に恩を結んでいた。私は漢氏の甥で、約により兄弟となった。兄が亡びて弟が継ぐのに何の問題があろうか」
建国し、国号を漢とした。
劉淵は言った「いまだ四方は定まっておらず、高祖に倣って漢王を称するのがよいだろう」
こうして漢王に即位し、大赦・改元した。安楽公・劉禅に孝懐皇帝の尊号を追贈し、漢の三祖(劉邦・劉秀・劉備)五宗(文帝劉恒・武帝劉徹・宣帝劉詢・明帝劉荘・章帝劉炟)の神像を作り、これを祭った。妻の呼延氏を王后に立てた。右賢王の劉宣を丞相、崔游(劉淵の師)を御史大夫、左於陸王の劉宏を太尉、范隆(崔游門下で劉淵の同門)を大鴻臚、朱紀(劉淵の同門)を太常、上党(山西省長治市周囲)の崔懿之と後部の陳元達を黄門郎、族子(下世代の同族)の劉曜を建武将軍とした。崔游は固辞して官位に就かなかった。
皇帝司馬衷は洛陽に還ったが、張方が兵を擁して朝政を専制し、司馬穎は実権を失った。豫州都督・范陽王の司馬虓と徐州都督・東平王の司馬楙らは上言した「司馬穎は負荷に勝てず、皇太弟から降格して一邑に封じるのみとされたい。特別に命は全うさせるべし。太宰(司馬顒)に関右(函谷関もしくは潼関以西の地)の統治を委ね、州郡以下の選挙・授任は全て彼の決済を仰ぎ、朝廷の大事は、廃興・損益が生じるならその都度諮問すべきである。張方は国のために節を効する(節度ある行動をする or 刑罰権を象徴する節の行使)、しかしながら変通に達しないため、西に還れずにいる。張方を郡に帰し(張方はもともと馮翊郡の太守)、張方に加える官位は元のままとするのが良い。司徒の司馬戎・司空の司馬越は共に国に忠実だが小心であるので、機事(企み・機密)の中心とし、朝政を委ねるのがよい。王浚は社稷を定めた勲功があり、特に尊重し、北の地を慰撫させ、長く北藩とするのが良い。臣らが力を尽くして城を守って皇家の藩屏となれば、陛下が何もせずとも四海はおのずと正されよう」
張方は洛陽に滞在して久しく、兵士が剽掠する対象も尽きかけていた。張方軍では駐留の長期化で不満の声が高まった。そのため張方は長安への遷都を欲して議した。皇帝や公卿が従わないことを憂慮し、皇帝の外出を待ってこれをおびやかそうとした。皇帝に廟へ向かうよう請うたが、皇帝は許可しなかった。

11月、張方は兵を率いて入殿し、逃げた皇帝を引き出したうえで無理やり車に乗せ、自身の堡塁に行幸させた。宝物庫・後宮が張方軍の略奪の対象となった。張方は人々が洛陽に未練を残さないよう宗廟・宮室を焼こうとしたが、盧志が董卓を持ち出して戒めたため止めた。
張方は司馬衷および司馬穎や豫章王・司馬熾を伴って長安に赴いた。
太宰の司馬顒は歩兵騎兵3万を伴って覇上(陝西省西安市の東、劉邦が秦に侵攻した時に布陣した地)で皇帝を迎え、司馬顒の征西将軍府が宮室となった。ただし、尚書僕射の荀藩、司隸の劉暾、河南尹の周馥が洛陽に在り、留台として制を承けて事を行った。

12月、詔で司馬穎を皇太弟から成都王として家に帰し、豫章王の司馬熾を皇太弟に立てた。皇帝には兄弟が25人居たが、当時存命なのは司馬穎・司馬熾および呉王・司馬晏のみだった。司馬晏が凡愚なのに対し、司馬熾は素朴で学を好んだ。そのため、司馬顒は彼を立てた。
詔で司空の司馬越を太傅に任じて、司馬顒と左右から帝室を助けさせようとし、王戎にも朝政に参与させようとした。また、光禄大夫の王衍を尚書左僕射とした。高密王の司馬略(司馬越の弟)を鎮南将軍・領司隷校尉とし、洛陽を鎮守させた。東中郎将の司馬模(司馬越の弟、王浚が去った後の鄴に入城していた)を寧北将軍・都督冀州諸軍事とし、鄴を鎮守させた。百官を職場復帰させ、寛政を心掛けさせ、事態が収拾した後は洛陽に遷都することを約束した。大赦・改元した。司馬顒は四方がバラバラで、国難が去っていないことから、このように司馬越との和解を示す詔を下して、国家の安定を図った。司馬越は辞して太傅を受けなかった。
詔で司馬顒を都督中外諸軍事とした。張方は中領軍・録尚書事・領京兆太守とした。
司馬騰は将軍の聶玄を派遣し劉淵を攻撃させ、大陵(山西省呂梁市文水県)で戦った。聶玄の兵は大敗した。
劉淵は劉曜を派遣して太原郡(山西省太原市周囲)に侵攻し、泫氏・屯留・長子・中都を取った。
また冠軍将軍の喬晞に西河を攻略させ、介休を取った。介休の県令である賈渾は降伏しなかったので殺された。賈渾の妻である宗氏は喬晞の妻に迎えられたが、哭いて喬晞を罵ったため殺された。この顛末を聞いた劉淵は怒り、4等降格となった。賈渾の遺体は改葬された。

305年
4月、張方が羊后を廃した。
游楷(司馬顒派)らは皇甫重(司馬乂派、秦州刺史として冀城=甘粛省天水市甘谷県東部に入っていた)を攻めたが長年勝てずにいた。皇甫重は養子の皇甫昌を外部に派遣し、救援を求めた。皇甫昌は司空の司馬越に会ったが、司馬越は司馬顒と新たに山東連和(304年12月の和解か)を結んでいたため出兵を拒んだ。そこで皇甫昌は、かつて殿中の衛士だった楊篇とともに、司馬越の命令を詐称して羊后を金墉城に迎え、洛陽宮に入ると、后の命令で兵を徴発して張方を討とうとし、皇帝の車駕を迎え奉じた。事変があわただしく起こり、当初百官は皆これに従った。詐称が判明したため、皇甫昌は殺された。
司馬顒は皇甫重に対して御史を派遣し、詔で諭して降伏させようとしたが、皇甫重は承知しなかった。当時冀城内では司馬乂と皇甫商(皇甫重の弟で司馬乂の重臣)が既に死んでいることを知らなかった。皇甫重は御史の馬飼いを捕えて問うた「我が弟(皇甫商)が兵を率いて来るはずだが、なぜ来ないのか」
馬飼いは言った「既に司馬顒の手で殺された」
皇甫重は色を失い、馬飼いを殺した。城中は外からの救援がないことを悟り、みなで皇甫重を殺して投降した。司馬顒は馮翊太守の張輔を秦州刺史にした。

6月、安豊元侯の王戎が逃亡先の郟で死んだ。
張輔は秦州に至り、天水太守の封尚を殺し、威圧しようとした。また隴西太守の韓稚を召集した。韓稚の子である韓朴が兵を率いて張輔を攻撃し、張輔は軍が敗れて死んだ。
涼州司馬の楊胤は張軌(涼州刺史、前涼の基礎を作った)に言った「韓稚はほしいままに刺史を殺した。殿は杖・鉞(刺史に与えられた軍権・刑罰権の比喩)を持っており、討たないわけにはいかない」
張軌はこれに従い、中督護の氾瑗に兵2万を与えて韓稚の討伐を試みた。韓稚は張軌の下に来て降伏した。
ほどなく、鮮卑の若羅拔能が涼州に侵攻してきたので、張軌は司馬の宋配を派遣してこれを攻撃し、若羅拔能を斬り、捕虜十余万を得て、威名は大いに振るった。
劉淵が司馬騰を攻撃し、司馬騰はまた拓跋猗㐌に援軍を要請した。衞操が拓跋猗㐌に司馬騰救助を勧めたため、拓跋猗㐌は軽騎兵数千で司馬騰を救援し、漢の将である綦毋豚を斬った。詔で拓跋猗㐌を大単于へ仮に任じ、操右将軍の号を加えた。
拓跋猗㐌が死に、息子の拓跋普根が代わりに立った(後で分かるが、この時点で拓跋普根は立っていない)。
東海中尉の劉洽は、張方が天子を脅して長安に遷したことを理由に、司馬越に挙兵を勧めた。

7月、司馬越は山東の征(四征将軍クラス)・鎮(四鎮将軍クラス)・州・郡にこのような檄文を飛ばした「義兵を率いて世を正し、天子を迎え奉り、旧都(洛陽)に再び戻らせたい」
東平王の司馬楙はこれを聞いて恐れた。長史の王修が司馬楙に説いて言った「司馬越は宗室で声望が重く、いま義兵を起こした。殿は徐州を挙げて司馬越に授けるのが良い。そうすれば難を免れ、さらに謙譲の美徳を示すことができる」
司馬楙はこれに従った。司馬越は司空として徐州都督の任を受領し、司馬楙は自ら兗州刺史となった。詔により使者として劉虔が派遣され、これらの官位が授けられた。
この時、司馬越の兄弟は各地方に割拠しており、范陽王の司馬虓および王浚らは皆で司馬越を推戴して盟主とした。司馬越は州刺史以下を選抜・設置し、朝士の多くが司馬越の下に赴いた。
司馬穎は既に皇太弟から廃せられていたが、河北では彼を哀れむ人が多かった。かつて司馬穎の将だった公師藩らが将軍を自称し、趙・魏エリアで挙兵した。兵は数万となった。
上党郡武鄕県(山西省長治市武郷県)の羯人である石勒は、胆力があり、騎射が得意だった。幷州で大飢饉があり、建威将軍の閻粹は、諸胡を山東で捕らえ、売り飛ばすことで軍費に充てるよう司馬騰へ説いた。石勒もまた捕えられ、茌平(山東省聊城市茌平区)の師懽に奴隷として売られた。師懽は石勒の容貌が尋常でないと考え、石勒を奴隷から免じた。師懽の家は隣に馬の牧場があり、石勒は牧場主の汲桑と壮士として結び群盗となった。公師藩の挙兵にあたり、汲桑と石勒は数百騎を率いてこれに赴いた。汲桑は石勒に命じて、姓を石・名を勒とした(胡族として名を持っていたはずの石勒、漢人の様式で彼を名付けたのは汲桑だった)。
公師藩は郡県を攻め落とし、二千石(地方長官)・長史(補佐官の筆頭)を殺し、前進して鄴を攻めた。平昌公の司馬模ははなはだ恐れた。范陽王の司馬虓はその将である苟晞を鄴に派遣し、広平太守で譙国(河南省東部と安徽省北部にまたがる地域)出身の丁紹と共に公師藩を攻撃した。公師藩は敗走した。

8月、大赦が行われた。
司馬越は琅邪王の司馬睿(のちの東晋元帝)を平東將軍・監徐州諸軍事とし、下邳(江蘇省北部)の留守にあてた。司馬睿は請うて王導を司馬とし、軍事を委ねた。
司馬越は兵3万を率いて西に向かい、蕭県(安徽省宿州市蕭県)に駐屯した。司馬虓は許昌(河南省許昌市)から移って滎陽(河南省鄭州市滎陽市)に駐屯した。
司馬越は天子の命をうけて豫州刺史だった劉喬を冀州刺史に転じ、司馬虓を豫州刺史にしようとした。劉喬は司馬虓の豫州着任が天子の命でないとして、兵を発して司馬虓を阻んだ。司馬虓は劉琨(のちに山西の群雄となった)を司馬とし,司馬越は劉蕃(劉琨の父)を淮北護軍とし,劉輿(劉琨の兄)を潁川太守とした。
劉喬は、劉輿・劉琨兄弟の罪悪を並べた上奏文を尚書(皇帝への上奏文を管轄する部門)へ提出した。劉喬は兵を率いて許昌を攻め、長男の劉祐に兵を授けて蕭県の霊壁(安徽省宿州市霊璧県)で司馬越を拒ませた。司馬越軍は進めなかった。
司馬楙は兗州での厳しい取り立てが止まず、郡県は命に堪えられなかった。司馬虓は苟晞を兗州に派遣して司馬楙を都督として青州に移そうとした。司馬楙は命を受けず、山東の諸侯に背いて劉喬と合流した。
司馬顒は山東での挙兵を聞き、甚だ恐れた。公師藩が司馬穎のために挙兵していることから、上表して司馬穎を鎮軍大将軍・都督河北諸軍事とし、兵千人を支給した。盧志を魏郡太守として司馬穎に従って鄴を鎮守させ、鄴を安撫させようとした。建武将軍の呂朗を派遣し洛陽に駐屯させた。
司馬顒は詔を発し、司馬越らに藩国へ帰るよう命じたが、司馬越らは従わなかった。劉喬はしばしば司馬顒に状況を報告していた。

10月、このような詔を下した「劉輿は司馬虓を脅迫し、反逆をなした。鎮南大将軍の劉弘、平南将軍・彭城王の司馬釋、征東大将軍の劉準、各々の率いる軍を整え、劉喬と力を合わせ、張方を大都督とし、精兵十万を率い、呂朗と許昌で合流し、劉輿・劉琨兄弟を誅殺せよ」
司馬顒は司馬穎に将軍の楼褒らを率いさせ、前車騎将軍の石超に北中郎将の王闡らを率いさせ、河橋(河南省焦作市孟州市か)に籠らせ、劉喬への増援とした。劉喬を鎮東将軍・仮節に昇進させた。
劉弘は劉喬と司馬越に書を送り、怨みを解いて兵を収め、共に王室を盛り立てるよう説いたが、みな聴かなかった。劉弘はまた上奏して内乱の禍を説き停戦を勧めたが、司馬顒は司馬越を拒絶して劉喬を援助しており、その上奏は受け入れられなかった。
劉喬は不意に許昌を襲撃し、敵軍を破った。劉琨は兵を率いて許昌を救援したが、及ばなかった。ついに兄の劉輿や司馬虓とともに河北へ出奔した。劉琨の父母は劉喬に捕らえられた。
劉弘は張方の暴虐さから司馬顒が必ず負けると考え、参軍の劉盤を都護として派遣し、諸軍を率いて司馬越の指揮下に入った。
当時天下は大乱であったが、劉弘は漢水・長江流域をもっぱら監督し、威令が南方に行き届いた。成功した時は「だれそれの功」と言い、失敗した時は「私の罪」と言った。徴発があるたびに、守相(郡太守と諸侯相)に手紙を書き、丁寧かつ親密だった。そのため人々は皆感心して悦び、争って劉弘のもとに赴いた。皆は言った「劉弘より1枚の書を得るのは、州従事からの10部より勝る」
前の広漢太守である辛冉は劉弘に縦横の事を説いた(縦横家の観点から、群雄としてのあるべき振る舞いを提案したというところか)が、劉弘は怒って辛冉を斬った。
平昌公の司馬模は将軍の宋冑を河橋に派遣した。

11月、立節将軍の周権は司馬越からの檄文を受け取ったと偽り、平西将軍を自称し、羊氏を再び皇后に立てた。洛陽令の何喬は周権を攻め殺し、再び羊氏を廃した。司馬顒は詔を矯め、羊后がしばしば奸悪な人達に立てられることを理由に、尚書の田淑を派遣し、羊后へ死を賜るよう留台(洛陽に留まった荀藩・劉暾・周馥)に命じた。詔書はしばしば届いたが、司隸校尉の劉暾らは上奏し、固く主張した「羊庶人の門戸は破壊され、廃されて空いた宮に放置され、門の出入りは固く禁じられている。奸悪な人と乱をなす機会は得られない。人々は愚かな者も智恵のある者も、彼女が冤罪だと言っている。いま無力で困窮した1人を殺せば、天下は悲惨になる、統治になんの益があろうか」
司馬顒は怒り、呂朗を派遣して劉暾を収監しようとした。劉暾は青州に逃げ、高密王の司馬略に身を寄せた。羊后は死を免れた。

12月、呂朗らは東に向かって滎陽に駐屯し、司馬穎は洛陽に進軍した。
劉琨は冀州刺史で太原出身の温羨を説いて、司馬虓に冀州刺史の位を譲らせた。司馬虓は冀州を領し、劉琨を幽州に派遣して王浚に援軍を要請した。王浚は突騎(古来より燕の突騎は天下の精鋭騎兵として知られる)を劉琨に貸与し、王闡を河上で攻め殺した。劉琨はついに司馬虓と兵を率いて黄河を渡り、石超を滎陽で斬った。劉喬は考城県(河南省商丘市の民権県)から後退した。司馬虓は劉琨および督護の田徽を東へ派遣し、廩丘県(山東省菏沢市鄆城県)で司馬楙を攻撃した。司馬楙は逃走し国へ帰った。劉琨と田徽は兵を東へ進めて司馬越を迎えた。譙で劉祐を攻撃し、劉祐は敗死した。劉喬の軍は潰え、劉喬は平氏県(現在地を同定できず、南陽郡に属する)に逃げた。
司馬越は陽武(河南省新郷市原陽県)に進軍した。王浚は将の祁弘を派遣し、突騎の鮮卑・烏恒を率いさせ、司馬越の先駆とした。
右将軍・前鋒都督の陳敏は、司馬越が劉祐に敗北していたことを契機に歴陽(安徽省馬鞍山市和県)で叛いた。呉王常侍(司馬晏側近)の甘卓(甘寧の曾孫)は官を辞して東に帰り、歴陽に居た。陳敏は息子の陳景を甘卓の娘と結婚させ、甘卓を利用して皇太弟(司馬熾)の命令を仮称させ、陳敏が揚州刺史を拝受する体裁を取った。陳敏は弟の陳恢と別将の錢端らを南の江州攻略に向かわせ、弟の陳斌を東の諸郡攻略に向かわせた。揚州刺史の劉機、丹楊太守の王曠はみな城を棄てて逃げた。
陳敏はついに江東に割拠し、顧栄を右将軍、賀循を丹楊内史、周玘を安豊太守とした。江東の豪傑・名士らはみな贈り物を受け取り、将軍・郡守となる者が40余人あった。ある者は老いて病気だったのに、官職を授けられた。賀循は精神疾患を詐病したため、官爵を免れ、丹楊内史の職は顧栄が兼ねた。周玘もまた病と称し、赴任しなかった。陳敏は名士達が自分のために働きたくないのだと疑い、彼らを悉く誅殺しようとした。顧栄は陳敏に説いて言った「中国は喪乱し、胡夷は内心で侮っている。今日の勢いを見るに、晋が再興することはできず、百姓は種さえ残せない状況である。江南は石冰の乱を経たといえど、人物はなお保全されている。しかしながら、私は常に孫権や劉備のように地方政権を存続させる国主たる人材が居ないことを憂えてきた。いま将軍(陳敏)の神がかった武力は世に並ぶ者が無く、勲功は既に著しく、武装した兵は数万で、艦艇も沢山ある。もし君子をよく信じて委ね、各々に真心を尽くせば、小さな嫌悪の情は散じ、そしりへつらう口は塞がれる。そうして長江上流の数州に檄文を伝えれば国は定まるだろう。そうしなければ、不首尾に終わるだろう」
陳敏は補佐役に命じて、自分を都督江東諸軍事・大司馬・楚公とし、九錫を加え、尚書に列するよう推薦させた。長江より沔水・漢水に入って天子の御車を迎え奉じる、という旨の詔を受けたと称した。
司馬顒は張光を順陽太守とし、歩兵騎兵5千を率いて荊州に向かわせ、陳敏の討伐を図った。劉弘は江夏太守の陶侃、武陵太守の苗光を夏口(沔水と長江の合流地点)に駐屯させ、さらに南平太守で汝南出身の応詹に水軍を率いさせて後続とした。
陶侃と陳敏は同じ盧江郡(安徽省合肥市周辺)出身で、同じ年に官吏として推挙されていた。隨郡内史の扈懷は劉弘に言った「陶侃は大郡におり、強兵を統べる。もし裏切れば荊州は東門としての守りを失う」
劉弘は言った「陶侃の忠義と能力は、私がこれを得て久しい。そのようなことは決して無い」
陶侃はこれを聞くと、子の陶洪および兄の子である陶臻を劉弘の許に送って忠誠を示し、劉弘は彼らを参軍に引き立て、物資と共に送り返した。
劉弘は言った「貞淑な人(陶侃)が出征し、君らの祖母は年老いている。帰りたまえ。凡人の交わりですら、なお心には背かない。まして大丈夫であれば尚更だ」
陳敏は弟の陳恢を荊州刺史とし、武昌(湖北省の武漢市か鄂州市)を攻めた。劉弘は陶侃に前鋒督護の地位を加え、陳恢を防がせた。陶侃は運搬船を戦艦にしようとし、反対する者が居た。陶侃は言った「官船を用いて官賊を撃つ、どうして出来ないものか」
陶侃は陳恢と戦い、たびたびこれを破った。また皮初・張光・苗光と共に錢端を長岐(現在地を同定できず)で破った。
南陽太守の衛展は劉弘に言った「張光は司馬顒の腹心である。殿は既に司馬越に与しており、張光を斬って旗幟鮮明にするのが良い」
劉弘は言った「宰輔(宰相・輔相、司馬顒を指す)の得失が張光の罪であろうか。人を害して自身の安寧をはかるのは、君子が行うことでない」
張光の殊勲を上表し、その昇進を請うた。
この年、離石で大飢饉が起こり、劉淵は黎亭(山西省長治市黎城県もしくは長治市壺関県)に移り、食糧貯蔵庫で飢えを凌いだ。太尉の劉宏を離石の守りに留め、大司農の卜豫に離石の食糧を補給させた。

306年
1月、太弟中庶子で蘭陵(山東省臨沂市か)出身の繆播はかつて司馬越の寵愛を受けていた。繆播の従弟(いとこ)で右衛率の繆胤は、司馬顒の前の妃の弟だった。司馬越は挙兵にあたって、繆播・繆胤を長安に派遣すると、皇帝を洛陽に奉還させ、分陝(かつて召公奭と周公旦が、河南省三門峡市陝州区を境に周を東西2分割したこと)の約定を結ぼうとした。司馬顒は平素から繆播兄弟を重く信任しており、これに従おうとした。張方は自身の罪業が重いことから、斬首されることを恐れ、司馬顒に言った「いま形勝の地(秦・漢と長安は歴史上の勝者を産みやすい土地)に拠り、国は富み兵も強い、天子を奉じて号令し、誰があえて従わないだろうか、どうして手をこまねいて人からの命令を受けようというのか」
司馬顒は繆播らの提案に従うのをやめた。
劉喬が敗北したため、司馬顒は恐れ、停戦し山東と和解することを望んだが、張方が従わないことを心配して、決められずにいた。張方は平素より長安の富豪である郅輔と親善しており、帳下督としていた。司馬顒の参軍である河間(河北省滄州市)出身の畢垣は、かつて張方に侮辱されていたため、司馬顒に説いて言った「張方は久しく霸上に駐屯し、山東の兵が盛んなのを聞いて、ぐずぐずして進まなかった(司馬顒は張方に劉喬の援軍となるよう命じていた)。叛逆の芽が出ないうちにそれを予防するのが良い。彼の親しく信任している郅輔が彼の謀をつぶさに知っている」
繆播・繆胤もまた司馬顒に説いて言った「急ぎ張方を斬って謝るのがよい、山東は労せずして定まろう」
司馬顒は使いを出して郅輔を召した。畢垣が郅輔を迎え説いて言うには「張方は謀反の意図があり、人は君がその企みを知るという。もし王(司馬顒)が君に問うたら、どう答えるか」
郅輔は驚いて言った「張方の謀反など聞いていない、どう答えたらよいのか」
畢垣は言った「もし王が君に問えば、ただ爾爾(そのとおりそのとおり)といえ、そうしなければ、災いから逃れられない」
郅輔が入り、司馬顒は彼に問うた「張方の謀反について、君はそれをしっているか」
郅輔は言った「爾」
司馬顒は言った「君を派遣して張方を取りたい、やってくれるか」
郅輔はまた言った「爾」
こうして司馬顒は郅輔を使者として張方のもとに手紙を送り、張方を殺そうとした。
郅輔は既に張方と昵懇だったので、刀を持ったまま入ったが、守衛は疑わなかった。張方が火の明かりをたよりに手紙の箱を開けようとしたところ、郅輔はその頭を斬った。郅輔は司馬顒のもとに帰って報告し、司馬顒は郅輔を安定太守に任じた。
張方の首を司馬越に送り和を請うたが、司馬越は承知しなかった。
宋冑が河橋を襲い、樓褒は西に逃げた。平昌公の司馬模が前鋒督護の馮嵩を派遣して宋冑と合流させ、洛陽に迫った。司馬穎は長安に向かって西走し、華陰(陝西省渭南市華陰市)に至ったが、司馬顒が既に山東と和親したと聞き、華陰に留まりそれ以上あえて進まなかった。呂朗は滎陽に駐屯していたが、劉琨が張方の首を示したため、ついに降伏した。
司馬越は祁弘・宋冑・司馬纂に鮮卑兵を添え、天子の車を迎えるべく西に派遣した。周馥を司隸校尉・仮節・都督諸軍とし、澠池(河南省三門峡市澠池県)に駐屯させた。

3月、惤(山東省煙台市竜口市)の県令である劉伯根が謀反し、兵は1万を数え、惤公を自称した。王弥は召使いを率いてこれに従い、劉伯根は王弥を長史とし、王弥の従父弟(父方いとこで年下の男性)の王桑を東中郎将にした。劉伯根は臨淄(山東省淄博市臨淄区、春秋戦国における斉の首都で、青州都督の治所もここにあった)に侵攻した。青州都督で高密王の司馬略は劉暾を将として派遣し、防戦させたが、劉暾軍は敗れ洛陽に逃げた。司馬略は逃げて聊城(山東省聊城市)を保った。王浚は将を派遣して劉伯根を討伐し、これを斬った。王弥は逃亡して長広山(長広県=山東省煙台市萊陽市にある山)に入り、群盗となった。

4月、司馬越は兵を転じて温(河南省焦作市温県、司馬氏の出身地)に駐屯した。かつて司馬顒は、張方が死ねば東方の兵も解散するはずだと思っていた。すでに東方の兵は張方の死を聞いていたが、争うように関中(長安のある渭水盆地周囲)へ入った。司馬顒は張方殺害を悔やみ、郅輔を斬った。弘農太守の彭隨と北地太守の刁默に兵を授け、祁弘らを湖(現在地を同定できず、湖だけで通じる場所としては運城塩湖か)で防がせた。

5月、祁弘らは彭隨・刁默を攻撃し、大破して西に向かい、関中に入ると、さらに司馬顒の将である馬瞻・郭偉を霸水で破った。司馬顒は単騎で逃げ太白山(陝西省の西南部にある山)に入った。祁弘らは長安にはいると、管轄下の鮮卑が大規模な掠奪を行い、2万余人を殺した。百官は逃散して山に入り、栃の実を拾って食べた。
祁弘らは皇帝を奉じて牛車に乗せて東に還った。太弟太保の梁柳を鎮西将軍とし、関中の守備にあてた。

6月、皇帝は洛陽に到着し、羊后が復位した。大赦・改元が行われた。
馬瞻らが長安に入って梁柳を殺し、始平太守の梁邁と共に南山(太白山)で司馬顒を迎えた。弘農太守の裴廙、秦国内史の賈龕、安定太守の賈疋(賈詡の曽孫)らが挙兵して司馬顒を攻撃し、馬瞻・梁邁を斬った。
司馬越は司馬顒を攻撃するため督護の麋晃に兵を授けて派遣し、その軍は鄭(陝西省渭南市華州区)に到着した。司馬顒は平北将軍の牽秀(牽招の孫)を馮翊(陝西省西安市および渭南市一帯)に駐屯させた。司馬顒の長史である楊騰は、司馬顒の命令を詐称して牽秀軍の活動を停止させ、ついに楊騰は牽秀を殺した。関中は皆司馬越に服し、司馬顒は長安城を保つのみとなった。
成都王の李雄が皇帝に即位し、大赦・改元した。国号は大成(漢中王→漢であるように、成都王→成)。父の李特の諡号を景皇帝とし、廟号を始祖とした。母の羅氏を王太后から皇太后とした。范長生を天地太師とした。その軍隊は税が免除された。諸将が恩を恃んで互いに席次を争ったため、尚書令の閻式は上疎し、漢・晋の故事に従って百官制度を立てるよう要請し、李雄はそれに従った。

8月、司馬越は司空から太傅・録尚書事となった。范陽王の司馬虓は司空として鄴に出鎮し、平昌公の司馬模は鎮東大将軍として許昌に出鎮した。王浚は驃騎大將軍、都督東夷·河北諸軍事となり、幽州刺史を兼ねた。
司馬越は側近の人事を行ったが、任用された者達は名声先行であり、老荘思想を好んで世事に勤めず、酒に溺れ放埓だった。
祁弘が関中に入ったため、司馬穎は武関(陝西省商洛市丹鳳県)から新野(河南省南陽市新野県)に逃げた。新城元公の劉弘が死んだため、司馬の郭勱は乱を起こし、司馬穎を主に迎えようとした。郭舒は劉弘の子である劉璠を奉じて郭勱を討ち、これを斬った。
南中郎将の劉陶に司馬穎を捕えるよう詔が下った。司馬穎は北に向かい、黄河を渡って朝歌に逃げ、かつての部下達数百人を収容し、公師藩と合流しようとしたが、頓丘太守の馮嵩が司馬穎を捕えて鄴に送った。司馬虓は司馬穎を殺すのが忍びなく、幽閉した。公師藩は白馬(河南省安陽市滑県)から南に黄河を渡ろうとしたが、兗州刺史の苟晞が公師藩を討伐し、これを斬った。
司馬騰は東嬴公から東燕王に進み、司馬模は平昌公から南陽王に進んだ。

10月、范陽王の司馬虓が死んだ。長史の劉輿は、司馬穎が鄴の人々から慕われていることから、司馬虓の死を秘して喪を発さず、詔を偽称して司馬穎に死を賜り、あわせてその子2人も殺した。司馬穎の属官は皆逃げたが、盧志だけは従い、死後も務めを怠らず、死体を収容して殯(もがり、死体の安置)した。司馬越は盧志を召して軍諮祭酒とした。
司馬越は劉輿を召そうとしたが、ある人が言った「劉輿は脂がにじんで、近づくと汚れる」
こうして、司馬越は劉輿を疎んじた。劉輿は密かに天下の兵簿・倉庫・牛馬・器械・地形図を見て、すべてを理解していた。当時は軍事・国政と課題が多く、会議毎に長史の潘滔以下答えられなかった。劉輿は機に応じて的確な計画を行ったので、司馬越は膝を傾けて応接し、劉輿を左長史として、軍務・国務の一切をこれに委ねた。劉輿は弟の劉琨を并州に派遣することで、北面の重しとするよう説いた。司馬越は劉琨を并州刺史とし、東燕王の司馬騰を車騎将軍・都督鄴城諸軍事とし、鄴を鎮守させた。

11月、皇帝司馬衷が䴵(小麦で作られた食品)で食中毒を起こして死んだ。
羊后は皇太弟の司馬熾が立ったら皇太后になれないことを恐れ、清河王の司馬覃を立てようとした。侍中の華混が諫めた「太弟は東宮に居ること既に久しく、民の信望も既に定まっている、今日変えてよいはずがない」
こうして露版が司馬越の召集に馳せ向かい、司馬熾も宮中に召集された。羊后は既に司馬覃を尚書の建物内に召していたが、変事を疑い、病にかこつけて帰した。
司馬熾は皇帝に即位し、大赦した。羊皇后を恵皇后と尊称して弘訓宮に住まわせ、司馬熾の母である王才人が皇太后となった。妃の梁氏が皇后となった。
懐帝・司馬熾は当初、旧制を遵守し、太極殿の東堂で政を聴いた。宴会のたびに群臣と政事を論じ経書の考察を行った。黄門侍郎の傅宣は褒め称えて言った「今日また武帝(司馬炎)の治世を見ようとは」

12月、司馬越は司馬顒を司徒とするため詔書で呼び出し、司馬顒はこれに応じた。南陽王の司馬模は、その将の梁臣を新安(河南省洛陽市新安県)に派遣して司馬顒を迎えさせると、車上で司馬顒を絞殺し、あわせてその3子も殺した。
中書監の温羨が左光禄大夫となって司徒を兼ね、尚書左僕射の王衍が司空となった。
司馬衷が太陽陵に葬られた。
劉琨が上党に到着し、司馬騰は井陘から東に下った。当時幷州は飢饉のうえ、しばしば劉淵軍に掠奪されていたので、郡県が保持できなくなっていた。州将の田甄とその弟である田蘭・任祉・祁濟・李惲・薄盛ら、および官民の1万余人は、司馬騰に従って冀州の穀につき、「乞活」を名乗った。残ったのは2万戸に満たず、盗賊が横行し、道路は寸断されていた。劉琨は上党で兵を募って500人を得て、転戦しながら前進した。晋陽(山西省太原市)に到着したが、役所は焼き壊され、集落や田野も寂れていた。劉琨が人々を安撫し、ねぎらい励ましたところ、ようやく流民が集まってきた。

307年
1月、晋は大赦・改元した。
吏部郎の周穆(司馬越の姑の子)と周穆の妹の夫である御史中丞の諸葛玫が司馬越に説いた「主上(司馬熾)が皇太弟となったのは張方の意向である。清河王(司馬覃)はもともと皇太子で、公(司馬越)はこちらを立てる方がよい」
司馬越は許可しなかった。周穆らが重ねてこの進言を行ったため、怒った司馬越は彼らを斬った。

2月、王弥が青・徐二州を侵し、征東大将軍を自称し、二千石(地方長官級)を攻め殺した。司馬越は公車令で東萊(山東省煙台市付近)出身の鞠羨を本郡太守に任じ、王弥を攻撃させたが、王弥は鞠羨を攻め殺した。
陳敏は刑罰や政務のルールがなく、そのため英俊は彼に味方しなかった。子弟も凶暴で、所在地では災いが起こった。顧栄・周玘らはこの状況を憂えていた。廬江内史の華譚が顧栄らに送った書にこうあった「陳敏は呉(江蘇省・浙江省・上海市にまたがる地域)・会稽(浙江省紹興市を中心とした地域)を盗んで籠り、命脈の危うさは朝露のようである。諸君らは郡太守や近臣でありながら、さらに奸悪な人物による朝廷で身を辱め、忠節を曲げて反逆者の仲間となった、これが恥ずかしくないわけなかろう。呉の武烈(孫堅)の父子はみな英傑の才があり、大業を受け継ぐことができた。今の陳敏は凶悪・狡猾であり、7人の弟もかたくなで乱れている。彼らは桓王(孫策)による気高い行跡や大皇(孫権)による賢者の事跡を踏襲しようとしている。諸君らの行いを遠くからはかってみたが、これは許されない。皇帝は長安から東の洛陽に還り、俊英が朝廷に満ち、まさに六軍を挙げて建業を清めようとしている。諸君らはどういう顔で中原の士にまみえるつもりか」
顧栄らには平素から陳敏をたばかる心があり、この書を得てはなはだ恥じた。征東大将軍の劉準に密使を送って長江沿いに兵を展開させた上で、顧栄自身は内応すると伝え、信用のため髪を切って添えた。劉準は揚州刺史の劉機らを歴陽から出撃させ、陳敏討伐を開始した。
陳敏は弟である広武将軍の陳昶に兵数万を授けて烏江(安徽省馬鞍山市和県、項羽が最期を迎えた地)に駐屯させ、歴陽太守の陳宏を牛渚(安徽省馬鞍山市当塗県)に駐屯させた。陳敏の弟である陳処は顧栄らに二心があることを知ると、陳敏に彼らを殺すよう勧めたが、陳敏は従わなかった。
陳昶の司馬である銭広は周玘と同じ郡の出身だった。周玘は密かに銭広の手で陳昶を殺させると、既に陳敏を殺したと州下(建業、揚州刺史の治所は建業にあった)で宣言し、陳敏のために動く者は誅三族(近親者を誅殺)とした。銭広は朱雀橋の南に兵を整え、陳敏は銭広討伐に甘卓を派遣し、重武装の精兵をことごとく甘卓に委ねた。
顧栄は陳敏の疑念を考慮し、陳敏に同行していた。陳敏は言った「あなたは四方に出鎮して防衛にあたるべきなのに、なぜ私に付き従うのか」
顧栄は退出すると周玘と共に甘卓へ説いた「江東の事が成就するなら、共にこれを行いたかった(江東の独立政権は孫呉の旧領における悲願だったのか)。しかし、あなたは今の事勢を見て、道理に従うべきではないか。陳敏はもはや凡才で、政令がくつがえる有様はまったく定まるところがない。その子弟も各々がおごりたかぶり、敗北は必至である。我らが陳敏陣営の禄官に安座したままだと、敗北の日に、江西諸軍(劉準ら討伐軍)が我らの首を洛陽に送り『逆賊顧栄・甘卓の首』と題される。これは万世の恥なるぞ」
甘卓はついに病を詐称し、娘(陳敏の息子に嫁いでいた)を迎えて朱雀橋を落とし、秦淮河(建業城の南にあった)の南岸に船を集めた。甘卓は周玘・顧栄および前の松滋侯相で丹楊(江蘇省鎮江市丹陽市)出身の紀瞻と共に陳敏を攻めた。
陳敏は自ら1万余人を率いて甘卓の討伐を企図したが、軍人は水を隔てて陳敏の兵に語りかけた「我々が陳公のために力を尽くした理由は、まさに丹楊太守の顧栄と安豊太守の周玘のみであった。今は両者とも陳敏のもとに居ない、お前らは何のために戦うのか」
陳敏の兵達はまだ帰属を決められないでいたが、顧栄が白羽扇を振るった様子を見て、ついに潰走した。陳敏は単騎で北へ逃げたが、追跡の末に江乗(江蘇省南京市棲霞区)で捕らえられた。陳敏は言った「諸人が我を誤てり、もって今日に至る」
弟の陳処に言った「私はあなたに負けた、あなたは私に負けなかった(助言に従って顧栄らを殺さなかったことへの言及)」
ついに陳敏は建業で斬られ、夷三族(近親者を誅殺)となった。陳敏の弟らも会稽郡などで悉く殺された。
当時は平東将軍の周馥が劉準に代わって寿春(安徽省淮南市寿県)を鎮守していた。

3月、周馥が陳敏の首を洛陽に送った。
詔で顧栄を侍中、紀瞻を尚書郎とした。司馬越は周玘を参軍とし、陸玩(陸機の従弟と記されているが、祖父は陸遜の弟である陸瑁)を掾とした。
顧栄らは徐州についたが、北方がますます乱れることを聞き、疑って進まなかった。司馬越は徐州刺史の裴盾(妹が司馬越の妻)にこのような書を送った「もし顧栄らがためらうなら、軍を使ってでもこちらに寄越せ」
顧栄らは恐れて逃げ帰った。
詔で楊太后(司馬炎の妻、賈南風らに廃位させられた)の尊号を戻し、改葬した。諡号は武悼とした。司馬覃の弟で豫章王の司馬詮を皇太子とし、大赦した。
皇帝の司馬熾は大政を観覧し、庶事に心を留めた。司馬越は喜ばず、藩国に出ることを固く求め、許昌に出鎮した。
高密王の司馬略を征南大将軍・都督荊州諸軍事とし、襄陽(湖北省襄陽市)を鎮守させた。南陽王の司馬模を征西大将軍・都督秦雍梁益(四州)諸軍事とし、長安を鎮守させた。東燕王の司馬騰を新蔡王・都督司冀二州諸軍事とし、鄴を鎮守させた。
公師藩の死後、汲桑は地元である荘平の牧場に逃げ帰った後、さらに兵を集めて郡県を劫掠し、大将軍を自称しつつ、成都王(司馬穎)の敵討ちを公言していた。石勒を前駆とし、向かうところ全てで勝利し、石勒を討虜将軍に任じて、ついに鄴まで攻め寄せた。当時鄴では役所の倉庫が空だったにもかかわらず、司馬騰の資産は甚だ豊かだった。司馬騰は性格が吝嗇(けち)で、施しを行わなかった。危急に臨み、将士おのおのに米を数升、絹を丈尺賜ったが、人々は動かなかった。

5月、汲桑は魏郡太守の馮嵩を大破すると、長駆して鄴に入城した。司馬騰は軽騎で出奔したが、汲桑の将である李豊に殺された。汲桑は司馬穎の棺を出土させて車に乗せ、事あるごとに司馬穎の棺に報告し、その後実行した。ついに鄴の宮殿を焼き、火は10日消えなかった。兵と民を1万余人殺し、大いに掠奪して去った。その後、延津(河南省新郷市延津県)より黄河を渡り、南の兗州を攻撃した。司馬越は大いに恐れ、苟晞と将軍の王讚に汲桑軍を討伐させた。
石勒と苟晞らは平原(山東省徳州市付近)と陽平(河北省南東部と山東省西部にまたがる地域)の間で数か月対峙し、大小30余り戦い、双方勝ち負けがあった。

7月、司馬越は官渡(河南省鄭州市中牟県)に駐屯し、苟晞に声援を送った。
琅邪王の司馬睿が、安東将軍・都督揚州江南諸軍事・仮節として建業に出鎮した。

8月、苟晞は汲桑を東武陽(河南省濮陽市南楽県)で攻撃し、これを大破した。汲桑は後退して清淵(山東省聊城市冠県もしくは河北省邯鄲市館陶県)を保った。

9月、司馬睿が建業に到着した。司馬睿は安東司馬の王導を謀主として心から信頼し、事あるごとに諮った。司馬睿の名声はもともと乏しく、呉の人は彼に与せず、久しく滞在しても士大夫に来る者がなかったため、王導は心配した。ちょうど司馬睿がみそぎに出かけることがあったので、王導は司馬睿を肩輿に乗せて、威儀を備えさせた。王導と名士達は司馬睿の輿に騎馬で従った。紀瞻・顧栄らはこれを見て驚き、連れだって道の左で拝礼した。王導は司馬睿に説いた「顧栄・賀循は、この土地で人望があるので、彼らを引き込んで人心を結ぶのがよい。二人を得てしまえば、来ない者は居ない」
司馬睿は王導に賀循・顧栄を直接訪問させ、二人とも命に応じて来た。賀循を呉国内史とした。顧栄を軍司とし、散騎常侍を加え、およそ軍府の政事は全て彼と謀議した。紀瞻その他各人も任官した。
王導は司馬睿に説いた「謙譲をもって士と接し、倹約に努め、清く静粛な政を行い、新旧(新=中原から来た者、旧=江東人)を安撫せよ」
こうして江東人の心は司馬睿に帰した。司馬睿が江東に来たばかりのころ、酒で粗相をすることが多かった。王導が助言したところ、司馬睿は酌を命じてそれを飲んだ後に杯をひっくり返し、以後酒を断った。
苟晞は汲桑を追撃して、その堡塁を8つ落とし、死者は1万余人となった。汲桑と石勒は敗残兵を集めて、匈奴漢へ逃げようとしたところ、冀州刺史で譙国出身の丁紹が赤橋(現在地を同定できず)で迎撃し、さらにこれを撃破した。汲桑は荘平の牧場に逃げ、石勒は楽平(山西省晋中市昔陽県か)に逃げた。
司馬越は許昌に帰ると、苟晞を撫軍將軍・都督青兗(二州)諸軍事に、丁紹を寧北將軍・監冀州諸軍事に任じ、両者とも仮節とした。
苟晞はしばしば強敵を破り、威名がとても盛んだった。繁忙ななか善く治め、厳峻に法を用いた。苟晞は彼を頼っていた従母(母の姉妹)に対し、とても厚く奉養した。従母の子が将の地位を求めたが、苟晞は許さず言った「私は王法を人に貸さない、後悔しないか」
なお固く地位を求めたため、苟晞は彼を督護とした。後に法を犯したので、苟晞は自身の刑罰権に基づいて彼を斬った。従母は彼を救うため叩頭(額を地に打ち付けるほど平伏する)したが、聴かなかった。執行後に素服(喪服)で哭して言った「君を殺した者は兗州刺史で、弟に哭する者は苟道将(道将は苟晞の字)である」
胡の部大(部族長)である張㔨督、馮莫突らは、数千人を擁し、上党に拠っていた。石勒は彼らのところに行って従ったが、張㔨督らに言った「劉単于(劉淵)が挙兵し晋を撃っている、部大は彼を拒んで従っていないが、最終的に自分たちだけで独立できると思うか」
張㔨督らは言った「できない」
石勒は言った「速やかに所属しなければいけない。いま部落はみな単于からの賞募を受けている。しばしば会議を重ねながら、叛いた部大として単于に帰順したいのか」
張㔨督らは石勒の主張に納得した。

10月、張㔨督らは単騎で石勒に従い、匈奴漢に帰順した。劉淵は張㔨督を親漢王、馮莫突を都督部大に任じた。石勒は輔漢将軍・平晋王となり、彼らを統べた。
烏恒の張伏利度は2千人を有し、楽平に拠っていた。劉淵は張伏利度をしばしば招いたが、来なかった。石勒は偽って劉淵から罪を被せられたことにし、張伏利度のもとに逃げ込んだ。張伏利度は喜んで、義兄弟の契りを結んだ。石勒に諸胡を率いさせて寇掠し、向かうところ敵なし。諸胡は石勒を畏れ服した。石勒は人心が自分に付いたことを見計らって、会合を機に張伏利度を捕えると言った「いま大事が起きた、我と張伏利度で主にふさわしいのはどちらだ」
諸胡は皆石勒を推した。石勒はこうして張伏利度を廃し、その兵を率いて漢に帰順した。劉淵は石勒に督山東征討諸軍事を加え、張伏利度の兵をその下に配した。

11月、尚書右僕射の和郁が征北将軍として鄴に出鎮した。
司徒に昇進した王衍が司馬越に言った「朝廷は危うく乱れ、方伯(諸侯の長)に頼るべきである。文武兼ね備えた者を得て方伯に任じるべき」
こうして王衍は、弟の王澄を荊州都督とし、族弟(同族の年少者)の王敦を青州刺史とし、彼らに言った「荊州は天然の要害である長江・漢水を有し、青州は後方に険しい海を控える。君ら2人が外にいて、私が中にいる、こうすれば三窟に足りる(戦国策からの引用:狡猾な兎は身を隠す場所を3つ用意して安全を確保する)」
王澄は鎮に到着すると、郭舒を別駕とし、役所の事務を委ねた。王澄は日夜酒浸りで、庶務に親しまず、外敵が入れ替わりで迫っても、気にしなかった。郭舒は常に切諫し、民を愛し兵を養い、州境を保全することを勧めたが、王澄は従わなかった。

12月、乞活(司馬騰に従って幷州から冀州に移った人達、306年12月参照)の田甄・田蘭・薄盛らが司馬騰の仇討ちを名目に挙兵し、楽陵(山東省徳州市楽陵市)で汲桑を斬った。司馬穎の棺は古井戸の中に捨てられたが、司馬穎の旧臣はこれを改葬した。
前の北軍中候である呂雍、度支校尉の陳顏らが、清河王の司馬覃を皇太子として立てようと謀った。事が発覚し、司馬越は矯詔(詔の捏造・改竄)で司馬覃を金墉城(洛陽で皇族の幽閉にしばしば用いられる、防御施設として運用されることもあった)に閉じ込めた。
かつて、司馬越は苟晞と親善し、連れだって昇殿し、義兄弟の契りを結んでいた。司馬の潘滔が司馬越に言った「兗州は要衝で、魏武(曹操)はこの地で創業した。苟晞には大志があり、純朴な臣ではない。彼を久しく兗州に置いたなら、いずれ心腹の患いとなろう。もし青州に移そうとも、肩書を厚くすれば苟晞は必ず喜ぶ。公(司馬越)みずから兗州を牧し、諸夏(漢人たち)を経緯(秩序立てて治め整える)し、本朝を外敵から守る、これはいわゆる未乱(乱が起こる前に対処する、老子道徳経 第64章からの引用)ということだ」
司馬越はこれに納得した。司馬越は丞相となり、兗州牧・都督兗豫司冀幽幷(六州)諸軍事を兼ねた。苟晞は征東大将軍・開府儀同三司とし、侍中・仮節・都督青州諸軍事を加え、青州刺史を兼ねさせ、東平郡公に封じた。司馬越と苟晞はこれより不仲となった。
苟晞は青州に到着すると、きわめて厳格なふるまいで威権を確立しようとした。日ごろから斬殺が行われ、青州の人々は彼を「屠伯」と呼んだ。
頓丘太守の魏植が流民に迫られ、5-6万人で兗州にて大いに掠奪した。苟晞は出兵して無塩(山東省泰安市東平県)でこれを討ち、撃破した。その間、弟の苟純が青州を領したが、刑殺は苟晞以上であった。
かつて、陽平の劉霊は若いころ貧しく卑賎な身分だったが、暴れ牛を制する力があり、走力は馬並みだった。当時の人々は劉霊の異能を認めつつ、あえて推挙することはなかった。劉霊は胸をなでて嘆いて言った「天よ、乱れたまえ」
公師藩の挙兵にあたって、劉霊は将軍を自称し、趙・魏の地を攻め掠奪した。おりしも王弥は苟純に敗れ、劉霊も王讚に敗れ、共に匈奴漢へ使者を派遣して降った。漢は王弥を鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事として東萊公に封じた。劉霊は平北将軍となった。
慕容廆が鮮卑大単于を自称した。
拓跋祿官が死んだ。弟の拓跋猗盧が三部(295年、拓跋祿官は拓跋部を3分割していた)を主宰し、慕容廆と通好した。

308年
1月、劉淵は撫軍将軍の劉聡ら10将を南の太行山脈に派遣し、輔漢将軍の石勒ら10将を東の趙・魏エリアに派遣した。

2月、太傅の司馬越が清河王の司馬覃を殺した。
石勒は常山(河北省石家荘市)に侵攻したが、王浚がこれを撃破した。

3月、司馬越が許昌から移って鄄城(山東省菏沢市鄄城県)に出鎮した。
王弥は敗残兵を収集し、再び兵力が充実していた。諸将を分遣して青・徐・兗・豫の4州を攻略した。通りがかった郡県を攻め落とし、守令(郡太守と県令)を多く殺した。兵は数万となった。苟晞は王弥と連戦したが勝てなかった。

4月、王弥が許昌に入った。
司馬越は司馬の王斌に兵5千を授け、洛陽防衛のため派遣した。張軌も督護の北宮純に兵を授けて洛陽に派遣した。

5月、王弥は轘轅(洛陽八関の1つ、河南省で洛陽市偃師区・鄭州市登封市・鄭州市鞏義市の境界にあり、許昌と洛陽を繋ぐ要衝)より入り、官軍は伊水(洛陽の南を流れる黄河水系の川)の北で敗れた。洛陽は大いに震えあがり、宮城は昼でも閉門した。王弥は洛陽に到着し、津陽門(洛陽城の構造は、向井佑介「曹魏洛陽の宮城をめぐる近年の議論」の図2を参照のこと)に駐屯した。詔で王衍を都督征討諸軍事とした。北宮純は勇士百余人を募って敵陣への突撃を敢行し、王弥軍は大敗した。王弥は建春門を焼いて東へ向かい、王衍は左衛将軍の王秉に追撃させた。七里潤で戦い、王弥は再び敗れた。王弥は逃げ急いで黄河を渡り、王桑(王弥のいとこ)と軹関(河北平原から山西に通じる峠道、太行八陘の1つ)より平陽(山西省臨汾市堯都区付近)に行った。
劉淵は王弥の出迎えに侍中および御史大夫を郊外まで派遣し、令した「私(劉淵)自ら将軍(王弥は征東大将軍を自称し、漢でも鎮東大将軍に任じられていた)の館に行き、席を払い杯を洗って、将軍を歓待しよう」
王弥が到着すると司隷校尉に任じ、侍中・特進を加えた。王桑は散騎侍郎となった。
北宮純らは漢の劉聡と河東(山西省南部)で戦い、これを破った。
詔により張軌を西平郡公に封じたが、張軌は辞して受けなかった。当時州郡の使者で朝廷に至る者は無かったが、張軌だけは遣使・貢献を行い、年中行事も絶やさなかった。

7月、劉淵は平陽に侵攻し、平陽太守の宋抽は郡を捨てて逃げ、河東太守の路述は戦死した。劉淵は蒲子(晋の行政区分では山西省臨汾市隰県、北周の行政区分では臨汾市蒲県)に遷都した。上郡鮮卑の陸逐延、氐の酋長である単徵が、ともに漢へ降った。

8月、司馬越は鄄から移って濮陽(河南省濮陽市濮陽県付近)に駐屯した。程なく移って滎陽(河南省鄭州市滎陽市)に駐屯した。

9月、漢の王弥と石勒が鄴へ侵攻した。和郁は城を棄てて逃げた。詔により、豫州刺史の裴憲を白馬に駐屯させて王弥を拒ませ、車騎将軍の王堪を東燕(河南省新郷市延津県付近に設けられていた)に駐屯させて石勒を拒ませ、平北将軍の曹武を大陽(山西省運城市平陸県)に駐屯させて蒲子(の劉淵)に備えた。

10月、漢王の劉淵は皇帝に即位し、大赦・改元した。

11月、劉淵は息子の劉和を大将軍、劉聡を車騎大将軍、族子の劉曜を龍驤大将軍とした。
幷州刺史の劉琨は、上党太守の劉惇に鮮卑兵を授け壷関(山西省長治市壷関県)へ攻撃させた。漢の鎮東将軍である綦毋達は戦いに敗れて逃げ帰った。
漢の都督中外諸軍事・領丞相・右賢王の劉宣が死んだ。
石勒と劉霊は兵3万を率いて魏郡(河北省邯鄲市と河南省安陽市にまたがる地域)・汲郡(河南省北部)・頓丘(河南省濮陽市一帯)へ侵攻した。百姓が石勒らの勢いを見て降伏するところ、堡塁にして50余となった。塁主はみな将軍の号と都尉の印綬を仮に与えられ、それらの地域から強壮な5万人を兵として選抜し、老弱は今まで通り安堵した。石勒は魏郡太守の王粹を三台(鄴城にある氷井台、銅雀台、金虎台)で捕らえ、これを殺した。

12月、劉淵は大将軍の劉和を大司馬とし、梁王に封じた。尚書令の劉歓楽を司徒とし、陳留王に封じた。后の父で御史大夫の呼延翼を大司空とし、鴈門郡公に封じた。宗室は親疎に応じてことごとく郡県の王に封じ、異姓は功績に応じて悉く郡県の公侯に封じた。
詔で張光を梁州刺史とした。荊州では強盗が絶えなかったため、詔で劉璠(劉弘の息子)を順陽内史に起用した。長江と漢水の間は一丸となって劉璠に帰順した。

309年
1月、漢の太史令である宣于修之は劉淵に言った「3年以内で必ず洛陽に勝つ。蒲子は険しい地勢で、久しく安泰でいるのは難しい。平陽は気象が良いので、こちらに遷都することを請う」
劉淵はこれに従った。

3月、高密王の司馬略が死んだ、諡号は孝。尚書左僕射の山簡を征南将軍・都督荊湘交広四州諸軍事とし、襄陽に出鎮させた。山簡は山濤の子で、酒を嗜み、政事を顧みなかった。山簡は上表した「順陽内史の劉璠は人心を得ており、百姓が劉璠を脅かして主とするのを恐れる」
詔で劉璠を越騎校尉として召還した。南方の州はこれによりついに乱れ、年長者に劉弘を追慕しない者は居なかった。
太傅の司馬越が滎陽より洛陽に入った。中書監の王敦は親しい人に言った「太傅は権威を専ら執っているが、いまなお上表・請願の採択は尚書省が旧制に従って決済している。今日彼が戻ってきたなら、必ず誅殺があるだろう」
皇帝司馬熾が皇太弟だったころ、中庶子の繆播と仲が良く、即位に際して繆播を中書監、従弟の繆胤を太僕卿に任じ、腹心として彼らに委ねた。司馬熾の舅である散騎常侍の王延・尚書の何綏・太史令の高堂沖は、並んで機密に参与した。
司馬越は朝臣が自身に二心を持っていることを疑った。劉輿・潘滔は司馬越に繆播らをことごとく誅殺するよう勧めた。司馬越は繆播らが反乱を目論んでいると誣告すると、平東将軍の王秉に武装兵3千を授けて宮中へ派遣し、司馬熾のそばで控えていた繆播ら10余人を捕えて廷尉に渡し、彼らを殺した。司馬熾はため息をつき涙を流すのみだった。
何綏は何曾の孫である。かつて何曾が司馬炎の宴に侍り、退出後に息子達へ言った「主上は大業を開創し、私は宴のたびに参加しているが、未だかつて国家経営についての長期的な見通しを聞いたことがない。ただ平常時の事を説くだけで、貽厥孫謀(詩経の大雅・文王から引用:孫または子孫に残す謀)の道に言及することはない。自分の身に及ぶことだけで終わる、後継は危うい。でもお前らは免れることができよう」
そして孫たちを指して言った「彼らは必ず難にみまわれよう」
何綏が死んだとき、兄の何嵩は哭いて言った「我が祖はおおかた正しかった」
何曾の1日の食費は1万銭で、箸を下ろす場所がない程だった。子の何劭の食費は1日2万銭だった。何綏および弟の何機・何羨は、奢侈が更に甚だしかった。人と書状を交わす時も、言葉遣いや礼が手抜きで傲慢だった。河内の王尼が何綏の書を見て、人に言った「伯蔚(何綏の字)は乱世に居ながら、このように傲慢で豪放だ。彼が難を免れられようか」
人は言った「伯蔚があなたの言葉を聞いたら、必ず危害を加えてくる」
王尼は言った「伯蔚が私の言葉を聞くころには、彼は死んでいるだろうよ」
永嘉(司馬熾の年号、307-313年)の末に、何氏は断絶した。
司馬越は王敦を揚州刺史とした。
司馬越は兗州牧の任を解かれ、司徒を領した。司馬越は近年における変事の多くが殿中で起こっていたため(楊駿・司馬倫・司馬冏の誅殺、賈南風の廃后、羊献容・司馬覃の廃立など)、奏上のすえに宿衛のうちで侯爵位のある者を全て罷免した。当時、殿中の武官は封侯されていたため、出仕できる者はほぼ尽き、みな泣きながら去った。さらに右衛将軍の何倫と左衛将軍の王秉に東海国の兵(東海郡=山東省臨沂市と江蘇省北部、および安徽省天長市にまたがる地域:東海王司馬越の根拠地、つまり司馬越の私兵)数百人を率いさせ宿衛とした。
西晋の左積弩将軍である朱誕が漢へ亡命し、洛陽が孤立し弱いことをつぶさに述べ、劉淵に洛陽攻撃を勧めた。劉淵は朱誕を前鋒都督とし、滅晋大将軍の劉景を大都督とし、兵を授けて黎陽(河南省鶴壁市浚県)を攻撃し、勝利した。さらに王堪を延津(河南省新郷市延津県か)で破り、男女3万余人を黄河に沈めた。これを聞いた劉淵は怒って言った「劉景はどの面さげて朕にまたまみえんか。そして天道はこれを受け入れようか。私が除きたいのは司馬氏のみであり、庶民に何の罪があろうか」
劉景を降格して平虜将軍とした。

夏、大干ばつがあり、長江・漢水・黄河・洛水(華山から洛陽の南を通って黄河に注ぐ川)すべてで渇水が起こり、徒歩で渡れた。
漢の安東大将軍の石勒は鉅鹿(河北省邢台市平郷県の南西部)・常山に侵攻し、兵は10余万となった。衣冠の人物(役人・知識人といった意か)を集めて、別に君子営を作った。趙郡(河北省邯鄲市一帯)の張賓を謀主とし、刁膺を股肱とし、夔安・孔萇・支雄・桃豹・逯明を爪牙とした。并州の諸胡羯は多くが石勒に従った。
かつて、張賓は読書を好み、心のままに大志を抱き、常に自身を張良と比した。石勒が山東を巡った(石勒旧主の汲桑が旗揚げしたのは山東であり、地縁がある)時に張賓は親しい人に言った「私はこれまで諸将を観てきたが、この胡将軍(石勒)に匹敵する者は居なかった、ぜひとも共に大業を成すべし」
こうして張賓は剣を携えて軍門に行くと、大声で名乗って石勒との会見を請うた。石勒はまだ張賓の奇才を評価できていなかった。張賓がしばしば石勒に献策したところ、その言葉通りになった。こうして石勒は張賓の奇才を認め、軍功曹に任じて動静を張賓に諮問した。
劉淵は王弥を侍中・都督青徐兗豫荊揚六州諸軍事・征東大将軍・青州牧とし、楚王の劉聡と共同で壷関を攻めさせ、石勒は前鋒都督とした。劉琨は護軍の黄粛・韓述を壷関の救援に派遣した。劉聡は韓述を西澗で破り、石勒は黄粛を封田で破り(西澗・封田はいずれも壷関の南東にあった)、いずれも殺した。
司馬越は淮南内史の王曠および将軍の施融・曹超に兵を授けて派遣し、劉聡らを拒ませた。王曠は黄河を渡り、長駆して敵前に出ることを欲したが、施融は言った「彼らは地形の険しさに乗じて出没している。我々には数万の兵があるものの、軍の一部が孤立して敵を受けている。まず水を障壁として形勢を量り、その後に彼らの軍勢を出し抜くべきである」
王曠は怒って言った「君はこちらの兵を阻もうというのか」
施融は退出して言った「彼らは用兵に長け、王曠は軍事に暗い。私はいま必ず死ぬ部署に従っているのだ」
王曠らは太行山脈で劉聡と遭遇し、長平(山西省晋城市高平市付近、戦国時代に白起と趙括が会戦した)の間で戦い、王曠軍は大敗した。施融・曹超はともに死んだ。
劉聡はついに屯留(山西省長治市屯留区)・長子(山西省長治市長子県)を破り、およそ1万9千もの首級を獲た。上党太守の龐淳は壺関で漢に降伏した。劉琨は都尉の張倚に上党太守を兼ねさせ、襄垣(山西省長治市襄垣県)に籠らせた。
かつて、匈奴の劉猛が死に、右賢王・去卑の息子である誥升爰が代わりに劉猛の衆を率いた。誥升爰が死ぬと、息子の虎が立ち、新興(候補が多数あって同定できず)に居り、鉄弗氏(のちに赫連勃勃を輩出)を号した。鉄弗は白部鮮卑(東北に居た鮮卑の一部族、のちの慕容部は白部から分支した)とともに漢へ帰属した。劉琨は自ら兵を率いて鉄弗の虎を撃った。劉聡は派兵して晋陽(山西省太原市、劉琨の本拠地)を襲ったが勝てなかった。

5月、劉淵は息子の劉裕を斉王、劉隆を魯王に封じた。

8月、劉淵は楚王・劉聡らに洛陽への進攻を命じた。詔で晋の平北将軍である曹武らが防戦にあたったが、全て劉聡に敗れた。劉聡は長駆して宜陽に到着したが、度々の勝利に自負するところがあり、備えを怠った。

9月、弘農太守の垣延が偽装降伏の上で劉聡軍に夜襲をかけ、劉聡は大敗し帰った。
王浚は祁弘と鮮卑の段務勿塵(鮮卑段部のリーダー、段疾陸眷・段匹磾・段文鴦の父)を飛龍山(河北省石家荘市の南西にある山、封竜山とも呼ばれる)に派遣し、石勒を大破した。石勒は黎陽まで後退した。

10月、劉淵は楚王の劉聡・王弥・始安王の劉曜・汝陰王の劉景に精鋭騎兵5万を与えて洛陽を攻撃させた。大司空で鴈門公(諡号は剛穆)の呼延翼が歩兵を率いてこれに続いた。劉聡らは宜陽に到着した。晋朝廷は漢軍が先ごろ敗れたばかりなのに、不意に再び襲来したため、大層恐れた。劉聡は西明門(洛陽城の西側門)に駐屯した。北宮純らは夜に勇士千余人を率いて、漢の防壁を攻め、漢の征虜将軍である呼延顥を斬った。劉聡は南に向かい洛水に駐屯した。
呼延翼が部下に殺され、その兵は潰えて大陽(山西省臨汾市堯都区か)より帰った。劉淵は劉聡らに軍を帰還させるよう勅令したが、劉聡は上表して晋の兵が弱いため、呼延翼・呼延顥の死亡を理由に軍を帰すべきではない、洛陽攻撃の継続を固く請い、劉淵は承認した。
太傅司馬越は籠城して自ら守備にあたった。劉聡は嵩山(河南省登封市の山岳群)で自ら祈祷を行い、平晋将軍で安陽王(諡号は哀)の劉厲・冠軍将軍の呼延朗に留守の軍を任せた。太傅参軍の孫詢は司馬越に説くと、虚に乗じて出撃の上で呼延朗を斬り、劉厲は水死した。
王弥は劉聡に言った「今わが軍は既に利を失い、洛陽の守備はなお固い、荷車は(河南省三門峡市陝州区)にあり、食糧は数日もたない。殿下は龍驤(劉曜)とともに平陽へ帰るのが良い。食糧を確保して兵を発すれば、さらに再起できる。私が兵と食糧を収めて兗州・豫州で命令を待つのが良くないか」
劉聡はかつて自身が留まることを劉淵に請うていたため、帰れずにいた。宣于修之が劉淵に言った「辛未年(311年)に洛陽を得られるとある。今晋の気はなお盛んで、大軍を帰さなければ必ず敗れる」
こうして劉淵は劉聡らを召還した。

11月、漢の楚王である劉聡、始安王の劉曜が平陽に戻った。王弥は南の轘轅に出た。流民で潁川・襄城・汝南・南陽・河南(いずれも河南省内で洛陽より南)にある者は数万家で、平素から原住民に迫害されていたため、皆で城邑を焼き、二千石・長吏を殺して王弥に応じた。
石勒は信都(河北省衡水市冀州区付近)へ侵攻し、冀州刺史の王斌を殺した。王浚は自身で冀州を領した。詔で車騎将軍の王堪と北中郎将の裴憲に兵を率いさせ、石勒の討伐を行った。石勒は兵を率いて戻り、防戦した。魏郡太守の劉矩が郡ごと石勒に降伏した。石勒は黎陽に到着し、裴憲は軍を棄てて淮南(安徽省中部もしくは淮水の南)へ逃げた。王堪は後退して倉垣(河南省開封市祥符区にあった城)を保持した。

12月、劉淵は陳留王の劉歓楽を太傅とし、楚王の劉聡を司徒とし、江都王の劉延年を大司空とした。都護大將軍で曲陽王の劉賢と征北大將軍の劉霊、安北將軍の趙固、平北將軍の王桑を派遣し、東の内黄(河南省安陽市内黄県)に駐屯させた。王弥は、左長史の曹嶷を安東将軍として東の青州を巡らせ、王弥の家族を迎えるよう上表した。劉淵はこれを許した。

310年
1月、劉淵は単徴(氐族の有力者)の娘を皇后に立て、梁王の劉和を皇太子とした。息子の劉义を北海王に封じ、長楽王の劉洋を大司馬とした。
漢の鎮東大将軍である石勒は黄河を渡って白馬を抜き、王弥は兵3万で石勒と合流し、共に徐州・豫州・兗州へ侵攻した。

2月、石勒は鄄城を襲って兗州刺史の袁孚を殺し、ついに倉垣城を抜いて王堪を殺した。また黄河を北へ渡り、冀州諸郡を攻めた。民で石勒に従う者は9万余人となった。
太傅の司馬越は、建威将軍で呉興(浙江省湖州市)出身の錢璯と揚州刺史の王敦を召し出した。錢璯は謀反を理由に王敦の誅殺を謀ったため、王敦は建業に逃げ、琅邪王の司馬睿に告げた。錢璯はついに離反し、陽羨(江蘇省無錫市宜興市)へ侵攻した。司馬睿は将軍の郭逸らを錢璯討伐のため派遣した。周玘は郷里を糾合し、郭逸らと共に錢璯を討ち、これを斬った。周玘は三たび江南を定めた(石冰・陳敏・錢璯)。司馬睿は周玘を呉興太守とし、また周玘の郷里に義興郡を置き、彼を表彰した。
曹嶷は大梁(河南省開封市)より兵を率いて東に向かった。行く先々で勝利し、ついに東平(山東省済寧市一帯)に勝ち、琅邪(山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる地域)まで進攻した。

4月、王浚の将である祁弘が漢の冀州刺史である劉霊を広宗(河北省邢台市広宗県)で破り、これを殺した。

7月、漢の楚王である劉聡・始安王の劉曜・石勒および安北大将軍の趙国が、河内太守の裴整を懐(河南省焦作市武陟県付近)で包囲した。詔により、征虜将軍の宋抽が懐の救援に向かった。石勒と平北大将軍の王桑は宋抽を迎撃し、これを殺した。河内(河南省北部)の人が裴整を捕えて漢に降伏し、劉淵は裴整を尚書左丞とした。河内の督将である郭默が裴整の残党を収めて、塢主(小規模な城を塢といい、乱世にて民衆の自衛のため設けられた)となった。劉琨は郭默を河内太守とした。
羅尚が巴郡(重慶市および四川省東部)で死んだ。詔により、長沙太守で下邳出身の皮素がこれに代わった。
劉淵は病で臥せた。陳留王の劉歓楽を太宰(実際には太師と思われる、匈奴漢に司馬師の諱を避ける道理がない)とし、長楽王の劉洋を太傅とし、江都王の劉延年を太保とした。楚王の劉聡を大司馬・大単于・並録尚書事とし、単于台は平陽の西に置かれた。斉王の劉裕を大司徒とし、魯王の劉隆を尚書令とし、北海王の劉义を撫軍大将軍・領司隷校尉とし、始安王の劉曜を征討大都督・領単于左輔とし、廷尉の喬智明を冠軍大將軍・領単于右輔とし、光禄大夫の劉殷を尚書左僕射とし、王育を尚書右僕射とし、任顗を吏部尚書とし、朱紀を中書監とし、護軍の馬景を左衛将軍とし、永安王の劉安国を右衛将軍とした。安昌王の劉盛・安邑王の劉欽・西陽王の劉璿は全員が武衛将軍となり、禁軍(天子の宮城を守る近衛軍)を分掌した。
劉淵は太宰の劉歓楽らを禁中に召し寄せ、輔政に関する遺詔を授けた。
劉淵が死んだ。
次期皇帝の劉和は性格が猜忌(ねたましく思って嫌う)で、慈しみに欠けていた。宗正(皇族に関する事務職)の呼延攸は呼延翼(劉淵の舅、劉和の祖父)の息子だったが、劉淵は呼延攸の才能・行状が良くないため、終身宗正から出世させなかった。侍中の劉乘は平素から楚王の劉聡と仲が悪かった。衛尉で西昌王の劉銳は遺命に預かれなかったことを恥じた。彼らは互いに謀って劉和に説いた「先帝は(劉淵)軽重の勢いを考えず、三王(禁軍を率いる劉盛・劉欽・劉璿とする説と、後の文脈から劉裕・劉隆・劉义とする説がある)に内部の強兵を統べさせた。また、大司馬(劉聡)は10万の兵を擁して近郊に駐屯している。陛下は大権を持たず、位のみの存在となっている。早々に計略でこの状況を変える方がよい」
劉和は呼延攸の甥で、呼延攸を深く信任していた。劉和は安昌王の劉盛・安邑王の劉欽らを召し寄せて計画を告げた。劉盛は言った「先帝は梓宮(天子の棺、梓の木で作られた)で殯(もがり、死者を埋葬するまでの安置)にあり、四王(劉淵の四男である劉聡1人を指す説と、劉聡・劉裕・劉隆・劉义とする説がある)に反逆のきざしは無い。ひとたび骨肉の争いを始めたら天下は陛下をなんといおうか。また、大業が始まったばかりなのに、陛下はそしる者の言葉を信じて兄弟を疑ってはいけない。兄弟が信じられないのに、他人の誰を信じるに足るというのか」
呼延攸・劉銳らは怒って言った「今日の議論に、理屈は2つと無い、領軍は何を言うのか」
左右に命じて劉盛へ刃を向けた。劉盛は既に死に、劉欽は恐れて言った「ただ陛下の命令に従う」
劉銳は馬景を率いて単于台の劉聡を攻め、呼延攸は永安王の劉安国を率いて司徒府の劉裕を攻め、劉乘は劉欽を率いて劉隆を攻め、尚書の田密・武衛将軍の劉璿に劉义を攻めさせた。田密・劉璿は劉义の身柄を押さえ、関を斬り破って劉聡に帰順した。劉聡は兵に着甲を命じて敵軍を待った。劉銳は劉聡に備えがあることを知り、馳せ帰って呼延攸・劉乘とともに劉隆・劉裕を攻めた。呼延攸・劉乘は劉安国・劉欽に二心があることを疑い、彼らを殺した。この日のうちに劉裕を斬り、翌日に劉隆を斬った。さらにその翌日、劉聡は西明門を攻めて勝利した。劉銳らは南宮に走り入り、劉聡軍の前鋒もこれに従った。次の日、劉和は光極殿の西室で殺された。劉銳・呼延攸劉乘は捕らえられ、大通りでさらし首となった。
群臣は劉聡が帝位に即くことを請うた。劉聡は劉义が単后(氐の首長である単徴の娘)の子であることから、彼に位を譲った。劉义は泣いて固く請い、劉聡はしばらくしてこれを許して言った「劉义および群公はまさに国難にあるという理由で殷の様式(王位継承が周以降ほど秩序立っていなかったとされる:類例としては周書 崔猷列伝にある「殷道尊尊周道親親」あたりか)を重んじたが、欲深い私には年長であるという理由しかない。国家の事を考えると、あえて辞するわけにもいかない。劉义が年長となるまで待ち、まさに大業を彼に還そう」
ついに劉聡が即位した。
大赦・改元し、単氏を皇太后とし、劉聡の母である張氏を帝太后とした。劉义は皇太弟・領大単于・大司徒とした。劉聡の妻である呼延氏(劉淵の皇后だった呼延氏の従父妹=いとこorおば)を皇后とした。劉聡の息子である劉粲を河内王とし、劉易を河間王とし、劉翼を彭城王とし、劉悝を高平王とした。劉粲を撫軍大将軍・都督中外諸軍事とした。石勒を幷州刺史とし、汲郡公に封じた。
略陽郡臨渭県(甘粛省天水市の東部)の氐族首長である蒲洪(前秦苻氏の祖先)は、強く勇ましく、権謀が多く、氐たちは彼を恐れて服した。劉聡は遣使して蒲洪に挨拶し、平遠将軍を授けた。蒲洪は受けず、護氐校尉・秦州刺史・略陽公を自称した(蒲洪の事業はこれより始まった:秦州刺史→秦)。

9月、劉淵を永光陵に葬った。諡号は光文、廟号は高祖。
雍州の流民が南陽(河南省南陽市付近)に多く居たため、郷里に帰すよう詔書が発せられた。流民は関中が荒廃していることから皆帰還を望まなかった。征南将軍の山簡・南中郎将の杜蕤がそれぞれ兵を派遣して流民を送ろうとし、早々に出発するよう促した。京兆(陝西省西安市付近)の王如はついに壮士たちと密かに結び、山簡・杜蕤軍を夜襲して撃破した。こうして馮翊(陝西省西安市および渭南市一帯)の嚴嶷や京兆の侯脫は各々兵を率いて城や鎮を攻め、令長(県の長官)を殺して王如に呼応した。程なく兵は4-5万となった。王如は自身を大将軍・領司雍二州牧と号し、漢の藩国を称した。

10月、漢の河内王である劉粲、始安王の劉曜および王弥が兵4万を率いて洛陽に侵攻した。石勒は騎兵2万を率いて大陽で劉粲と合流し、晋の監軍である裴邈を澠池で破った。ついに長躯して洛川(洛水=洛陽の南を流れる黄河支流or 陝西省延安市洛川県)に入った。劉粲は轘轅を出て、梁・陳・汝・潁(いずれも河南エリア)の間で掠奪を行った。石勒は成皋関(虎牢関の別名が有名、河南省鄭州市滎陽市汜水鎮に置かれた関所)に進出した。石勒は陳留太守の王讚を倉垣で包囲したが、王讚に敗れ、後退して文石津(河南省鶴壁市浚県にあった黄河の渡し場)に駐屯した。
劉琨は自ら兵を率いて劉虎(鉄弗部)および白部鮮卑を討伐した。また、遣使してへりくだった言葉と厚い礼で鮮卑の拓拔猗盧を説き、兵を請うた。拓拔猗盧は弟拓拔弗の息子である拓拔鬱律に騎兵2万を授け、劉琨を助けさせた。ついに劉虎・白部を破り、その兵営をほふった。劉琨と拓拔猗盧は義兄弟の契りを結んだ。拓拔猗盧を大単于とし、代郡(河北省蔚県)に封じて代公とするよう劉琨は上表した。当時代郡は幽州に属し、幽州を管轄する王浚は代郡への封公を許さず、派兵して拓拔猗盧を攻撃した。拓拔猗盧は王浚軍に抗戦し撃破した。王浚はこれ以降劉琨と不仲になった。
拓拔猗盧は封邑(代郡)が自国からかけ離れ、民同士の接点も無いことから、部落1万余家を率いて雲中(内モンゴル自治区フフホト市一帯)から鴈門(山西省北部)に入り、劉琨に従って陘北の地(胡三省註では石陘関の北とあるが、その石陘関が分からなかった;太行八陘の北でも矛盾はしないが)を求めた。劉琨は拓拔猗盧を制することが出来ず、また外援勢力として頼みにしたい気持ちもあったので、樓煩・馬邑・陰館・繁畤・崞の5県(いずれも鴈門郡に属する)に元々居た民を陘南へ移し、その地を拓拔猗盧に与えた。これより拓拔猗盧はますます盛んになった。
劉琨は太傅司馬越に遣使し、共に劉聡・石勒を討つよう出兵を請うた。司馬越は苟晞および豫州刺史の馮嵩を忌んでおり、後の患いとなるのを恐れて許可しなかった。劉琨は拓拔猗盧の兵に謝して帰国させた。
劉虎は残兵を収容して黄河を西に渡り、朔方(内モンゴル自治区オルドス市とバヤンノール市にまたがる地域)の肆盧川(現在地を同定できず)を居所とした。劉聡は劉虎が宗室であることから樓煩公に封じた。
劉琨を平北将軍とし、王浚を司空とし、鮮卑の段務勿塵を大単于に進めた。
洛陽の食糧不足は日ごとに悪化し、司馬越は遣使し羽檄で天下の兵を徴発し、洛陽の救援に入らせようとした。皇帝司馬熾は使者に言った「私のために四征将軍・四鎮将軍たちを説得してほしい。今日ならまだ救援できるが、後になると及ばないだろう」
ところが到着する兵は居なかった。征南将軍の山簡は督護の王萬に兵を授けて救援に向かわせ、その軍は涅陽(河南省南陽市鎮平県)で王如に敗れた。王如はついに沔、漢の地(漢水流域)で大いに掠奪して、進軍し襄陽へ迫った。山簡は嬰城自守(城墻に頼って堅守する行為)した。荊州刺史の王澄は自ら兵を率いて洛陽の救援を望み、沶口(湖北省襄陽市宜城市にある河口)に到着したが、山簡の敗勢を聞くと、兵は散じ帰った。
朝議にて多くが難を逃れるための遷都を欲したが、王衍は不可とし、車や牛を売って民衆を安心させた(上層部が逃亡の用意をしていたら民衆は恐慌をきたす)。山簡は嚴嶷に迫られて、襄陽より移って夏口に駐屯した。
石勒は兵を率いて黄河を渡り、まさに南陽へ向かおうとした。王如、侯脫、嚴嶷らはこれを聞くと、襄城(河南省許昌市襄城県)へ兵1万を派遣し、石勒を阻ませた。石勒はこれを攻撃し、その兵をことごとく捕らえ、宛(河南省南陽市宛城区)の北まで進軍した。この時、侯脫は宛に籠り、王如は穣(河南省南陽市鄧州市)に籠っていた。王如は、平素から侯脫との協調性を欠いており、石勒に遣使のうえで多くの賄賂を送り、義兄弟の契りを結び、石勒に説いて侯脫を攻撃させた。石勒は宛を攻め、これに勝った。嚴嶷は兵を率いて宛の救援にあたったが、及ばず降った。石勒は侯脫を斬り、嚴嶷を捕えて平陽に送り、彼らの兵をことごとく併呑した。ついに南の襄陽を攻略し、江西(現在の江西省ではなく、長江の西を意味すると思われる)の塁壁30余りを攻め抜いた。石勒は帰って襄城に向かったが、王如が弟の王璃に石勒を襲わせた。石勒は迎え撃ってこれを滅ぼすと、再び江西に駐屯した。
司馬越は既に王延らを殺しており、衆望を大いに失っていた。また胡族の攻撃がますます盛んであり、内心不安だった。軍服で宮中に入ると、石勒を討伐するため出鎮して兗州・豫州の兵を集めたいと請うた。司馬熾は言った「いま胡の兵が京城の郊外まで迫り、人々は動揺している。朝廷・社稷はあなた頼みだ。どうして遠方に出て根本を孤立させるというのか」
司馬越は答えて言った「私が出て、幸いにして賊を破れば、国威は振るうだろう。坐して待てばますます困窮するのだ」

11月、司馬越は武装兵4万を率いて許昌へ向かった。妃の裴氏・世子(あとつぎの子)の司馬毗および龍驤将軍の李惲と右衛將軍の何倫を洛陽の守備に残し、宮室・省庁の防衛・巡察を行った。潘滔を河南尹とし留守中の物事を総攬させた。司馬越は上表して行台(尚書省の出先機関)を自身に従わせた。太尉の王衍を軍司とし、朝廷の賢者や名族をことごとく副官とした。名将や強兵はみな司馬越の軍府に編入された。こうして宮室・省庁はまた守衛が不足し、荒廃・飢饉は日ごとに悪化した。殿中では死人が重なるように横たわり、盗賊が横行した。役所や軍営は塹壕を掘って自衛した。司馬越は東へ向かって項(陳郡項県=河南省周口市項城市か)に駐屯し、馮嵩を左司馬とし、自身は豫州牧を領した。
竟陵王の司馬楙は、兵を率いて何倫を襲ったが勝てなかったと司馬熾に報告してきた。司馬熾は司馬楙の罪をつまびらかにしたが、司馬楙は逃げて罪を免れた。
揚州都督の周馥は洛陽が孤立し危ういため、上書して寿春への遷都を要請した。周馥が司馬越を介さず直接司馬熾へ上書したため、司馬越は大層怒り、周馥と淮南太守の裴碩を召した。周馥は行くことを承知せず、裴碩に兵を授けて先に進むよう命令した。裴碩は司馬越の密命を受けたと詐称して周馥を襲ったが、周馥に敗れて後退し、東城(安徽省滁州市定遠県)を保った。
詔で張軌を鎮西将軍、都督隴右諸軍事に昇進させた。光祿大夫の傅祗と太常の摯虞は張軌に書を送り、洛陽が飢えて乏しいことを伝えた。張軌は参軍の杜勳を派遣し、馬500匹と毛織物5万匹を献上した。

12月、かつて司馬熾は、王弥と石勒が首都圏に迫ったため、苟晞に州郡を率いてその討伐にあたるよう詔していた。おりしも曹嶷が琅邪郡を抜き、北にむかって斉の地を収めた。兵の勢いは甚だ盛んで、苟純は城を閉じて守りに徹した。苟晞は救援のため青州に帰り、曹嶷と連戦してこれを撃破した。
劉聡は席次を越えて皇帝に立ったことから、その嫡兄である劉恭(同母兄)を忌んでいた。劉恭が寝ているときに、壁の間の穴から彼を刺殺した。
漢の太后である単氏が死んだ。劉聡の母である張氏が皇太后となった。単氏は若くて容姿に優れ、劉聡はしばしば彼女と通じていた。皇太弟の劉义がしばしばこれに言及したため、単氏は恥じて怨み怒って死んだ。劉义への寵愛はこれより次第に衰えたが、単氏の子であるが故に、未だ皇太弟を廃されずにいた。呼延后は劉聡に言った「父が死ねば子が継ぐのは、古今の常道である。陛下は高祖(劉淵)の業を承けているが、太弟が何をしたというのか。陛下、百年後に劉粲の兄弟(劉聡の息子達)は必ず断種している」
劉聡は言った「その通り、私もようやくそのことを考えだした」
呼延氏は言った「時間が経てば変化が生まれる。太弟が劉粲兄弟の成長を見れば、必ず不安な気持ちを抱く。万一小人がその間隙に介入すれば、今日にでも禍が起こらないとは言えない」
劉聡は内心で納得した。
劉义の舅である光祿大夫の単沖は泣いて劉义に言った「疎族では親族の間に入ることはできない。主上(劉聡)の意向は河内王(劉粲)にあり、殿下はどうして難を避けようとしないのか」
劉义は言った「河瑞(劉淵の年号)の末に、主上は自ら嫡庶の分を考え、大位を私に譲るとした。私は主上が年長であることから、彼を推戴した。天下は高祖の天下である(劉淵の直系であることが大事という意)、兄が死んで弟が継ぐことに何の不具合があるのか。劉粲兄弟は既に成長しているのに、今日もなお皇太弟でいるのだ。また、子と弟の間にどれほど親疎の隔たりがあるというのか。主上がそのようなことを考えるものか」

311年
1月、苟晞は曹嶷に敗れ、城を棄てて高平(山東省済寧市微山県)に逃げた。
石勒は長江・漢水周囲に割拠することを考慮したが、参軍都尉の張賓が不可とした。ちょうど軍中は飢えと疫病により死者が大半となったため、沔水(漢水の古名、もしくは漢水の上流部分)を渡って江夏(湖北省武漢市新洲区一帯)に侵攻し、これを抜いた。
裴碩は琅邪王司馬睿に救援を求め、司馬睿は揚威将軍の甘卓を派遣して寿春の周馥を攻めた。周馥の軍は潰え、項に逃げた。豫州都督・新蔡王の司馬確(司馬騰の子)が周馥を捕え、周馥は憂憤して死んだ。
揚州刺史の劉陶が死んだ。司馬睿は安東軍諮祭酒の王敦を揚州刺史とし、都督征討諸軍事を加えた。

2月、石勒は新蔡(河南省駐馬店市新蔡県)を攻め、新蔡王の司馬確を南頓(河南省周口市項城市)で殺した(司馬確の諡号は荘)。進軍して許昌を抜き、平東将軍の王康を殺した。
東海王の司馬越(諡号は孝献)は苟晞と仲が悪かった。河南尹の潘滔や尚書の劉望らも、司馬越に追従して苟晞をそしった。苟晞は怒って上表し潘滔らの首を求め、公然と言った「司馬元超(司馬越の字は元超)は宰相となりながら公平でなく、天下を乱している。苟道将(苟晞の字は道将)は、どうして司馬越の不義を見過ごせようか」
こうして諸州に檄文を飛ばし、自身の功績と司馬越の罪状をのべた。皇帝司馬熾もまた、司馬越の専権や詔書・勅命への度重なる違反行為を憎んでいた。司馬越は将士の何倫らを皇帝のそばに留め、彼らは公卿への略奪行為や公主への性的暴行を行っていた。司馬熾は密かに苟晞へ手詔(皇帝自筆の詔、中書省を通して発行する正式な手続きだと司馬越に察知される可能性が高い)を与え、司馬越を討伐させた。苟晞は司馬熾と頻繁な文書の往来があった。苟晞と司馬熾の連絡を疑った司馬越は成皋関周囲に騎兵を巡回させ、結果として苟晞の使者と詔書を得た。こうして苟晞の罪状を記した檄文を下し、従事中郎の楊瑁を兗州刺史とし、徐州刺史の裴盾と共に苟晞を討たせた。苟晞は騎兵を派遣して潘滔を捕えようとしたが、潘滔は夜に逃げて免れた。尚書の劉曾と侍中の程延は、苟晞に捕らえられて斬られた。司馬越は憂憤して病となり、後事を王衍に託した。

3月、司馬越は項で死んだ。秘して喪を発さなかった。人々は王衍を元帥に推したが、王衍はあえて受けず、襄陽王の司馬範(司馬瑋の子)にゆずった。司馬範もまた受けなかった。王衍らは司馬越の喪を行い、葬儀のため東海郡へ帰ろうとした。何倫・李惲らは司馬越の死亡を聞くと、裴妃(司馬越の妻)および世子(司馬越の嗣子)の司馬毗を奉じて洛陽から東へ逃げた。城中の士民は争うようにこれに従った。司馬熾は司馬越を追って県王に貶め(東海郡王からの降格)、苟晞を大将軍・大都督・督青徐兗豫荊揚六州諸軍事とした。

4月、石勒は軽騎を率いて司馬越の喪を追い、苦県(河南省周口市鹿邑県)の寧平城で追いついた。晋の兵は大敗し、騎兵による包囲の中で矢を射かけられた。晋の将士10余万人がお互い踏みあうこと山のようであり、免れた者は皆無だった。太尉の王衍、襄陽王の司馬範、任城王の司馬済、武陵王の司馬澹(諡号は荘)、西河王の司馬喜、梁王の司馬禧(諡号は懐)、斉王の司馬超、吏部尚書の劉望、廷尉の諸葛銓、豫州刺史の劉喬、太傅長史の庾敳らが捕えられた。彼らは幕下に座らされ、晋が敗れた理由を問われた。王衍は敗北の理由をつぶさに述べ、自分の計画したものではないと言った。また、若い頃から宦情(仕官の志)はなく、世事に預かってこなかったと言った。さらに、石勒へ尊号(皇帝位)を称するよう勧め、自身を免ずるようこいねがった。石勒は言った「君は若い頃から登朝し、名声は四海をおおっていた。どの口で宦情が無いと言うか。天下を破壊したのが、君でなくして誰だというのか」
左右に命じて王衍を退出させた。人々は死を恐れ、自ら陳述するところ多し。独り襄陽王の司馬範は厳かな顔つきで周囲を振り返って言った「今日の事態をなぜまた揉めさせようというのか」
石勒は孔萇に言った「私は天下を行くこと多いが、未だかつてこのような人に会ったことがない、生かすべきではないか」
孔萇は言った「彼らはみな晋の王公であり、我々の手で用いることは果たせないだろう」
石勒は言った「そうではあるが、刃を加えずに処理する必要がある」
人に命じ、夜に垣を押すことで司馬範を圧殺した。
石勒は司馬越の棺を裂き、その遺体を焼いて言った「天下を乱したのはこの人である、私は天下のためこれに報いたい、故にその骨を焼いて天下に告げる」
何倫らは洧倉(許昌の東方にあったようだ)に到着し、石勒と遭遇して戦い、敗れた。東海の世子(司馬毗)と宗室48王はみな石勒に殺された。何倫は下邳に逃げ、李惲は広宗に逃げた。裴妃は人さらいにあって売られ、しばらくしてから長江を渡ることができた。かつて、司馬睿が建業に出鎮したのは裴妃の意向だった。故に司馬睿は裴妃に恩を感じて厚く慰撫し、息子の司馬沖に司馬越の後を継がせた。
漢の趙固・王桑が裴盾を攻め殺した。

5月、太子太傅の傅祗は司徒となり、尚書令の荀藩は司空となり、王浚は大司馬・侍中・大都督・督幽冀諸軍事となり、南陽王の司馬模は太尉・大都督となり、張軌は車騎大将軍となり、司馬睿は鎮東大将軍・兼督揚江湘交広五州諸軍事となった。
かつて、南陽王の司馬模が関中の安撫に失敗したため、司馬越は司馬模を司空として召還した。将軍の淳于定は司馬模に召還に応じないよう説き、司馬模はそれに従った。上表して世子の司馬保を平西中郎将として派遣し、上邽(甘粛省天水市秦州区)に鎮させようとしたが、秦州刺史の裴苞がこれを拒んだ。司馬模は帳下都尉の陳安に裴苞を攻めさせた。裴苞は安定(寧夏回族自治区と甘粛省にまたがるエリア)に逃げ、安定太守の賈疋は裴苞を受け入れた。
苟晞は上表して倉垣への遷都を請い、従事中郎の劉會に船数十艘・宿衛500人・穀物千斛を与えて派遣した。司馬熾はこれに従おうとしたが、公卿はなおためらい、左右は資財に執着し、ついに果たせなかった。既に洛陽は餓えて困苦し、人々はお互いを食べあい、百官で流亡する者は8-9割に及んだ。司馬熾は公卿を召集して会議し、行こうとしたが護衛や侍従が揃わなかった。司馬熾は手をこまねいて嘆いた「車・輿が無いのだがどうしよう」
傅祗に朝士数十人を添えて河陰(河南省鄭州市滎陽市の東北)へ派遣し、舟を調達させた。司馬熾は徒歩で西掖門を出て銅駝街に至った(洛陽城の構造は、向井佑介「曹魏洛陽の宮城をめぐる近年の議論」の図2を参照のこと)が、強盗の掠奪を受け、進めず帰った。度支校尉で東郡(河南省濮陽市および山東省聊城市にまたがる地域)出身の魏浚は、流民数百家を率いて河陰の要害を保ち、ちょうど強奪した食糧を得て、朝廷に献上した。司馬熾は魏浚を揚威將軍・平陽太守とし、度支校尉は元のままとした。
劉聡は前軍大将軍の呼延晏に将兵2万7千を授け、洛陽に侵攻させ、この頃河南に及んだ。晋の兵は前後で12敗し、死者は3万余人。始安王の劉曜・王弥・石勒はみな兵を率いて呼延晏との合流を図ったがまだ到着しなかった。呼延晏は輜重を張方の故塁に留め、先発隊が洛陽に到着し、平昌門を攻め、これに勝った。ついに東陽門と諸々の役所を焼いた。

6月、呼延晏は援軍が到着しないため、掠奪して去った。司馬熾は洛水に船を用意して、東へ逃げようとしたが、呼延晏はその船をことごとく焼いた。荀藩と弟で光禄大夫の荀組が轘轅へ逃げた。王弥が宣陽門に到着し、劉曜が西明門に到着した。王弥・呼延晏が宣陽門で勝ち、南宮に入った。太極前殿に上がり、ほしいままに大規模な掠奪を行い、宮人・珍宝を収めた。司馬熾は華林園の門から出て長安に逃げようとしたが、漢の兵はこれを追って捕らえ、端門に幽閉した。劉曜は西明門から入って武庫に駐屯した。劉曜は太子の司馬詮、呉王の司馬晏(諡号は孝)、竟陵王の司馬楙、尚書右僕射の曹馥、尚書の閭丘沖、河南尹の劉默らを殺し、士民の使者は三万余人だった。諸陵を発掘し、宮廟を焼き、官府はみな灰燼に帰した。劉曜は恵帝羊皇后を納め、司馬熾と六璽(伝国璽か)を平陽に移した。石勒は兵を率いて轘轅を出て、許昌に駐屯した。光禄大夫の劉蕃、尚書の盧志は幷州(劉琨の許、劉蕃は劉琨の父)に逃げた。
劉聡は大赦・改元した。司馬熾を特進・左光禄大夫とし、平阿公に封じた。侍中の庾珉・王儁を光禄大夫とした。
かつて、始安王の劉曜は、王弥が自分を待たずに洛陽へ先に入ったため、王弥を恨んでいた。王弥は劉曜に言った「洛陽は天下の中心で、山河が四方を塞ぎ、城池・宮室は間に合わせの修築・造営が不要である。主上(劉聡)に平陽からここへ遷都するよう申し上げるのが良い」
劉曜は天下が未だ定まらず、洛陽は四面に敵を受けることから守れないと考え、王弥の策を用いず、書面を焼いた。王弥は罵って言った「屠各(匈奴の中心部族)の子のくせに、帝王になりたいという意志があるのか」
こうして王弥は劉曜と仲違いし、兵を率いて東へ向かい項関(陳郡項県にあった関)に駐屯した。さきの司隷校尉だった劉暾が王弥に説いて言った「いま九州(中華全域、かつて9つの州に分けられていた)は沸きかえるように乱れ、群雄が競争している。将軍(征東大将軍の王弥)は漢に不世出の功を立てながら、始安王(劉曜)と勢力を削り合うような状況を受け入れてはならない。東の本州(王弥の本貫地は青州東萊国、爵位は東萊公)に向かって、天下の形勢をおもむろに観るのが良い。上は四海の混一をなし、下は三方への対峙で失策をしないのが上策である」
王弥は心から納得した。
司徒の傅祗は河陰に行台(尚書省の出先機関)を建て、司空の荀藩は陽城(山西省晋城市陽城県ではなく河南省鄭州市登封市か)におり、河南尹の華薈(華歆の曾孫)は成皋におり、汝陰太守で平陽出身の李矩は彼らのために建物を立て、食糧を運んで与えた。
荀藩と弟の荀組、族子で中護軍の荀崧、華薈と弟で中領軍の華恒は、密(河南省鄭州市新密市)に行台を建て、琅邪王の司馬睿を盟主に推す檄文を四方へ伝えた。荀藩は承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命すること)して荀崧を襄城太守とし、李矩を滎陽太守とし、さきの冠軍将軍だった河南の褚翜を梁国内史とした。揚威将軍の魏浚は洛北の石梁塢(塢=とりで:塢主という表現は史書に頻出する)に駐屯し、劉琨は承制して魏浚を河南尹に仮に任じた。魏浚は荀藩のところへ行き、軍事について諮問・謀議し、荀藩は李矩の同席を求めて迎え、李矩は夜に赴いた。李矩の属官は言った「魏浚は信じられない、夜に行くのは良くない」
李矩は言った「同じ心を持つ忠臣であり、なんの疑うところがあろうか」
ついに行き、ともに快く結んだあと帰った。魏浚の族子である魏該は人を集めて一泉塢にこもり、荀藩は魏該を武威将軍とした。
豫章王の司馬端は太子司馬詮の弟であり、東の倉垣へ逃れた。苟晞は群官を率いて司馬端を皇太子に奉じ、行台を置いた。司馬端は承制して苟晞を太子太傅・都督中外諸軍事・録尚書事とし、倉垣より遷って蒙城(河南省商丘市)に駐屯した。
撫軍将軍で秦王の司馬業は、呉孝王(司馬晏)の子で、荀藩の甥だった。年は12歳で、南に向かい密に逃げた。荀藩らは司馬業を奉じ、南の許昌に赴いた。さきの豫州刺史で天水出身の閻鼎は、西州の流民数千人を密に集め、郷里への帰還を欲していた。閻鼎が人を擁する才に長けているため、荀藩は閻鼎を豫州刺史に起用し、中書令の李絚・司徒左長史で彭城(江蘇省徐州市および安徽省淮北市にまたがる地域)出身の劉疇・鎮軍長史の周顗・司馬の李述らを閻鼎の佐官とした。
当時海内は大乱だが、江東だけは安定しており、中国の士民で乱を避けるため長江を南に渡る者が多数現れた。鎮東司馬の王導は琅邪王の司馬睿へ、避難民から賢俊を収め共に事業に当たるよう説いた。司馬睿はこれに従って掾属(属官)を100余人抱え、当時の人らは106掾と呼んだ。さきの潁川太守で勃海の刁協を軍諮祭酒とし、さきの東海太守の王承・広陵相の卞壼を従事中郎とし、江寧令の諸葛恢・歴陽参軍で陳国の陳頵を行参軍とし、さきの太傅掾である庾亮を西曹掾とした。
江州刺史の華軼(華歆の曾孫)は、朝廷の命を受けたとして、司馬睿の配下となりながら教令の多くを受けなかった。郡県の多くがこの行為を諫めたが、華軼は言った「私は詔書が見たいだけだ」
司馬睿は荀藩の檄を受け、承制して役人の配置を行ったが、華軼と豫州刺史の裴憲は従わなかった。司馬睿は揚州刺史の王敦・歴陽内史の甘卓・揚烈将軍で廬江出身の周訪を派遣し、兵を合わせて華軼を撃った。華軼軍が敗れ、安成(江西省吉安市安福県付近)に逃げたが、周訪は追撃の上で華軼とその5子を斬った。裴憲は幽州(王浚のもと)に逃げた。司馬睿は甘卓を湘州刺史とし、周訪を尋陽太守とし、揚武将軍の陶侃を武昌太守とした。

7月、王浚は壇を設けて告類(天と五帝に報告する祭典)し、皇太子を立てて天下に布告し、詔を受けたと称して承制・封爵を行い、百官を設置し、四征・四鎮将軍を配置した。荀藩を太尉とし、司馬睿を大将軍とし、王浚自身は尚書令となり、裴憲と王浚の婿の棗嵩を尚書とし、田徽を兗州刺史とし、李惲を青州刺史とした。
南陽王の司馬模は牙門の趙染に蒲坂(山西省運城市永済市、黄河の渡河地点で山西の漢から長安を守るための要衝)を守備させていた。趙染は馮翊太守の地位を求めたが得られず、怒った末に兵を率いて漢へ降った。劉聡は趙染を平西将軍にした。

8月、劉聡は趙染と安西将軍の劉雅に騎兵2万を授けて長安の司馬模を攻めさせ、河内王の劉粲と始安王の劉曜が大軍を率いてこれに続いた。趙染は司馬模の兵を潼関で破り、長駆して下邽(陝西省渭南市)に到着した。涼州の将である北宮純は、長安より兵を率いて漢に降った。漢の兵は長安を囲み、司馬模は淳于定に出撃させたが敗北した。司馬模は倉庫の欠乏と兵卒の離散から、ついに漢に投降した。趙染は司馬模を河内王の劉粲に送った。

9月、劉粲が司馬模を殺した。
関西で飢饉があり、白骨が野をおおった、士民の生存者は100人中1-2もなかった。
劉聡は始安王の劉曜を車騎大将軍・雍州牧とし、中山王に改封し、長安の鎮守とした。王弥を大将軍とし、斉公に封じた。
苟晞はおごって粗暴で、さきの遼西太守である閻亨がしばしば苟晞を諫めたが、苟晞は閻亨を殺した。従事中郎の明預は、病のなか車を乗り入れて諫めた。苟晞は怒って言った「私は閻亨を殺した、人事に関することor他人ごとであるのに、病気のなか輿で私を罵るのか」
明預は言った「殿は礼をもって私を待ち、故に私は礼をもって尽くした。いま殿は私に怒っているが、遠近の者達の殿への怒りがどれほどか分かっているか。桀は天子の身でありながらなお狂暴だったため亡びたのだ。まして人臣であれば尚更である。願わくは殿、その怒りを置いて、私の言葉に思いを致すよう」
苟晞は従わなかった。こうして、飢饉と疫病もあり、人心は苟晞を離れ彼を恨んだ。
石勒は王讚を陽夏(河南省周口市太康県)で攻め、これを捕えた。ついに蒙城を襲い、苟晞と豫章王の司馬端を捕えた。石勒は苟晞の首に鎖をかけ、左司馬とした。劉聡は石勒を幽州牧(王浚の領域、次に倒すべき相手を示した)とした。
王弥と石勒は外面では親しいが、内心憎みあっていた。劉暾は王弥に対し、曹嶷の兵を召集して石勒を図るよう説いた。王弥は書をしたため、劉暾を使者として曹嶷を召集し、また石勒にも迎えを出し、共に青州へ向かうよう手はずした。劉暾は東阿(山東省聊城市東阿県)で石勒の巡回騎兵に捕らえられた。石勒は密かに劉暾を殺したが、王弥はまだ知らなかった。ちょうど王弥の将である徐邈・高梁が兵を率いて去っており、王弥の兵は次第に衰えていた。王弥は石勒が苟晞を捕えたことを聞き、内心悔しかったが、石勒を賀する書を送った「公(石勒)は苟晞を獲て彼を用いている、なんと神的なことか。苟晞を公の左腕とし、私を公の右腕とすれば天下を定めるに十分である」
石勒は張賓に言った「王弥どのは位が重いのに言葉が卑しい、これは私を図ろうとしているに違いない」
張賓は王弥がやや衰えているのに乗じて、王弥を誘ってこれを取るよう石勒に勧めた。当時、石勒は乞活の陳午と蓬関(河南省開封市の東北にあったとされる関)で攻め合い、王弥も劉瑞と対峙し切迫していた。王弥は石勒に救援を求めたが、石勒は未だ許可していなかった。張賓は言った「公(石勒)は王弥どのの便りを得られないと常に恐れていたが、いま天は王弥どのを我々に授けた。陳午は青二才で恐るるに足らず、王弥どのは人傑で早く除くべきである」
石勒は兵を率いて劉瑞を攻撃し、これを斬った。王弥は大層喜び、石勒が実際には自分を慕っていたと言い、再び疑うことはなかった。

10月、石勒は王弥に己吾(河南省商丘市寧陵県)で酒宴を行うよう請うた。王弥はまさに向かおうとし、長史の張嵩が諫めたが聴かなかった。酒宴がたけなわになると、石勒自ら王弥を斬り、王弥の兵を併合し、王弥の反逆を称して劉聡に上表した。劉聡は大いに怒り、石勒へ使者を送って責めた「思うままに公輔(三公・輔相)を害するなど、君主をないがしろにする気持ちがあるのだ」
それでもなお、石勒を鎮東大将軍・督幷幽二州諸軍事・領幷州刺史とし、その心を慰めた。
苟晞・王讚は、密かに石勒への叛逆を謀り、石勒は彼らを殺した。苟晞の弟である苟純も殺された。
石勒は兵を率いて豫州の諸郡から掠奪を行い、長江に臨みながら帰り、葛陂(安徽省阜陽市臨泉県付近か)に駐屯した。
かつて、石勒は人さらいにあって売られ、母の王氏も行方不明になっていた。劉琨が王氏の身柄を得て、その従子(いとこ)の石虎と併せて石勒に送った。石勒に宛てた書にはこうあった「将軍(鎮東大将軍の石勒)の用兵は神のごとく、向かうところ敵なし。ところが天下にさすらい足場を定めることが出来ず、百戦百勝しながら尺寸の功も無い。思うに主を得て義兵となるべきところを、逆に付いて賊衆となっているからである。成功と失敗の命数は呼吸に似ており、吹けば寒く吐けば温かい。いま侍中・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・襄城郡公を授ける。将軍よ、受けたまえ」
石勒は書で報じた「功については道が異なるため、腐れ儒者の知るところではない。君はまさに本朝(晋)へ節操を示し、私は戎として生まれた苦難により力を振るうのだ」
劉琨に名馬・珍宝を送り、その使者に礼を厚く謝しつつも叙任を断った。
このとき石虎は17歳で、残忍さは計り知れず、軍中で腫れ物扱いされていた。石勒は母に言った「この子(石虎)は凶暴無頼なので、軍人に彼を殺させようと思う。声名は惜しむべきだが、彼を除いておくに越したことはない」
母は言った「力のある牛が子牛の内は、よく車を壊すものだ。お前は少し我慢するだけだ」
石虎が成長すると、弓馬に長け、勇は当時において冠絶した。石勒は石虎を征虜将軍とし、城邑を屠るごとに、残るものは少なかった。しかしその軍は厳格だが煩わしさがなく、あえて軍令を犯す者は無かった。攻撃・討伐の指示を授けても向かうところ敵なし。石勒もついに石虎を寵任するようになった。
石勒は滎陽太守の李矩を攻めたが、李矩は石勒軍を撃退した。
かつて、南陽王の司馬模は従事中郎の索綝を馮翊太守とした。司馬模が死ぬと、索綝は安夷護軍で金城(甘粛省から青海省にかけてのエリア)出身の麴允・頻陽令の梁肅とともに安定へ逃げた。当時の安定太守である賈疋と諸々の氐・羌族は漢に任子(子弟を官職に付ける、人質でもある)を送っていたが、索綝らは陰密(甘粛省平涼市霊台県)で彼らと会い、連れだって臨涇(甘粛省慶陽市鎮原県)に帰った。索綝らは賈疋と晋室の復興を謀り、賈疋はこれに従った。こうして皆で推して賈疋を平西将軍とし、兵5万を率いて長安に向かった。雍州刺史の麴特、新平太守の竺恢は、いずれも漢に降っておらず、賈疋の挙兵を聞くと、扶風太守の梁綜とともに兵10万を率いてこれに合流した。漢の河内王である劉粲は新豊(陝西省西安市臨潼区)に居り、将の劉雅・趙染に新平(陝西省咸陽市一帯)を攻めさせたが勝てなかった。索綝は新平を救援し、大小100戦し、劉雅らは敗退した。中山王の劉曜は賈疋らと黄丘(陝西省咸陽市涇陽県付近の丘陵)で戦ったが、劉曜軍は大敗した。賈疋は漢の梁州刺史である彭蕩仲(盧水胡=北涼の系譜とされる)を襲い、これを殺した。麴特らは劉粲を新豊で撃破し、劉粲は平陽へ帰った。こうして賈疋らの兵は勢い大いに振るい、関西の胡・晋はいっせいに彼らへ響き応じた。
閻鼎は秦王の司馬業を奉じて関中へ入り、長安に拠って四方へ号令することを欲した。河陰令の傅暢もまた司馬業奉戴を書面で勧め、閻鼎は遂行した。荀藩・劉疇・周顗・李述らはみな山東人で、西に行くこと欲さず、途中で逃げ散った。閻鼎は兵を派遣して彼らを追ったが及ばず、李絚らを殺した。閻鼎と司馬業は宛より武関に向かったが、上洛(陕西省商洛市付近)で盗賊に遭い、士卒が敗れ散った。閻鼎らは敗残兵を集めて藍田(陝西省西安市藍田県)に向かい、使者で賈疋に報告し、賈疋は兵を派遣して閻鼎らを迎えた。

12月、賈疋は雍城(陕西省宝鶏市鳳翔区)に入り、梁綜に兵を授けて閻鼎らの護衛に派遣した。
周顗は司馬睿の許に逃げ、司馬睿は周顗を軍諮祭酒とした。さきの騎都尉で譙国の桓彝もまた乱を避けて長江を渡ったが、司馬睿の軟弱ぶりを見て周顗に言った「我らは中央に災いが多いため、安全を求めてこの地に来たが、このように孤立し弱くては何のために長江を渡ったのか」
ところが王導に会い、共に世の事を論じ、退出すると周顗に言った「管夷吾(管仲:仲は字で名が夷吾)と対面した、今後憂えることはない」
諸々の名士が新亭(江蘇省南京市江寧区で長江のほとりに建てられていた)に登って遊宴した。周顗は中座して嘆いて言った「風景は変わらないのに、長江と黄河の違いが目に入ってくる」
こうしてお互いを見て涙を流し合った。王導は顔色を変えて言った「ともに王室のため力を合わせ、神州(中国の美称)を勝って取り戻そうとしている。どうして楚に捕らわれたと見做して向かい合って泣くのか」
人々はみな涙を収めて王導に謝した。
陳頵は王導に書を送った「中華が傾き破れた原因は、まさに才の取り方に失するところがあったからだ。虚名を先にし、実力は後回しにした。人々は浮ついた競争に励み、お互いを推薦しあった。言葉が重い者は先に顕彰し、言葉が軽い者は後に叙任された。こうして波と風がお互いを煽りあい、丘陵が次第に低くなるように晋は衰えた。加えて荘・老の俗習が朝廷を傾け惑わせた。名声を求める者が高雅とされ、政治家は俗人とされた。公職を気にかけることなく、秩序は失墜した。もし遠くを制することを欲するなら、まず近くより始める。いま改張(かつて董仲舒が政治を琴に例えて使った用語)し、信賞必罰とすべき。卓茂(西漢から東漢にかけての政治家)を密県(河南省鄭州市新密市)で抜擢し、朱邑(西漢の政治家)を桐郷(安徽省安慶市桐城市)で顕彰し、しかる後に大業を挙げることができ、中興をこいねがうことができる」
王導はこの提案に従えなかった。
劉琨は招き懐かせることに長けていたが、撫御(治めること)が苦手だった。一日のうち、劉琨に帰順するものは数千だったが、去る者もまた相次いだ。劉琨は子の劉遵を派遣し、代公の拓跋猗盧に兵を請うた。また族人で高陽内史の劉希を兵の召集のため中山(河北省中南部)に派遣した。幽州統括下にあった代郡・上谷郡(北京市と河北省張家口市にまたがるエリア)・広寧郡(河北省張家口市涿鹿県付近)で劉希に帰順する民が多く、兵は3万に達した。王浚は怒り、燕相の胡矩に諸軍を監督させたうえで派遣し、遼西公の段疾陸眷(段務勿塵の息子)とともに劉希を攻めてこれを殺すと、3郡から士女を略奪して去った。拓跋猗盧は子の拓跋六修に兵を授けて劉琨を助けさせ、その軍は新興(山西省北部)の守備にあたった。劉琨の牙門将である邢延が碧石を劉琨に献上し、劉琨は拓跋六修にこれを与えた。拓跋六修は邢延に碧石を再び求めたが得られず、邢延の妻子を捕えた。邢延は怒って兵で拓跋六修を襲い、拓跋六修は逃げた。邢延はついに新興をもって漢に付き、兵で幷州を攻めるよう請うた。

312年
1月、漢の呼延后が死んだ、諡号は武元。
漢の鎮北将軍である靳沖と平北将軍の卜珝が幷州に侵攻し、晋陽を包囲した。
劉聡は司空王育と尚書令任顗の娘を左右の昭儀とし、中軍大将軍である王彰・中書監である范隆・尚書左僕射である馬景の娘はみな夫人とし、尚書右僕射である朱紀の娘は貴妃とし、彼女ら全員に金印と紫綬を与えた。劉聡は太保である劉殷の娘を納れようとしたが、皇太弟の劉义が固く諫めた(同姓の結婚は忌避対象)。劉聡は太宰の劉延年・太傅の劉景に問うたが、みな言った「太保(劉殷)自身が言うところによると劉康公(周定王=姫瑜の弟:姫姓劉氏)の後裔であり、陛下とは起源が異なるので、納れることになんの支障があろうか」
劉聡は喜び、劉殷の2人の娘である劉英・劉娥を左右の貴嬪とし、昭儀の上に位置付けた。また、劉殷の娘と孫の4人を貴人とし、位は貴妃に次いだ。このように劉氏6人を寵愛したことにより後宮は傾き、劉聡が外出することは稀になり、物事は中黄門が奏決した。

2月、石勒は葛陂(安徽省阜陽市臨泉県付近にあったとされる)に堡塁を築き、農を課して舟を造り、まさに建業を攻めようとした。司馬睿は江南の兵を寿春に大集結させ、鎮東長史の紀瞻を揚威将軍とし、諸軍を都督させ石勒を討伐した。ちょうど大雨だった。

3月、雨は止まなかった。石勒は軍中で飢饉・疫病が起って死者は大半となり、晋軍まさに到着しようとしていると聞き、将佐を集めて軍議を行った。右長史の刁膺は、まず司馬睿へお詫びに河北を平定するという証文を送り、司馬睿軍の後退を待ち、その後おもむろに後事を図るよう請うた。石勒は憂いながら長い溜息をした。中堅将軍の夔安は水を避けて高所に向かうよう請い、石勒は言った「将軍はどうして怯えているのか」
孔萇ら30余将は各將で兵を分けて進んで寿春を夜襲し、呉の将頭(司馬睿陣営の司令官である紀瞻か)を斬り、寿春城に籠ってその食糧にありつき、寿春の要衝をもって年内に丹陽(江蘇省鎮江市丹陽市)を破り、江南を平定することを請うた。石勒は笑って言った「これは勇将の計である」
各々に鎧馬1匹を下賜した。張賓を顧みて言った「君の考えはどうか」
張賓は言った「将軍(石勒)は京師(洛陽)を攻め落とし、天子を捕え、王公を殺害し、妃や公主を妻として略奪した。将軍の髪を抜いても将軍の罪を贖うには足りない。どうして晋の臣として奉公できようか。去年すでに王弥を殺しているため、警戒してこちらに来ることもないだろう。いま天は霖雨(長雨)を数百里にわたって降らし、将軍がこの地に留まるべきではないと示した。鄴には三台(銅雀台・金虎台・氷井台)の堅固さがあり、西は平陽に接し、山河は四方を塞ぐ。北に向かって鄴に拠り、もって河北を経営する。河北が既に定まれば、天下で将軍の右に出る者は居ない。晋が寿春を保つのは、将軍の来攻を恐れているのみで、我らが去ったと聞けば自身の保全を喜び、我らを追撃して不利にする暇はない。将軍は輜重を北道より先発させ、自身は大軍を率いて寿春に向かい、輜重が十分遠ざかってから、おもむろに大軍を還すのが良い。進退の地が無いとなんで憂えようか」
石勒は袖を払い髭を打っていった「張君の計、これだ」
刁膺を責めて言った「君はこれまで補佐しあい、共に大功を成さんというに、どうして急に私が降伏するよう勧めたのか。君の策は斬罪に当たる。しかし、平素から君の臆病な性格は知っていたから特別に許す」
刁膺を降格して将軍とし、張賓を右長史に抜擢すると「右侯」と呼んだ。
石勒は兵を率いて葛陂を発し、石虎に騎兵2千を授けて寿春に派遣した。晋の貨物船に遭い、石虎の将士は争うようにこれを取り、こうして紀瞻に敗れた。紀瞻は100里追いかけ、前鋒は石勒軍においついたが、石勒は陣容を連ねて紀瞻軍を待ち受けていた。紀瞻は敢えて撃たず、寿春に引き返した。
劉聡は司馬熾を会稽郡公に封じ、儀同三司を加えた。劉聡は従容として司馬熾に言った「卿(臣下への2人称)がむかし豫章王だったころ、私は王武子(王済の字が武子、王済は太原王氏で王渾の息子にして司馬炎の娘婿)と連れだって卿に初めて会った。王武子は朕(天子の1人称)のことを卿に紹介し、卿は私の名をかなり前から聞いていたと言い、朕にツゲの弓と銀の硯を贈った。卿はそのことを覚えているか」
司馬熾は言った「臣(臣下の1人称、漢の臣と卑下)がどうして忘れましょうや。ただ恨めしいのは龍顔(天子である劉聡)をもっと早く知らなかったことだ」
劉聡は言った「卿の家の骨肉はどうしてこのように殺し合ったのか」
司馬熾は言った「大漢はまさに天に応じ命をうけた。故に陛下のためお互い駆除しあったのだ。これはほとんど天の意であって、人事ではない。もし臣の家が武皇帝(司馬炎)の業をよく奉じ、九族が仲睦まじかったら、陛下はどうして天命を得られたろうか」
劉聡は喜び、小劉貴人(さきに貴人となった4人の劉氏のうちで年少の者とおもわれる)を司馬熾の妻とし、言った「これは名公(かつての天子相手に劉殷を身分の高い貴人とする)の孫である、卿はこれを善く遇せよ」
代公の拓跋猗盧が兵を派遣し晋陽(劉琨)を救援し、漢の兵は敗走した。卜珝の兵が先に逃げ、靳沖は卜珝を勝手に捕えて斬った。劉聡は大いに怒り、使持節を派遣し靳沖を斬った。
劉聡は舅の子で輔漢将軍である張寔(前涼の張寔とは別人)から2人の娘である張徽光・張麗光を貴人に迎えた。これは太后である張氏の意向である。
涼州主簿の馬魴は張軌に説いて言った「出兵するよう命じ、帝室を翼戴するのがよい」
張軌はこれに従って共に秦王(司馬業)を尊輔するよう関中に檄を飛ばし、かつ言った「いま前鋒督護の宋配に步兵騎兵2万を率いさせ、長安に向かわせた。西中郎将の張寔に中軍3万を率いさせ、武威太守の張琠に胡の騎兵2万を率いさせ、相次いで進発する」

4月、征南将軍の山簡が死んだ。
劉聡は息子の劉敷を渤海王、劉驥を済南王、劉鸞を燕王、劉鴻を楚王、劉勱を斉王、劉権を秦王、劉操を魏王、劉持を趙王に封じた。
劉聡は、魚や蟹を提供しなかった理由で、左都水使者で襄陵王の劉攄を斬った。温明・徽光の2殿を作ったが未完成だったので将作大匠で望都公の靳陵を斬った。汾水で漁を観て、日が暮れても帰らなかった。中軍大将軍の王彰が諫めた「この頃陛下の行いを見るに、臣は実に心臓が痛み首の調子が悪い。いま愚民が漢に帰する気持ちはまだ一筋ではなく、晋を思う心はなお盛んである。劉琨は非常に近く、刺客がうじゃうじゃ居る。帝王が軽々しく外出すれば、1人で目的は十分果たせる。願わくは陛下、往来を改めますよう。そうすれば億兆は幸甚なり」
劉聡は大いに怒り、王彰を斬るよう命じた。王夫人(王彰の妻)が叩頭して哀れみを乞うたため、捕えるだけとした。太后の張氏は劉聡の刑罰が度を越しているため、3日断食した。太弟の劉义と単于の劉粲は輿櫬(車付きの棺:死を覚悟して臨む、君主が降伏するときの作法でもある)で切諫した。劉聡は怒って言った「私が桀・紂だというのか、お前らが泣きながら来るということは」
太宰の劉延年、太保の劉殷ら公卿・列侯百余人が、みな冠を脱いで涙を流しながら言った「陛下は功が高く徳が厚く、広い世にあっても比較できる存在は少ない、かつての唐(堯)・虞(舜)と今の陛下だ。しかし、この頃は小さな不具合で王公を斬り、意にたがう直言で大将を捕えた。これらの臣のどこに過失があったのか未だに分からず、ゆえにそれぞれがこの事態を憂え、寝食を忘れている」
劉聡は慨然(怒り嘆く様子)として言った「朕はこのあいだとても酔っていて、そういった命令は本心でなかった。君らがこのことを言うが、朕も過ちがあったとは聞いていない」
各々に帛(絹)百匹を賜り、侍中持節に王彰を赦させて言った「先帝(劉淵)が君を頼ること左右の手のようだった。君は二世(劉淵・劉聡)にわたって著しい勲功があり、朕がそれをあえて忘れようか。この度の過ちについて、君としては水に流してもらいたい。君は心中にある憂国の思いを尽くすことができ、これは朕の望むとことである。いま君を驃騎将軍・定襄郡公に進める。今後不逮(至らないところ)があれば、しばしばこれを正してくれれば幸いだ」
王弥が死んだため、漢の安北将軍・趙固と平北将軍・王桑は石勒に併呑されることを恐れ、兵を率いて平陽に帰ろうとしたが、軍中に食糧が乏しく、士卒はお互い食べあった。こうして䂭磽津(現在地を同定できず、黄河の渡河地点だと思われる)より西に渡った。劉琨は兄の子である劉演を魏郡太守とし、鄴を鎮守させていた。王桑は劉演に迎撃されることを恐れ、長史の臨深を劉琨への人質として差し出した。劉琨は趙固を雍州刺史とし、王桑を豫州刺史とした。
賈疋らが長安を包囲して数か月となり、漢の中山王である劉曜は連戦したが全て敗れ、士女8万余口を駆掠して平陽に逃げた。秦王の司馬業は雍から長安に入った。

5月、劉聡は劉曜を龍驤大将軍・行大司馬に降格させた。劉聡は河内王の劉粲を派遣して傅祗を三渚(河南省洛陽市孟津区付近か)に攻め、右将軍の劉参を派遣して郭默を懐に攻めた。ちょうど傅祗が病没し、城は落ちた。劉粲は傅祗の子孫やその士民2万余戸を平陽に遷した。

6月、劉聡は貴嬪の劉英を皇后に立てたいと思っていた。ところが、張太后は貴人の張徽光の立后を欲し、劉聡はやむを得ずこれを許した。劉英は直ちに死んだ。
漢の大昌公である劉殷が死んだ、諡号は文献(娘の劉英と相次いで死んでいる)。劉殷は相となっても犯顔(君主の威厳を冒すこと)忤旨(意にたがうこと)がなく、一方で事を進めるにあたって補うことが甚だ多かった。劉聡が群臣と政事の議論を行うごとに、劉殷はその是非を示すことはなかった。群臣が退出したあと劉殷は独り留まると、劉聡に条理を明らかにし、望ましいプランを議論し、劉聡はその全てに従った。劉殷は常に子孫を戒めて言った「君主へ仕えるにあたって幾たびか諫言を行わねばならないことがある。凡人でさえその過ちを面と向かって責めてはいけない、万乗(天子)であればなおさらである。幾たびも諫言を行った功というのは犯顔に他ならない。君主の過失を彰かにしないことの方がより優れている」
官位は侍中・太保・録尚書に到達し、剣履上殿(剣を履いたまま上殿する特権)・入朝不趨(皇帝との謁見で小走りが不要となる特権)・乗輿入殿(輿にのったまま入殿する特権)を許された。にもかかわらず、劉殷は公卿との付き合いでは、常に慎み深く謙譲の姿勢を示した。故に驕暴の国(匈奴漢)に居ながら富貴を保つことができ、令名(名声)に失するところなく、寿命を全うすることができた。
劉聰は河間王の劉易を車騎将軍とし、彭城王の劉翼を衛将軍・並びに典兵宿衛とした。高平王の劉悝を征南将軍とし、離石を鎮守させた。済南王の劉驥を征西将軍とし、西平城を築いて(平陽の西に築城)そこに居らせた。魏王の劉操を征東将軍とし、蒲子(山西省臨汾市隰県)を鎮守させた。
石勒は葛陂から北に行ったが、通過する所はみな堅壁清野(城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ、城外は徹底して焦土化)で掠奪しても獲るところがなく、軍中は甚だ飢えて士卒はお互い食べあった。石勒は東燕に到着し、汲郡の向冰が兵数千を集めて枋頭(河南省鶴壁市浚県、後に桓温と慕容垂が衝突した)に砦を設けていると聞き、渡河にあたって向冰の迎撃を恐れた。張賓は言った「聞くところによると、向冰の船はことごとくドブの中にあり未だ上がっていない。軽兵を間道に派遣して船を奪取してから大軍渡らせるのがよい。大軍が渡り終えれば向冰を必ず捕らえられる」

7月、石勒は支雄・孔萇に文石津より筏で密かに渡らせ、向冰の船を取った。石勒は兵を率いて棘津(東燕城の北にあったという)より渡河したうえで向冰を攻撃し大破した。ことごとく向冰の資材を得て、石勒の軍勢は再び振るった。ついに長躯して鄴に到着した。劉演は三台を保って守りを固めた。臨深・牟穆らは兵を率いて石勒に降った。
諸将は三台の攻略を欲したが、張賓は言った「劉演は弱いといえど、兵はなお数千あり、三台の険しさ固さを考えると、攻めても速やかに抜くのは容易でない。捨て置いてここを去れば劉演は自潰するだろう。かたや今は王彭祖(王浚の字は彭祖)・劉越石(劉琨の字は越石)が公(石勒)の大敵である。まず彼らを何とかしなければならない、劉演ごときは顧みるに値しない。かつ天下は餓え乱れており、殿は大兵を擁しているといえど、放浪していれば人々の志は定まらず、万全を保ち四方を制することはできない。便利な地を択んでそこに篭り、広く食糧・資材を集め、西の平陽から命令を受けて幽(王浚)・并(劉琨)を出し抜くのがよい。これが覇王の業である。邯鄲(河北省邯鄲市)・襄国(河北省邢台市邢台県)は形勝(要害)の地であり、どちらか一つを択んで都とすることを請う」
石勒は言った「右侯の計、これだ」
ついに襄国に進んで篭った。
張賓はまた石勒に言った「いま我らのいるここ(襄国)は、彭祖・越石にとって大変邪魔な位置にある。城郭が堅固に整備されず、物資が集まらないうちから、彼らが攻め込んでくる恐れがある。速やかに穀物を収め、かつ平陽に遣使して、襄国に出鎮した意味をつぶさに述べるのがよい」
石勒はこれに従い、諸将に冀州攻略を分命し、郡県の砦・堡塁は多く降り、その穀物を襄国に運んだ。また劉聡に上表し、劉聡は石勒を都督冀幽并営四州諸軍事とした。
劉琨は州郡に檄を飛ばし、10月を期として平陽に集結し漢を撃つとした。劉琨は普段から豪奢で、音楽・女色を好んだ。河南の徐潤は音律が劉琨に好まれたため、劉琨によって晋陽の県令に据えられた。徐潤は傲慢・わがままで、政事に干預(他人の領分に口出し)した。護軍の令狐盛はしばしば苦言を呈し、かつ劉琨に徐潤の誅殺を勧めたが、劉琨は従わなかった。徐潤は劉琨に対し令狐盛の譖訴を行った。劉琨は令狐盛を責め、これを殺した。劉琨の母は言った「お前は豪傑を遠略に基づいて制御することができず、もっぱら己の勝機を奪っている。災いは必ず私に及ぶだろう」
令狐盛の息子である令狐泥は漢に逃げ、つぶさに虚実を報告した。劉聡は大いに喜び、河内王の劉粲・中山王の劉曜に兵を授けて并州に侵攻させ、令狐泥をガイドとした。これを聞いた劉琨は、東へ出て常山と中山の兵を収めると、将の郝詵・張喬に兵を授けて劉粲を防がせた。また劉琨は代公の拓跋猗盧に遣使して救援を求めた。郝詵・張喬がともに敗死した。劉粲・劉曜は虚に乗じて晋陽を襲い、太原太守の高喬・幷州別駕の郝聿は晋陽ごと漢に降った。

8月、劉琨は晋陽を救うために帰還したが、及ばず左右数十騎を率いて常山へ逃げた。劉粲・劉曜は晋陽へ入った。令狐泥は劉琨の父母を殺した。劉粲・劉曜は尚書の盧志、侍中の許遐、太子右衛率の崔瑋(彼らは劉琨に身を寄せていた)を平陽へ送った。劉聡は劉曜を車騎大将軍に復位させ、前将軍の劉豊を并州刺史とし、晋陽を鎮守させた。

9月、劉聡は盧志を太弟太師とし、崔瑋を太傅とし、許遐を太保とし、高喬・令狐泥をみな武衛将軍とした。
賈疋らは秦王の司馬業を奉じて皇太子とし、長安に行台を建て、登壇告類(壇に登って祭天行事を行うこと、即位の報告を行うこともある)し、宗廟・社稷を建て、大赦した。閻鼎を太子詹事とし、百官を主宰させた。賈疋に征西大将軍の号を加えて秦州刺史とし、南陽王の司馬保を大司馬とした。司空の荀藩に遠近の監督を命じ、光禄大夫の荀組を領司隸校尉・行豫州刺史とし、荀藩と共に開封(河南省開封市祥符区)を保持するよう命じた。
晋の秦州刺史である裴苞は険に拠って涼州兵(同年3月に張軌が出兵)を拒んだ。張寔・宋配らはこれを擊破し、裴苞は柔凶塢(現在地を同定できず)へ逃げた。

10月、劉聡は息子の劉恒を代王、劉逞を呉王、劉朗を潁川王、劉皋を零陵王、劉旭を丹陽王、劉京を蜀王、劉坦を九江王、劉晃を臨川王に封じた。さらに、王育を太保、王彰を太尉、任顗を司徒、馬景を司空、朱紀を尚書令、范隆を尚書左僕射、呼延晏を尚書右僕射とした。
代公の拓跋猗盧は息子の拓跋六修、および兄の子である拓跋普根、将軍の衛雄・范班・箕澹に兵数万を授けて前鋒として晋陽を攻めると、拓跋猗盧自ら兵20万を率いてこれに続いた。劉琨は敗残兵数千を集めてガイドを行った。拓跋六修と漢の中山王である劉曜は汾東(黄河の支流である汾水の東)で戦った。劉曜軍は敗北し、劉曜自身も落馬し、7か所傷を負った。討虜將軍の傅虎が劉曜に馬を授けようとしたが、劉曜は受けず言った「あなたは馬に乗って己の身を免れよ、私の傷は既に重く、自分はここで死ぬ」
傅虎は言った「これまで私は大王のおかげで世に知られ昇進してきた。常々あなたのために命を賭けたいと思っていて、今がその時だ。また漢室が開基してより、私が居なくとも天下に支障はないが、大王が居なくてはダメだ」
こうして傅虎は劉曜を扶けて馬に乗せ、無理やり汾水を渡らせると、自身は戻って戦死した。
劉曜は晋陽に入り、夜に大将軍の劉粲・鎮北大将軍の劉豊とともに晋陽の民を掠め、蒙山(山西省陽泉市平定県にあった山)を越えて帰った。

11月、拓跋猗盧は漢軍を追い、藍谷(蒙山の南西にある)で戦った。漢軍は大敗し、劉豊は捕らえられ、邢延(311年12月の記事を参照、劉琨に叛いた)ら3千余級が斬られた。死体は数百里にわたって埋められた。拓跋猗盧が寿陽山(山西省晋中市寿陽県にある山)で大猟を行った際、陳閲は山が赤くなったと皮肉した。
劉琨自ら拓跋猗盧軍営の門に歩いて入ると、拝謝(うやうやしく感謝)し、固く進軍を請うた。拓跋猗盧は言った「私の来るのが遅すぎて、卿の父母が害せられる結果となったのは、まことに申し訳ない。いま卿は既に州境を復している。私は遠方より来て、兵馬は疲弊している。また後に続く挙兵を待たねば、現時点で劉聡を滅ぼすことはできない」
拓跋猗盧は劉琨に馬・牛・羊をそれぞれ千余匹と、車100乗を与えて帰り、将の箕澹・段繁らを晋陽の守備に留めた。
劉琨は居所を陽曲(山西省太原市陽曲県)に移した、逃げ散った者達を招集した。盧諶は劉粲の参軍となっていたが、劉琨の元に逃げ帰った。漢の人は盧諶の父である盧志と盧諶の弟である盧謐・盧詵を殺した。傅虎に幽州刺史が追贈された。

12月、劉聡は張氏を皇后に立て、その父である張寔を左光禄大夫とした。
彭仲蕩の彭天護が群胡を率いて賈疋を攻めた。彭天護は偽って敗れた態で逃走し、賈疋はこれを追った。夜、賈疋は谷間へ落ち、彭天護は賈疋を捕え、殺した。漢は彭天護を涼州刺史とした。
人々は始平太守の麴允を領雍州刺史に推した。閻鼎と京兆太守の梁綜は権を争い、ついに閻鼎が梁綜を殺した。麴允と撫夷護軍の索綝、馮翊太守の梁肅は、兵を合わせて閻鼎を攻め、閻鼎は雍(陝西省宝鶏市鳳翔区)に出奔し、氐の竇首に殺された。
広平(河北省邯郸市付近)の游綸・張豺は数万人を擁して苑鄕(河北省邢台市任沢区にあった城)に籠り、王浚の仮署(承制に基づいて仮に官職を授けられること)を受けた。石勒は夔安、支雄ら7将を派遣してこれを攻め、その外塁を破った。
王浚は督護の王昌に諸軍を率いさせ、遼西公の段疾陸眷(鮮卑段部)・段匹磾(疾陸眷の弟)・段文鴦(疾陸眷の弟)・段末柸(疾陸眷の従弟)が率いる部衆5万と合わせて襄国にいる石勒を攻めさせた。
段疾陸眷は渚陽(河北省衡水市冀州区付近の水場)に駐屯し、石勒は諸将を派遣して出戦したが、みな段疾陸眷に敗れた。段疾陸眷は攻城兵器を盛んに造り、城攻めが間近となったため、石勒軍は甚だ恐れた。石勒は将官・佐官を召集し、対策を謀って言った「いま城や堀はまだ堅固でなく、兵糧も多くない、敵は多く我は少ない。外に救援がないため、私は全軍で決戦したいのだがどうか」
諸将はみな言った「堅守して敵が疲れ、後退するのを待って攻撃するのが一番良い」
張賓・孔萇は言った「鮮卑のたぐいでは、段氏が最も勇悍である。なかでも段末柸が最も甚だしく、段氏の精鋭はみな末柸のところに居る。いま聞くところによると段疾陸眷は期限を定めて北城を攻めているが、その大軍は遠方より来て、戦闘は連日となっている。我らを孤立し弱いと言いながら、あえて出戦していない、内心は必ず懈惰(なまけおこたる)している。出撃せず怯えた様子を示しながら北城に20余道の突門(城の小門)を掘り、敵軍の来着を待って、門番を定めず、彼らの不意を突いて出撃するのだ。直ちに末柸の帳を衝けば、彼はきっと震駭し、計をなす暇すらなく、必ず破ることができる。末柸が敗れれば、その他は攻めずとも潰れよう」
石勒はこれに従って密かに突門を作った。ついに段疾陸眷が北城を攻めた。石勒は城に登ってその様子を望むと、敵軍の将士に釋仗(兵器の一種)で寝る者が居た。このため孔萇に精鋭を率いて突門から出撃するよう命じ、城の上では鼓を鳴らして味方の勢いを助けた。孔萇は段末柸の帳を攻め、勝つまで後退を許さなかった。段末柸はこれを追い払って、自身の堡塁の門に入ろうとしたが、石勒の兵に捕らえられた。孔萇は勝ちに乗じて追撃し、死体が30余里も横たわるほどで、鎧馬5千匹を獲た。段疾陸眷は残兵を収めると、戻って渚陽に駐屯した。
石勒は段末柸を人質とし、段疾陸眷に講和の使者を送り、段疾陸眷はこれを許可した。段文鴦が諫めて言った「いま末柸ひとりのために滅亡目前の敵を野放しにする、王彭祖(王浚の字は彭祖)の怨みを買い、後患を招くだけで得は無い」
段疾陸眷は従わず、さらに鎧馬・金銀を石勒に贈り、さらに末柸の弟3人を人質として末柸の身柄を請うた。諸将は石勒に段末柸を殺すよう勧めたが、石勒が言った「遼西鮮卑は勢いのある国で、平素から我らと仇敵というわけではなく、ただ王浚に使役されたのみだ。いま1人を殺して1国の怨みを買うのは良計といえない。彼を帰せば、きっと私の徳を深く感じて、再び王浚に用いられることはない」
こうして厚く金帛(帛は絹のこと)による返報を行うと、渚陽に石虎を派遣して段疾陸眷と盟約を結び、義兄弟の契りを交わした。段疾陸眷は引いて帰り、王昌は独り留まることができず、また兵を引いて薊に帰った。石勒は段末柸を召して酒盛りをし、義父子の誓いを立てたうえで遼西に送りかえした。段末柸は帰路の道中で、太陽のある南を向くと3度拝礼を行った。これより段氏は専心して石勒に付き、王浚の勢いはついに衰えた。
游綸・張豺は石勒への降伏を請うた。石勒は信都を攻め、冀州刺史の王象を殺した。王浚は邵舉をまた行冀州刺史とし、信都を保持した。
この年、疫病が大流行した。
杜弢(四川からの流民で荊州にて乱をなした)に対し、王澄(王衍の弟、荊州刺史)は敗北を重ねた。亡き山簡の参軍であった王沖が刺史を自称して独立を図ったこともあり、王澄は東に逃げようとした。司馬睿は王澄を召還し、周顗を後任としたが周顗も杜弢に敗北した。征討都督の王敦は武昌太守の陶侃・尋陽太守の周訪・歴陽内史の甘卓を派遣し、共に杜弢を撃たせ、王敦自身は豫章(江西省北部)に進屯し、諸軍の後援となった。
王澄は王敦の近くを通過した際に訪問したが、かつて自分の名声が王敦より上だったこともあり、まだ以前のように王敦を侮っていた。王敦は怒り、王澄が杜弢に通じていると誣告した上で、壮士を派遣して王澄を絞殺した。王機(王澄の飲み友達)は王澄の死を聞くと、禍を恐れ、父の王毅や兄の王矩がかつて広州刺史だったこともあり、広州(広東省方面)への赴任を求めたが、王敦は許可しなかった。広州将の温卲らが広州刺史の郭訥に反旗を翻し、王機を刺史として迎え入れた。

313年
1月、劉聡は光極殿で群臣と宴会を開き、懐帝司馬熾に青衣(粗末な服)を着せて酌をさせた。庾珉・王雋らは悲憤に耐えられず号泣した。劉聡はこれを憎んだ。庾珉らが平陽で劉琨に応じようと謀っているという密告をする者がいた。

2月、劉聡は庾珉・王雋ら晋の旧臣10余人を殺し、司馬熾もまた殺害された(享年30)。大赦し、会稽劉夫人(劉聡は司馬熾を会稽公に封じ、自身の妻である劉氏を妻としてあてがった)を貴人とした。
荀崧いわく、懐帝(司馬熾)は生まれつき優美で、幼い頃から思考力の高さがあらわれていて、もし平和な世を承ける立場であれば、文治を守る佳い君主として十分であった。しかし恵帝(司馬衷)による擾乱の後を継ぎ、東海王(司馬越)が専制し、ゆえに幽王・厲王(両者とも古代の周王で、どちらも首都である鎬京=陝西省西安市を失った)と同じく流亡の禍を受けることになった。
漢の太后である張氏が死んだ、諡号は光献。張皇后は哀しみに勝てず、また死んだ、諡号は武孝。
漢の定襄公である王彰が死んだ、諡号は忠穆。

3月、劉聡は貴嬪の劉娥を皇后とし、彼女のために䳨儀殿を建てた。廷尉の陳元達はこのように切諫した「天が民を生み、これが君をうち立て、これを君主とした。兆民の命をもって1人の欲を突き詰めるのはダメだ。晋氏は徳を失い、大漢がこれを受け、人民は首を長くして待ち、休息をこいねがっている。このため、光文皇帝(劉淵)は粗布を身に着け、重い敷物の上に居らず、后妃は華麗な衣服を身に着けず、乗輿の馬は粟を食わず、これらは民を愛するがゆえだった。陛下は践祚(皇位継承)以来、すでに殿や観を40余所作り、これに加えて遠征も数度となり、食糧輸送は休まずおこなわれ、飢饉・疫病・死亡が相次いでいる。にもかかわらず益々土木工事を考えている、これで民の父母であるという自覚があるといえようか。いま晋の残党が西の関中(司馬業)・南の江東(司馬睿)に居る。李雄は巴蜀をおおっている。王浚・劉琨は傍らで隙をうかがっている。石勒・曹嶷は詔命への貢献が次第におろそかになっている。陛下はこれらを放置して憂えず、中宮のためにさらに殿を作るという、陛下の前にある危急が見えているのか。昔、太宗(漢の太宗は文帝・劉恒)は治安の世に居り、粟・帛が広がっていたが、なお百金の費用を惜しんで、露台の工事を止めた。陛下は荒乱後の世界を承けており、太宗の2郡を過ぎず(劉聡の支配圏は、西漢期における河東・西河の2郡に過ぎない)。戦い・守りの備えが匈奴・南越に特定されない(この2者のみが相手だった太宗と違い、多くの敵を抱えている)。にもかかわらず宮室の奢侈がここまでになってしまった、臣は死のリスクを冒してでも敢えて言わずにはいられない」
劉聡は大怒して言った「朕は天子となり、一殿の造営に、どうしてお前のような子ネズミに問うだろうか。にもかかわらずお前は妄言をして人々を阻んだ。この子ネズミを殺さねば朕の殿は完成しない」
左右に命じた「こいつを曳き出して斬れ。そしてその妻子も同じく東市でさらし首とし、ネズミどもは同じ穴に埋めろ」
この時劉聡は逍遙園の李中堂に居た。陳元達は予め腰に鎖を巻いて入り、堂の下にあった樹に鎖をつないで呼ばわった「臣の言うところは社稷の計であるのに、陛下は臣を殺すという。朱雲(劉驁=西漢の成帝に諫言した、折檻の語源)の言葉にあった『臣は関龍逢・比干(桀・紂に諫言して殺された)と遊ぶ機会を得られて満足だ』」
左右は陳元達を曳いたが動かせなかった。大司徒の任顗・光禄大夫の朱紀・范隆・驃騎大将軍で河間王の劉易らが叩頭し出血しながら言った「陳元達は先帝(劉淵)の知己となり、漢が天命を受けた初め、直ちに門下へ迎えられ(陳元達は漢の発足時より参与、304年10月参照)、忠を尽くし慮りを尽くし、知ったことは全て言った。臣らは禄を盗み目先の安楽をむさぼり、陳元達の姿を見るたびに恥じる思いを抱くばかりであった。いまの発言は容赦のない内容だが、陛下がこれを受け入れるよう願う。諫争を理由に九卿を斬っていたのでは、後世でなんといわれようか」
劉聡は黙然とした。劉后がこれを聞き、刑の執行を止めるよう左右へ密かに勅し、手書きで言上した「いま宮室はすでに備わり、さらに造営で煩わせることはない。四海は統一されておらず、民の力を惜しむのがよい。廷尉(陳元達)の言葉は社稷の福であり、陛下は封賞を加えるべきである。にもかかわらず、彼を誅したなら四海は陛下をなんと言おうか。進んで諫言する忠臣はもとより自分の身を顧みていない、諫言を拒む主人もまたその身を顧みていないのだ。陛下は私のために営殿し諫臣を殺したなら、忠良な者が口を閉ざすのは私のせいになり、遠近の者が怨み怒るのは私のせいになり、公私で苦しみ疲れるのは私のせいになり、社稷に危険が迫るのは私のせいになり、天下の罪はみな私に集まる。私はどうしたらよいのでしょう。私が見るところ古来より国が敗れ家が喪われるのは、全て婦人より始まっている。私は内心常にこれを心配しており、不意に今日自身がこうなるところだった。後世の人々は私が昔の人を視ているように私を視ることだろう。私は再び巾櫛を奉じる(妻妾となる)ことが誠に面目ない。陛下の過ちを塞ぐため、この堂で賜死することを願う」
劉聡はこれを見て顔色を変えた。任顗らの叩頭流涕は止まなかった。劉聡はおもむろに言った「朕は今年になって少し風疾を得ており、喜怒が度を越して自制できなくなることがある。元達は忠臣である、朕はこれを十分理解していなかった。諸公が頭を傷つけることでこれが明らかになった。誠に輔弼の議を得ている。朕は心から恥じ入っており、どうしてこれを忘れようか」
任顗らに命じて冠を着用させたうえで座らせ、陳元達を連れてきて堂に上げ、劉氏に彼を示して言った「外の輔が公のごとく、内の輔が后のごとし、朕にまたなんの憂いがあろうか」
任顗らに穀帛を下賜し各々差があった。さらに逍遙園を納賢園と改称し、李中堂を愧賢堂と改称した。劉聡は陳元達に言った「卿は朕を畏れているようだが、反対に朕も卿を畏れている」

4月、懐帝(司馬熾)の訃報が長安に届いた。皇太子(司馬業)は哀しみで大声をあげ、その後に元服を加え、皇帝位に即き、大赦・改元した。衛将軍の梁芬を司徒とし、雍州刺史の麹允を尚書左僕射・録尚書事とし、京兆太守の索綝を尚書右僕射・領吏部・京兆尹とした。この時、長安城中は100戸に満たず、野草が茂っていた。公私で車は4乗しかなく、百官に章服(身分を示す文様のある服)・印綬が整わず、桑の板に称号を書き記すのみだった。索綝を衛将軍・領太尉とし、軍国のことはことごとく索綝に委ねた。
漢の中山王である劉曜・司隸校尉の喬智明は長安に侵攻し、平西将軍の趙染が兵を率いてここに向かった。晋は詔で麴允を黄白城(陝西省咸陽市にあった)に駐屯させ、これを防いだ。
石勒は石虎に鄴を攻めさせ、鄴は潰え、劉演は廩丘(山東省菏沢市鄆城県)に逃げた。三台の流民は皆石勒に降った。石勒は桃豹を魏郡太守とし流民を安撫させた。しばらくして、桃豹に代わって石虎が鄴を鎮守した。
かつて劉琨は陳留太守の焦求を兗州刺史に任じたが、荀藩もまた李述を兗州刺史に任じていた。李述が焦求を攻めようとしたため、劉琨は焦求を召還した。鄴城が守将を失ったところで、劉琨はまた劉演を兗州刺史とし、廩丘を鎮守させた。さきの中書侍郎であった郗鑒は若い時から清節(志を清く守って曲げないこと)で著名であり、高平の千余家を率いて乱を避け、嶧山(山東省済寧市鄒城市にある山)を保持していた。司馬睿は郗鑒を兗州刺史とし、鄒山(山東省済寧市鄒城市にある山)を鎮守させた。3人(李述・劉演・郗鑒)がおのおの郡に駐屯したため、兗州の吏民は誰に従うべきか分からなかった。
司馬睿はさきの廬江内史であった華譚を軍諮祭酒とした。華譚はかつて寿春で周馥の下にいた。司馬睿は華譚に言った「周祖宣(周馥の字は祖宣)は何故反逆したのか」
華譚は言った「周馥が死んだといえど、天下にはなお直言の士が居る。周馥は逆賊が茂りはびこるのを見て、遷都して国難を緩めるよう欲したが、執政(司馬越)は悦ばず、兵を興してこれを討った(310年11月と311年1月を参照)。周馥の死から幾ばくも無いうちに洛都(洛陽)は沈没した。もしこれを反逆というなら、不当な誣言ではないか」
司馬睿は言った「周馥は征・鎮(四征・四鎮将軍)に位し、強兵を掌握し、召しても入らず、勢力を持ったまま国家を危うくした、また天下の罪人である」
華譚は言った「しかり。勢力を持ったまま国家を危うくしたのは、天下が共にその責を受けるべきであり、ただ周馥のみのせいではない」
司馬睿の下役は面倒事を避け気ままに楽しむことが多かった。録事参軍の陳頵は司馬睿に言った「洛中が平和だったころ、朝士は小心で慎み深いことを凡俗とし、驕りわがままなことを優美とした。各々がこのような風潮を流行らせ、敗国に至った。いま属官はみな西台(洛陽朝廷)の余弊(残っている弊害)を承け、自分を高所に置こうと望んでいる。こうして前車(洛陽朝廷)が既に覆っているのに後車(江東朝廷)がこれに尋ねようとしている。今から使者に臨んで疾病を称するものは、みな免官することを請う」
司馬睿は従わなかった。
三王(司馬冏・司馬頴・司馬顒)が趙王の司馬倫を誅したとき、賞功の仕組みとして己亥格を制定し、これをそのまま用いていた。陳頵は上言した「むかし趙王が篡逆して惠皇(司馬衷)が失位し、三王が挙兵してこれを討った。故に厚賞で義に向かう心を抱かせた。いま功の大小に関わらず、みな己亥格で判断し、士卒の身でありながら金紫(金印と紫綬:高官の証)を佩き、召使いに詔勅を委ねている。こうして優れた器物が重視されなくなっており、綱紀を正さねばならない。己亥格を一切停止するよう請う」
陳頵は貧しく卑しい出自だったが、しばしば正論をなし、府中(政庁)では彼を憎む者が多かった。こうして陳頵は譙郡太守として出鎮した。
呉興太守の周玘は、宗族が強盛で、司馬睿は彼をすこぶる憚っていた。司馬睿が側近に用いた者は中原で官位と祖国を失った士が多かったが、呉の人を思い通りに支配していたため、呉の人はすこぶる恨んでいた。周玘は失職と刁協に軽んじられたことが理由でたいそう恥じ怒り、密かにその朋党と執政(司馬睿か)の誅殺を謀り、南士でこれに代わろうとした。事がもれ、周玘は憂憤のうちに死んだ。死にあたって息子の周勰に言った「私を殺したのは傖子(呉の人は中原の人を田舎者扱いしたようだ)だ。これに復讐できるのは我が子である」
石勒は上白城(河北省邢台市広宗県にあった)の李惲を攻め、これを斬った。王浚はまた薄盛を青州刺史とした(李惲・薄盛はともに乞活の長)。
王浚は棗嵩に諸軍を監督させて易水に駐屯させ、段疾陸眷を召して共に石勒を撃とうとしたが、段疾陸眷は来なかった。王浚は怒って拓跋猗盧に多くの金品を贈り、あわせて慕容廆らに檄文を飛ばして共に段疾陸眷を討たせた。拓跋猗盧は右賢王の拓跋六修に兵を授けて向かわせたが、段疾陸眷に敗れた。慕容廆は慕容翰を派遣して段氏を攻め、徒河(遼寧省錦州市付近)・新城(遼寧省錦州市凌海市か)を取り、陽楽(遼寧省錦州市義県もしくは河北省秦皇島市盧竜県)に到着したが、拓跋六修が負けて帰ったことを聞くと、徒河に留まり、青山(現在地を同定できず)を砦とした。
かつて中国の士民で乱を避ける者は、多くが北の王浚を頼ったのだが、王浚は彼らを安撫できず、政法も立てていなかったため、士民は往々にして彼のもとを去った。段氏の兄弟も専ら武勇を尊び、士大夫への礼が無かった。ただ慕容廆だけが政事に明るく人物を尊重したため士民は多くが彼に帰した。

5月、長安朝廷は司馬睿を左丞相・大都督・督陝東諸軍事とし、南陽王の司馬保を右丞相・大都督・督陝西諸軍事とした(周公旦と召公奭による分陝の再現)。詔にいわく「今まさに悪党の首領(漢の劉聡)を掃除し、梓宮(司馬熾の棺)を奉迎しようとしている。幽(王浚)・并(劉琨)の両州は兵30万を動員して平陽に直行せよ。右丞相(司馬保)は秦・涼・梁・雍州の兵30万で長安に直行し、左丞相(司馬睿)は所領の精兵20万を率いて洛陽に直行されたい。志を同じく大きな目標に向かい、元勲を成し遂げるのだ」
漢の中山王である劉曜は蒲坂に駐屯した。
石勒は孔萇に定陵(河南省漯河市舞陽県)を撃たせ、田徽を殺した。薄盛は所部を率いて石勒に降り、山東の郡県も相次いで石勒の取るところとなった。劉聡は石勒を侍中・征東大将軍とした。烏桓もまた王浚に叛き、密かに石勒に付いた。

6月、劉琨は代公の拓跋猗盧と陘北で会い、漢を撃つよう謀った。

7月、劉琨は進んで藍谷に籠り、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣し北屈(山西省臨汾市吉県)に駐屯させた。劉琨は監軍の韓據を西河から南下させ、西平城(平陽の西に築城、312年6月参照)を攻めようとした。劉聡は大将軍の劉粲らを派遣して劉琨を防ぎ、驃騎将軍の劉易らを派遣して拓跋普根を防ぎ、蕩晋将軍の蘭陽らを派遣して西平城の守備増強を行った。劉琨らはこれを聞くと、兵を引いて帰った。劉聡は諸軍をそのままの場所に駐屯させ、今後の計略を練った。
司馬業は殿中都尉の劉蜀を司馬睿に派遣し、進軍のタイミングであることを伝え、乗輿(天子の車馬)と中原にて会うよう詔した。

8月、劉蜀が建康に到着したが、司馬睿は江東を平定している最中で北伐する暇がないと断った。鎮東長史の刁協を丞相左長史とし、従事中郎で彭城出身の劉隗を司直とし、邵陵内史で広陵(江蘇省揚州市)出身の戴邈を軍諮祭酒とし、参軍で丹陽出身の張闓を従事中郎とし、尚書郎で潁川(河南省中部)出身の鍾雅を記室参軍とし、譙国の桓宣を舍人とし、豫章の熊遠を主簿とし、会稽の孔愉を掾とした。劉隗は文学・史学によく通じ、司馬睿のご機嫌取りが上手だったので、司馬睿は特に彼を親愛した。
熊遠は上書した「軍を興して以来、物事の処理に律令を用いず、思いつきを競って作り、場面ごとに制度を立て、朝に作っても夕には改められる。こうして当事者は法に委ねることができず、そのたびごとに諮問している。これは為政の体をなしていない。私が思うに、反論者となる場合はみな律令・経伝を引用し、情を含んだ言葉を直接述べるのは不適切とされる。旧典が欠けていればより従うことはない。もし開閉(可否の決裁の意か)をその時々で勝手に取り計らい、便宜的な方法でものを定めるなら、これは君主が自身の行いに対してするものであり、臣下にばかり用いるのは良くない」
司馬睿は当時多忙であったため従えなかった。
かつて范陽(北京市・天津市・河北省保定市のまたがる地域)の祖逖は若いころから大志があった。劉琨とともに司州主簿となり、彼と一緒に寝ていると夜中に鶏鳴(ニワトリの鳴き声)を聞いた。祖逖は劉琨を蹴り起こすと、「これは悪声ではない」と言い、起きて舞った(凶兆とされる夜間の鶏鳴を立身のチャンスとして喜んだという解釈と、同衾の終わりを告げる鶏鳴に剣を鍛錬するための積極的意義を見出したという解釈が主にある)。祖逖は長江を渡り、司馬睿は彼を軍諮祭酒にした。祖逖は京口(江蘇省鎮江市)に居り、勇ましく健やかな者たちを糾合すると、司馬睿に言った「晋室の乱は、上が無道なため下が怨み叛いたわけではない。宗室が権を争い、お互いを食らい合い、ついに蛮族により隙に乗じられ、毒が中土に蔓延した。いまも遺民は賊に損なわれており、人々は奮起の機会をうかがっている。大王(司馬睿)は出征を命じられる権力を十分持っており、祖逖のような者にこれを統べさせ中原を復するなら、郡国の豪傑に我らを慕って応ずる者達が必ず現れる」
司馬睿はもとより北伐の志が無く、祖逖を奮威将軍・豫州刺史とし、千人分の米と布3千疋を給付したが、鎧や武器は給付せず、召募も自分でやらせた。祖逖はその部曲(私有民・私兵)100余家を率いて長江を渡った、川の中ほどで梶を撃って言った「祖逖が中原を清めずして再び渡ることはない、かくも大いなる長江よ」
ついに淮陰(江蘇省淮安市淮陰区)に駐屯し、武器の鋳造を開始し、募兵で2千余人を得た後に進んだ。

9月、荀藩が開封で死んだ。
漢の中山王である劉曜と趙染は、黄白城の麴允を攻め、麴允は連戦連敗した。晋は詔で索綝を征東大将軍とし、兵を授けて麴允を助けさせた。

10月、漢の趙染は中山王の劉曜に言った「麴允が大軍を率いて外におり、長安は空虚で襲うことができる」
劉曜は趙染に精鋭騎兵5千を率いさせて長安を襲い、夜に外城へ入った。司馬業は射鴈樓に逃げ、趙染は龍尾(城に沿って高く配置された道)と諸々の営所を焼き、千余人を殺し掠めた。翌朝に趙染は後退して逍遥園に駐屯した。翌日、将軍の麴鑒が阿房宮城(陝西省西安市の西方)より兵5千を率いて長安を救援した。その翌日、趙染は引き返し、麴鑒がこれを追うと、零武(寧夏回族自治区銀川市霊武市付近か)で劉曜と遭遇し、麴鑒軍は大敗した。
劉曜は勝ちを恃んで備えを設けていなかった。

11月、麴允は兵を率いて劉曜を襲い、漢の兵は大敗し、冠軍将軍の喬智明が殺された。劉曜は平陽に引き上げた。
王浚は父の字が處道であることから、「当塗高」の予言に応じたとし、尊号を称しようと謀った(「漢に代わる者は当塗高」、という予言があった、塗の字は道の意を含み、袁術は字が公路と道に通じていることから皇帝を僭称した、王浚もそれに倣おうとした)。さきの渤海太守である劉亮・北海太守の王摶・司空掾の高柔が切諫したものの、王浚は彼らを全て殺した。燕国(北京市付近)の霍原は信念が清らかで優れ、平民からの登用を持ち掛けられたが何度か辞退していた。王浚が尊号のことについて彼に問うたところ、霍原は答えなかった。王浚は霍原が群盗と通じていると誣告すると、殺してさらし首とした。こうして士民は驚き怨んだ。王浚の傲慢・贅沢は日ごとに甚だしくなり、政事を自らしなくなり、過酷な小人に全てを委ねた。棗嵩・朱碩・貪横が特にひどかった。北州の唄ではこう言われた「府中赫赫、朱丘伯(政庁で朱碩=字は丘伯の存在感が目立っているといった意)。十嚢・五嚢、入棗郎(公的な贈り物は全て王浚の娘婿たる棗嵩の懐に入るといった意)」
煩雑な徴発に下は耐え抜くことができず、多くが叛いて鮮卑に入った。従事の韓咸は柳城(遼寧省の一部)防衛の責任者だったが、慕容廆が士民をよく受け入れていると盛んに言い、王浚をあてこすろうとした。王浚は怒って韓咸を殺した。
王浚はかつて鮮卑・烏桓を恃みながら強盛を誇っていたが、既に彼らはみな叛いた。加えてイナゴ・日照りが連年続き、兵勢はますます弱った。石勒は王浚を襲おうとしたが、実態が分からなかったので、遣使して状況を窺おうとした。下役は羊祜・陸抗の故事に基づいて、王浚に書を送るよう請うた(礼をもって隣国と交わる)。石勒が張賓に問うたところ、張賓は言った「王浚は晋の臣という名目だが、実は晋を廃して自立することを欲している。ただ四海の英雄が従わないことを心配しているだけだ。そのため将軍(石勒)を味方につけたいと欲している、項羽が韓信を得ようとしたように。将軍の威は天下に振るっており、いま辞を卑しくして礼を厚くし、節を曲げて彼に仕えても、なお信じられない恐れがある。まして羊・陸のような敵対関係を築くなどもってのほか。もし人を謀るのに人を使ってその情況をさとろうとするなら、志を得るのは難しかろう」
石勒は言った「善し」

12月、石勒は舎人の王子春・董肇を派遣して珍宝を多く持っていき、王浚に献上して言った「石勒はもともと小さな胡族で、餓え乱れた世に遭い、さすらい厄災を受け、命からがら冀州に逃げ、ひそかに集まることで命を救った。いま晋の天子は落ちぶれ、中原には主がいない。殿下(王浚)は郷里の名家で(石勒は上党郡出身で王浚は太原郡出身)、四海の首位となり、帝王となる者は、公(王浚)以外に誰がおろうか。こうして石勒は身を捧げて起兵し、暴乱をなす者を討ち誅し、ただ殿下のために駆除しているだけだ。伏して願わくは殿下、天に応じ人にしたがい、早く皇帝の位に登られよ。石勒は殿下を天地・父母のごとく奉戴する。殿下は石勒の真心を察し、また子のごとく視られたし」
また棗嵩に書を送り、これに厚く賂を贈った。
王浚は段疾陸眷が新たに叛いてより、士民で己を去る者が多く、石勒が自分に味方することを聞くと甚だ喜び、王子春に言った「石公(石勒)は一時の豪傑で、趙・魏に依拠しながら私に称藩(臣従)したいという、信じてよいか」
王子春は言った「石将軍の才力は強盛で、誠に仰せになった通りである。ただ殿下は中州の名家であり、威光が夷(少数民族)・夏(漢民族)に行き届いている。古より胡人が輔佐の名臣となった例はあるが、帝王となった例はない。石将軍は帝王となれないことを不快に思うことはなく、殿下に譲るのだ。思うに帝王にはおのずから天運があり、智力に乏しい者が無理やり奪い取っても、決して天人が与えたものではない。項羽は強かったが、最終的には漢の天下となった。石将軍と殿下を例えるなら月と太陽のようなものだ。こうして過去の事跡を長考し、殿下に身を投じたのだ。これは石将軍の明識が他の人より遥かに遠くへ及んでいるためであり、殿下は何を怪しむというのか」
王浚は大いに悦び、王子春・董肇らをみな列侯に封じ、遣使して報聘(礼を尽くして人を招く)し、十分な贈り物で石勒に返礼した。游綸の兄である游統は、王浚の司馬として范陽を鎮守していたが、遣使して密かに石勒へ付いていた。石勒はその使者を斬って王浚に送った。王浚は游統の罪を問わなかったが、ますます石勒の忠誠を信じ、再び疑うことはなかった。
この年、左丞相の司馬睿は世子の司馬紹を広陵に出鎮させ、丞相掾の蔡謨を参軍とした。
漢の中山王である劉曜は石梁(洛水の北にあった)で河南尹の魏浚を囲んだ。兗州刺史の劉演・河内太守の郭默が派兵してこれを救援した。劉曜は兵を分けて黄河の北で迎え撃ち、これを破った。魏浚は夜に逃げたが、捕えられ殺された。
代公の拓跋猗盧は盛楽(内モンゴル自治区フフホト市)に城を作って北都とし、古くからの平城(山西省大同市)を修復して南都とした。さらに新しい平城を灅水(河北省唐山市遵化市付近を流れる川)の北に作って右賢王の拓跋六修に鎮守させ、南部の統領とした。

314年
1月、平陽の北に隕石が落ちた。劉聡はこれを不快に思って公卿に問うた。陳元達おもえらく「女への寵愛が大いに盛んであり、亡国のしるしである」
劉聡は言った「これは陰陽の理であり、どうして人事と関わろうか」
劉聡の后である劉氏は賢明で、劉聡の行いが道に外れても、劉氏は毎度これを正していた。その劉氏が死んだ。諡号は武宣。これより寵愛を競い合うようになり、後宮の秩序は失われた。劉聡は丞相など7公を置いた。また輔漢など16大将軍を置き、各々に兵2千を配し、諸子をこれにあてた。また左右の司隷を置いて、各々に20余万戸を領させ、1万戸ごとに内史を置いた。単于左右輔は各々が六夷(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌・巴蛮もしくは烏丸)十万落の主となり、1万落ごとに都尉を置いた。左右の選曹尚書は共に選挙をつかさどった。司隷より以下の六官(左右の司隷・左右の単于輔・左右の選曹尚書)はみな位を尚書僕射に次ぐものとした。息子の劉粲を丞相・大将軍・録尚書事とし、位を晋王に進め封じた。江都王の劉延年を録尚書六條事(当時初出の官位)、汝陰王の劉景を太師、王育を太傅、任顗を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、中山王の劉曜を大司馬とした。
王子春らと王浚の使者が襄国に到着した。石勒は強兵や丈夫な鎧を隠して、軍が衰弱し政庁が虚ろな様子を彼らに示すと、北面して使者を拝し書を受けた。王浚は石勒に麈尾(玉の柄に鹿の尾を付けた道具、晋のころ風を起こして虫を追い払う用途があったという)を贈ったが、石勒はあえてこれを執らないよう見せかけ、壁にかけて朝夕これを拝し、言った「我は王公(王浚)にまみえていないが、賜ったものを見れば公本人を見ているようだ」
董肇を再び遣わし、王浚へ奉じた文書にはこうあった、3月中旬を期として石勒自ら幽州に詣で尊号を奉上すると。また棗嵩に手紙をおさめ、并州牧・広平公を求めた。
石勒は王浚の政事について王子春に問い、王子春は言った「幽州は去年大水があり、人々は穀物を食べられていない、王浚は粟100万を積みながら施し与えなかった。刑政は苛酷で賦役は煩雑で、忠臣や賢者は内より離れ、夷狄は外より叛いた。人はみな彼がまさに亡ぼうとしていると知っているが、王浚は平然としており恐れを知らない。さらに楼閣を立て、百官を並べて、自身を漢高(劉邦)・魏武(曹操)以上だと言っている」
石勒は几(机、もしくは肘掛け)を撫でて笑い言った「王彭祖(王浚の字は彭祖)は本当に捕えることができる」
王浚の使者は薊に帰り、つぶさに言った「石勒の形勢は寡弱で、忠誠は他に無いほどである」
王浚は大いに悦び、ますます驕り怠け、再び備えを設けることはなかった。

2月、張軌が太尉・涼州牧となり、西平郡公に封じられた。王浚を大司馬・都督幽冀諸軍事となった。荀組が司空・領尚書左僕射兼司隸校尉・行留台事となった。劉琨を大将軍、都督并州諸軍事となった。朝廷は張軌が老病であったため、息子の張寔を副刺史にした。
石勒は戒厳し、まさに王浚を襲おうとしていたが、なおためらって出発しなかった。張賓は言った「人を襲う者は不意に出るべきだ。いま軍を戒厳し一日また一日と時がたっているが行かない。これは劉琨および鮮卑・烏桓が我らの後患となることを恐れているのではないか」
石勒は言った「その通り。どうしたらいいか」
張賓は言った「かの三方(劉琨・鮮卑・烏桓)の智勇は将軍(石勒)に及ばない、将軍が遠出したといえど、彼らは決して動かない。また彼らは将軍が千里遠征して幽州を取れるとは思っていない。軽軍で往復するまで20日かからないので、かりに彼らにわが国への野心があったとしても、彼らが謀議を終えて軍を出す頃、我らは既に帰っている。さらに、劉琨と王浚は同じ晋朝の臣という名目だが、実際のところ仇敵である。もし劉琨に手紙を送って人質を差し出して和を請えば、劉琨はきっと我らの服従を喜び王浚の滅亡を快く思うだろう。用兵は神速を貴ぶ、これ以上後回しにしてはいけない」
石勒は言った「私は決めかねていたが、右侯(張賓)は既に決めていた。私はこれ以上何を疑おうか」
ついに日暮れ間もない頃に出発し、柏人(河北省邢台市隆堯県)に到着した。主簿の游綸を殺した。兄の游統は范陽におり、軍謀の洩れる恐れがあったからである。遣使して劉琨に手紙と人質を送り、自身の罪悪を述べ、王浚の討伐をもって許してほしいと請うた。劉琨は大いに悦んで州郡にこのような檄を飛ばした「私と拓跋猗盧はまさに石勒の討伐を議していたが、石勒は地方に身を隠し、贖罪として幽州の都を抜くことを求めてきた。今まさに拓跋六修を南に派遣して平陽を襲い、僭称の逆賊(劉聡)を除き、死を悟って逃げ回る羯族(石勒)を降す。天に従い民を伴い、皇家を翼戴する。これは長年の誠意と霊的な助けによってもたらされたものである」

3月、石勒軍は易水に達し、王浚の督護である孫緯は馳せて王浚に報告し、兵を整えて防戦しようとしたが、游統がこれを禁じた。王浚の将佐(将官・佐官)はみな言った「胡族は貪欲で信用できない、必ず詭計がある、撃たせてほしい」
王浚は怒って言った「石公(石勒)が来るのは、まさに私を奉戴したいがためだけだ。あえて撃つという者は斬る」
人々にあえて再び言う者はなかった。王浚は宴会の用意をしてこれを待った。石勒は早朝に薊へ到着すると、門番を叱って開門させた。なお伏兵の疑いがあったため、牛羊千頭に先駆させ、上礼であると公言しつつ(牛羊を献上することが王浚への礼であるという理屈)、実際には諸街路の封鎖を目的としていた。王浚ははじめて恐れ、座ったり立ったりした。石勒はついに入城し、兵を放ち大いに掠奪した。王浚の左右は防戦を請うたが、王浚はなお許さなかった。石勒は王浚の政堂に昇り、王浚はその堂から走り出たが、石勒の兵に捕らえられた。石勒は王浚の妻を召して、並んで座らせると、王浚を掴まえて自分の前に立たせた。王濬は罵って言った「胡どもが私をからかうなら、どうしてこれほど悪逆なのか」
石勒は言った「公(王浚)の位は極めて高く、強兵を掌握していたのに、本朝(晋)の転覆を見過ごし、救援しなかったばかりか、自身が天子になろうと欲した。この行為が悪逆でないというのか。また欲深い者達に委任し、百姓を虐げ、忠良な者達を損ない、毒は燕の土地にあまねく広がった。これは誰の罪であるというのか」
将の王洛生に命じ500騎で王浚を襄国まで護送した。王浚は自ら水に身を投げたものの、つかの間で出て、襄国の市で斬られた。
石勒は王浚麾下の精兵1万人を殺した。王浚の将佐は争うように軍門を詣で謝罪し、賄賂が飛び交った。さきの尚書である裴憲と従事中郎の荀綽だけは来なかった。石勒は彼らを召して詰りいった「王浚は暴虐で、私は彼を討って誅した。諸人はみな慶謝に来ているが、2君だけは王浚と悪を同じくしている。殺戮から逃れられようか」
裴憲らは答えて言った「裴憲らは代々晋朝に仕え、高い官職と俸禄を身に受けてきた。王浚は粗暴であったが、なお晋の藩臣であり、ゆえに裴憲らは彼に従い、あえて二心を持つことはなかった。殿がいやしくも徳義を修めず、専ら威光と刑罰を用いるなら、裴憲らはその分に従って死のう。どうして死を逃れようか、死なせてくれ」
拝礼せず退出した。石勒は彼らを召して謝り、客としての礼で待遇した。石勒は朱碩・棗嵩らを収賄・乱政によって幽州を患わせたと責め、游統を忠義に反する行動により責め、彼ら全員を斬った。王浚の将佐を調べたところ、親戚の財産はみな巨万となっていたが、裴憲・荀綽だけは書籍100余冊と塩・米をそれぞれ10余斛持っているだけだった。石勒は言った「私は幽州を得たことを喜ばない、二子(裴憲・荀綽)を得たことを喜ぶ」
裴憲を従事中郎とし、荀綽を参軍とした。流民を分遣し、おのおの郷里に帰した。石勒は薊に2日留まり、王浚の宮殿を焼き、かつて尚書だった燕国の劉翰を行幽州刺史・戍薊とし、守宰(役人頭)を置いて帰った。孫緯が帰路を遮って石勒を攻撃しようとしたが、石勒はすんでのところで免れた。
石勒は襄国に到着し、王浚の首を漢に差し出して戦勝を報告した。漢は石勒を大都督・督陝東諸軍事・驃騎大将軍・東単于とし、封国を12郡に増やした。石勒は固辞し2郡のみを受け取った。
劉琨は拓跋猗盧に兵を請うて漢を撃とうとしたが、ちょうど拓跋猗盧管轄の異民族1万余家が石勒に応じることを謀り、拓跋猗盧はこれらをことごとく誅し、劉琨の約に赴くことができなかった。劉琨は石勒に降伏する意思が無いこと知り、大いに恐れ、上表した「東北8州のうち石勒は7州を滅した。先帝(司馬熾)から領地を授かった者の中で、生き残っているのは私だけだ。石勒は襄国に籠り、私とは山1つを隔てているのみで、朝発すれば夕至る。小城は恐れおののき、忠義の心から憤っているが、力がついてこず思い通りにならない」
劉翰は石勒に従うことを欲さず、段匹磾に帰順した。段匹磾はついに薊城に籠った。王浚の従事中郎である陽裕は令支(河北省遷安市南西部)に逃げ走って段疾陸眷を頼った。会稽の朱左車、魯国(山東省南部)の孔纂、泰山(山東省中部)の胡母翼は薊より昌黎(河北省秦皇島市もしくは遼寧省錦州市)に逃げ走り、慕容廆を頼った。このとき、中国の流民で慕容廆に帰する者が数万家あり、慕容廆は冀州人を冀陽郡、豫州人を成周郡、青州人を営丘郡、并州人を唐国郡とした。
かつて王浚は邵続を楽陵太守とし、厭次(山東省浜州市恵民県)に駐屯させていた。王浚が敗れると、邵続は石勒に付き、石勒は子の邵乂を督護とした。王浚の管轄だった勃海太守で東萊(山東省東部)出身の劉胤は、郡を棄てて邵続を頼り言った「およそ大功を立てるには大義に頼る必要がある。君は晋の忠臣でありながら、どうして賊に従って自分を汚しているのか」
ちょうど段匹磾から邵続へ、ともに司馬睿に帰順する旨の檄文が届いていたため、邵続はこれに従った。人々は皆言った「いま石勒を棄て段匹磾に帰する、邵乂はどうするのか」
邵続は泣きながら言った「私は子をかえりみて叛臣となれようか」
異議を唱えた者数人を殺した。石勒はこれを聞き、邵乂を殺した。邵続は劉胤を江東に遣使した。司馬睿は劉胤を参軍とし、邵続を平原太守とした。石勒は派兵して邵続を包囲したが、段匹磾は弟の段文鴦に救援させ、石勒は引き返した。
襄国で大飢饉があり、穀物2升が銀1斤に相当し、肉1斤が銀1両に相当した。

5月、西平公の張軌は病で臥せ、遺言した「文武の将佐は百姓の安撫に努め、上は報国を思い、下は家をやすんずるのだ」
張軌は死んだ。諡号は武穆。長史の張璽らは世子の張寔が父の位を代行すると上表した。
劉曜と趙染が長安に侵攻した。

6月、劉曜は渭汭(涇水が渭水に合流する地点=陝西省西安市高陵区、もしくは渭水が黄河に合流する地点=陝西省渭南市潼関県)に駐屯し、趙染は新豊に駐屯した。索綝は兵を率いて出撃し、これを拒んだ。趙染には索綝を軽んじる様子があり、長史の魯徽は言った「晋の君臣は、強弱の点で敵わないことを自覚しながら、我らに死戦を挑もうとしている。決して軽んじてはならない」
趙染は言った「司馬模のような強敵でも私は簡単に倒してみせた。索綝はこわっぱであり、どうして私の馬蹄・刀刃を汚すことができよう」
早朝、趙染は軽騎兵数百を率いて索綝を迎え撃ち、言った「索綝を捕えたら、あとで食べてやる」
索綝と新豊城の西で戦い、趙染の兵は負けて帰った。趙染は悔しがって言った「私は魯徽の言葉を用いず、このような結果になったら、どのような面目で彼に会おうというのか」
まず魯徽を斬るよう命じた。魯徽は言った「将軍(趙染)は愚かさによって敗北を招き、そのうえ眼前の者を忌んで己を勝たせようとした者を害し、忠良な者を誅殺して私憤を晴らす。天地がこのままでは済まさない。将軍は寝床の上で死ぬことができるだろうか」
詔で索綝に驃騎大将軍・尚書左僕射・録尚書を加え、制を承けて事を行わせた。
劉曜と趙染は、再び将軍の殷凱と兵数万を率いて長安へ向かった。麴允は馮翊で迎撃したが、麴允は敗れ兵を収めた。夜、麴允は殷凱の軍営を襲い、殷凱は敗死した。劉曜は戻って河内太守の郭默を懐で攻め、3重の包囲線でこれを囲んだ。郭默は食糧が尽き、妻子を人質に送って穀物の購入を劉曜に請うた。購入が終わると、再び籠城固守した。劉曜は怒って郭默の妻子を黄河に沈め、郭默を攻めた。郭默は新鄭(河南省鄭州市新鄭市)で李矩に帰順しようとし、李矩は甥の郭誦に郭默を迎えさせたが、兵が少なく、あえて進まなかった。ちょうど劉琨が参軍の張肇に鮮卑500余騎を授けて長安に向かわせていたが、道が険しく不通のため帰っていた。李矩の軍営を通りがかり、李矩は張肇に漢軍を撃つよう説いた。漢軍は鮮卑兵を望み見て戦わず逃げた。こうしてついに郭默は兵を率いて李矩に帰順した。劉聡は劉曜を蒲坂まで召還した。

秋、趙染は北地(甘粛省東部と寧夏回族自治区および陝西省北西部にまたがる地域)を攻め、麴允が防戦した。趙染は弩にあたって死んだ。
石勒は州郡に戸籍調査を始めて命じ、各戸に絹2匹と穀物2斛を拠出させた。

10月、張寔を都督涼州諸軍事・涼州刺史・西平公とした。

11月、劉聡は晋王の劉粲を相国・大単于とし、百官を統べさせた。劉粲は若い頃は俊才だったが、宰相となってからは、おごっていて贅沢でわがままになり、賢者を遠ざけて佞人と親しみ、思いやりにかけ諫言を聞かなかった。国人(在地領主の意か)は劉粲を憎みはじめていた。
周勰は父の遺言に従い(313年4月参照)、呉人の怨みもあり、司馬睿に対し乱をなすよう謀った。
呉興功曹の徐馥に叔父で丞相(司馬睿は西晋の左丞相)の従事中郎である周札の命令を偽って称させ、人々を集めて王導・刁協を討つとした。豪傑は一丸となってこれについた。孫晧(三国呉で最後の皇帝)の一族である孫弼も広徳(安徽省宣城市広徳市)で挙兵してこれに応じた。

315年
1月、徐馥は呉興太守の袁琇を殺し、兵は数千となった。彼らは周札を主として奉じるよう望んだ。周札はこれを聞いて大いに驚き、義興太守の孔侃(孔子の後裔)に報告した。周勰は周札が同意しないことを知り、あえて動かなかった。徐馥の与党は恐れて徐馥を攻め殺した。孫弼もまた死んだ。周札の子である周続も兵を集めて徐馥に応じ、司馬睿はこれを討伐するため兵を派遣するよう議論した。王導は言った「今いる兵は少なく、賊を平らげるには足りない。大軍を動員すると根拠地が空虚となる。周続の族弟で黄門侍郎の周莚は、忠義果敢で謀に優れるため、彼一人を行かせることを請う。周続を誅するには十分であろう」
司馬睿はこれに従った。周莚は昼夜兼行し、郡に至った。まさに入ろうとするとき、門で周続に会い、周続に言った「君と共に孔府君(太守である孔侃)に詣でて議論したい」
周続が入ることを拒んだため、周莚は無理やり連れて行った。座が定まると、周莚は孔侃に言った「府君はなぜ賊をそのまま座らせたのか」
周続は衣服の中で常に刀を持っており、即座に刀を振るって周莚に迫った。周莚は郡吏の呉曽格に命じて周続を殺した。周莚は周勰の誅殺を欲したが、周札は承知せず、従兄の周卲に罪をなすりつけてこれを殺した。周莚は母を省みて家に帰らず、ついに長躯して去ったが、狼狽した母がこれを追った。司馬睿は周札を呉興太守とし、周莚を太子右衛率とした。周氏が呉の名門であるため、罪状を調べ上げることはせず、周勰も昔のように慰撫した。
詔で平東将軍の宋哲を華陰に駐屯させた。

2月、琅邪王の司馬睿を丞相・大都督・督中外諸軍事とし、南陽王の司馬保を相国とし、荀組を太尉・領豫州牧とし、劉琨を司空・都督并冀幽三州諸軍事とした。劉琨司空を辞して受けなかった。
南陽王の司馬模が負けてより、都尉の陳安は世子である司馬保の秦州(甘粛省天水市付近)に行き帰順していた。司馬保は陳安に千余人を率いさせ叛逆した羌族の討伐を命じ、待遇ははなはだ手厚かった。司馬保の将である張春はこの状況を憂慮し、陳安に異心があると讒訴し、陳安を除くよう請うたが、司馬保は許さなかった。張春は刺客を伏せて陳安を刺し、陳安は傷を受けて、隴城(甘粛省天水市清水県)に馳せ帰った。その後も陳安は遣使して司馬保を詣で、貢献は絶えなかった。
詔で拓跋猗盧の爵位を代王に進め、属官を置き、代・常山の2郡を食邑とした。
拓跋猗盧は并州従事で鴈門出身である莫含を劉琨に請い、劉琨は彼を派遣しようとした。莫含が行きたがらなかったので劉琨は言った「并州は孤立し弱く、不肖な私が胡(劉聡)と羯(石勒)の間で存続できているのは代王(拓跋猗盧)の力である。私は身を傾け財を尽くし、長子(劉遵)を人質としてまで彼に奉じている理由は、朝廷の大恥を雪ぐことをこいねがうからである。卿が忠臣であることを欲するなら、どうして私と共同で事をなすという小誠を惜しんで、国に殉ずる大節を忘れるというのか。行って代王に仕え、彼の腹心となれ、これは1州の頼るところなのだ」
莫含はついに行った。拓跋猗盧は彼を甚だ重んじ、常に大計に参与させた。拓跋猗盧は法を用いるに厳格で、国人で法を犯した者は、部を挙げて処罰した。老人と子供で手を取り合って行く者があり、人が「どうした」と問うと、「死にに行く」と言った。あえて逃げ隠れる者はなかった。

3月、漢で大赦改元が行われた。
漢の東宮延明殿で血のような雨が降り、皇太弟の劉义はこれを不審に思って、太傅の崔瑋・太保の許遐に問うた(ここの太傅・太保は三公ではなく皇太子・皇太弟を輔導する東宮三師と思われる)。崔瑋・許遐は劉义に説いて言った「主上(劉聡)がかつて殿下を皇太弟にしたのは、人心を安んじようと望んだだけである。今その本意は晋王(劉粲)にあって久しく、王公以下もみな迎合して彼についている。今また晋王を相国とし、威容の重々しさは東宮を超え、帝王の政務は全て彼を経由している。諸王はみな営兵を置き補佐となり(314年1月、劉聡は諸子を16大将軍に叙任)、事勢は既に去った。殿下はただ皇帝として立つことができないだけでは済まず、いつ不足の危険があってもおかしくない。早く計を実行するのが良い。いま四衛(東宮には前後左右の衛がある)の精兵は5千を下らない。相国(劉粲)は軽率なので刺客を1人送るだけでよい。大将軍(劉粲の弟で渤海王の劉敷)は毎日出勤しているので、その営所を襲えば取ることができる。他の王はみな幼いので奪うのはもとよりたやすい。もし殿下にその気があるなら、2万の精兵を掌握でき、鼓を鳴らして雲龍門より入れば、宿衛の兵はいずれも剣を交えることなく殿下を迎えるだろう。大司馬(劉曜)もこのような政変は予想していないことだろう」
劉义は従わなかった。東宮舍人の荀裕は、崔瑋・許遐が劉义に謀反を勧めていると報告した。劉聡は崔瑋・許遐を詔で収監し、他の事にかこつけて彼らを殺した。冠威将軍の卜抽に兵を授けて東宮の守備を監督させ、劉义を軟禁して朝会(諸臣が朝廷に参会すること)に出席させなかった。劉义はどうしてよいか分からず心配して恐れ、上表して庶人になることを乞い、あわせて諸子の封を除いて、晋王に褒美を与えて後継とするよう請うた。この上表は提出することができず、通じなかった。
漢の青州刺史である曹嶷は斉・魯エリアの郡県をことごとく得て、自身は臨菑(山東省淄博市臨淄区)を鎮守し、兵は10余万あり、黄河に臨んで戊(守兵)を置いた。石勒は上表して称した「曹嶷には東方を独占する志があり、これを討つよう請う」
劉聡は、石勒が曹嶷を滅したらもはや制御できなくなると心配し、許さなかった。
劉聡は中護軍の靳準(後に外戚として匈奴漢を崩壊させる)から靳月光・靳月華という2人の娘を妻として迎えた。靳月光を上皇后、劉貴妃を左皇后、靳月華を右皇后に立てた。左司隷の陳元達は口を極めて諫めた「三后の並立は、非礼である」
劉聡は悦ばず、陳元達を右光禄大夫とし、外面は優遇したように見せつつ、実際には権勢を奪った。ところが、太尉の范隆らがみな陳元達に位を譲りたいと言ってきたため、劉聡は陳元達を復職させ御史大夫・儀同三司とした。靳月光に淫行があり、陳元達はこれを奏上した。劉聡はやむを得ず靳月光を皇后より廃し、靳月光は恥じて怨み怒りながら自殺した。劉聡は陳元達を恨んだ。

4月、晋で大赦が行われた。

6月、漢の覇陵(劉恒=西漢文帝の墓)・杜陵(劉詢=西漢宣帝の墓)および薄太后陵(劉恒の母で、覇陵の南に設けられた)で盗掘があり、金と絹を大量に得た。晋は詔でその残余を国庫に入れた。
晋で大赦が行われた。
漢の大司馬である劉曜が上党を攻めた。

8月、劉曜は劉琨の兵を襄垣で破った。劉曜は陽曲への進撃を欲したが、劉聡は劉曜に遣使してこのように詔した「長安の平定がまだだ、そちらを先にやるように」
劉曜は帰って蒲坂に駐屯した。

9月、劉聡は大鴻臚を派遣して石勒に弓矢を下賜し、辞令で石勒を陝東伯とした。自由に征伐でき、州刺史・将軍・守宰(役人頭)を任命でき、列侯(漢では20等爵の最上位だったが、後に諸侯としては下位の位置づけとなった)を封じることができ、年末にまとめて報告すればよいとした。
漢の大司馬である劉曜が北地に侵攻し、晋は詔で麴允を大都督・驃騎将軍としてこれを防がせた。

10月、索綝を尚書僕射・都督宮城諸軍事とした。
劉曜は進軍して馮翊を抜き、太守の梁肅は万年(陝西省西安市閻良区付近)に逃げた。劉曜は上郡(現在地を同定できず)を転戦した。麴允は黄白城から去り、霊武(寧夏回族自治区銀川市霊武市)に軍を置いたが、兵が弱いためあえて進まなかった。
帝(司馬業)はしばしば丞相の司馬保より徴兵を行い、司馬保の左右はみな言った「胆力と見識のある人間は毒蛇に噛まれた腕を断ち切る(漢書・田儋伝にある発言に由来する)。いま胡族の侵攻がちょうど盛んなので、隴道(特定できず、陝西省と甘粛省にまたがる隴州の道といった意か)を断ってその変を観望するのが良い」
従事中郎の裴詵は言った「いま毒蛇は既に頭を噛んでいる、頭を断てるのか」
司馬保は鎮軍将軍の胡崧を行前鋒都督とし、しばらく諸軍を集めてから出発させた。麴允は皇帝を奉じて司馬保のもとに向かうよう望んだが、索綝は言った「司馬保が天子を得れば、必ず自己の志をほしいままにするだろう」
西遷は取り止めになった。こうして長安以西が再び朝廷に奉公することはなくなった。百官は飢えて貧しく、自生した穀物を採って生きながらえた。
涼州軍士の張冰が璽(玉に刻んだ印形)を得た。印文には「皇帝行璽」とあった。張寔に献上され、属僚はみな祝った。張寔は言った「これは人臣が持っていてはならない」
遣使して長安に返した。

316年
1月、晋の司徒である梁芬が呉王司馬晏(司馬業の父)の追尊を議した。尚書右僕射の索綝らは魏明帝(曹叡)の詔(229年)を引用し不可とした。太保を贈り、諡号を孝とした。
漢の中常侍である王沈・宣懐や中宮僕射の郭猗らは、みな寵愛され用いられた。劉聡は後宮で遊宴し、ある時は3日酔いから醒めず、ある時は100日出なかった。前年冬より朝事を見ず、政事は相国の劉粲に一切を委ね、ただ殺生や官職の叙任は王沈らを入らせて報告を受けた。王沈らは報告しないことが多く、勝手に決裁するようになった。こうして譜代の臣でありながら登用されず、悪賢くへつらう小人が数日で二千石(郡太守などの高官)に至るケースがあった。遠征軍が歳ごとに起こっているのに、将士に銭帛の褒賞はなかった。対して後宮の家では、賜り物が少年の召使いにまで及び、ややもすると数千萬となった。王沈らの車・服・邸宅は諸王を超え、子弟のうちで守令(郡太守と県令)となった者が30余人に及び、みな欲深く民を害した。靳準の一門はへつらって彼らに仕えた。郭猗と靳準はみな皇太弟の劉义に怨みがあり、郭猗は相国の劉粲に言った「殿下は光文帝(劉淵)のあとつぎとなる孫で、主上(劉聡)の嫡子であり、四海はみな心を寄せている。どうして天下を太弟に与えようとしているのか。また臣の聞くところによると太弟と大将軍(劉敷)は三月上巳(旧暦3月3日は上巳の節句)の大宴を利用して乱をなそうとしている。事が成れば、主上は太上皇となり、大将軍は皇太子となり、衛軍(衛大将軍の劉勱)は大単于となる。三王(劉敷・劉勱の二王の誤りか)は疑われておらず、いずれも大軍を掌握しており、彼らが事を挙げれば必ず成功する。ところが二王は一時の利を貪り、父兄を顧みないので、事が成った後、主上とて無事では済まない。殿下ら兄弟は言うまでもない。東宮・相国・単于の座は、武陵兄弟(劉义の息子達)が居るのだから、どうして他の人に与えられようか。いま禍の時が大層迫っており、早く彼らの計画への対処を図らねばならない。臣はしばしば主上に言っているが、主上は友愛が篤く、臣が宦官ということもあり、信じてもらえなかった。願わくは殿下、現在の状況を漏らさず密かに上表してほしい。殿下がもし臣を信じないなら、将軍従事中郎の王皮と衛軍司馬の劉惇を召せばよい。恵みある態度を装い、彼らの自首を許し、こうして問えば必ず知ることができる」
劉粲はこれを許可した。郭猗は密かに王皮・劉惇へ言った「二王が叛逆している状況は、主上および相国がつぶさに知っている。卿はこれに同意するか」
2人は驚いて言った「そのようなことはない」
郭猗は言った「この事はすでに決しており、私は卿が親類や旧友もろとも族滅されるのを憐れむのだ」
こうしてすすり泣き涙を流した。2人は大いに恐れて、叩頭して哀れみを求めた。郭猗は言った「私が卿のために一計を案じるので、卿はこれを用いたまえ。相国が卿に問わば、卿はただ『これ有り』と言え。もし卿が事前に報告しなかったことを責めてきたら、卿は言え『臣はまこと死罪に相当する。しかし主上の寛仁と殿下の情愛を考え、もし信じられなければ無実の誣告を行ったとして不測の誅罰に陥るため、あえて言わなかった』」
王皮・劉惇は許諾した。劉粲は彼らを召して問うた。二人は別々のタイミングで来たが、発言内容が同じだったため、劉粲も信じた。
靳準もまた劉粲に説いて言った「殿下は東宮に自身の居所を移しつつ相国を兼ね、早々に天下と繋がるようにするのが良い。いま市中の噂では、大将軍・衛将軍が太弟を奉じて変をなそうとしており、期日は季春(晩春、旧暦3月)であると皆が言っている。もし太弟が天下を得れば、殿下に身の置き所はない」
劉粲は言った「どうしたらいい」
靳準は言った「太弟に政変の企てありと人が告げても、主上は決して信じない。東宮の禁固を緩め、賓客に往来させるのが良い。太弟は平素から人士の接待が好きなので、必ず嫌疑を招くような行為に及ぶ、軽薄な小人で太弟に迎合し謀をなす者がきっと現れる。その後で下官(役人が自身をへりくだって言う1人称)が殿下のために彼らの罪を明らかにする。殿下はその賓客や太弟と交流する者を捕えて問いただし、囚人の言葉がつぶさになれば、主上も信じずにはいられない」
劉粲は卜抽に命じて東宮から兵を去らせた。
少府の陳休・左衛将軍の卜崇は、人となりが清く正しく、平素から王沈らを憎んでおり、公の席でも言葉を交わさず、王沈らはこれを深く病んでいた。侍中の卜幹は陳休・卜崇に言った「王沈らの勢力は天地を回転させるほどである。卿らの親密さ賢さは竇武・陳蕃と比べてどう思うのか(東漢において、外戚の竇武と清流派知識人の陳蕃が宦官の排除を図ったが、宦官に誅殺された)」
陳休・卜崇は言った「吾輩は年齢が50を超え、職位は既に高く、あとは死ぬだけだ。忠義のために死ぬのは本望である。どうして従順な態度で宦官に仕えようか。去れ、卜公(卜幹)。二度と喋るな」

2月、劉聡は出て殿の西閣に臨み、陳休・卜崇および特進の綦毋達・太中大夫の公師彧・尚書王琰・田歆・大司農の朱諧を捕えるよう命じ、彼らを並べて誅した。彼らはみな宦官に憎まれていた。卜幹は泣いて諫めた「陛下はかたや席を避けて賢者を求めながら、ひと朝に卿大夫7人を殺すという。彼らはみな国に忠良で、落ち度など無い。かりに陳休らが有罪だったとしても、陛下が彼らを担当の役人に下してその罪状を明らかにしなければ、天下はどうして彼らの罪状を知れようか。詔はなお臣のところにあり、まだ外に示してはいない、願わくは陛下これを熟考されよ」
こうして叩頭流血(流血するほど額を床に打ち付ける行為)した。王沈は卜幹を叱っていった「卜侍中(卜幹)は詔を拒みたいというのか」
劉聡は衣服を払って入り、卜幹を免官して庶人とした。
太宰で河間王の劉易・大将軍で渤海王の劉敷・御史大夫の陳元達・金紫光禄大夫で西河王の劉延らはみな宮城に詣で諫めを上表していった「王沈らは詔勅の趣旨を矯めて弄び、天体の運行をあざむき、内は陛下にへつらい、外は相国におもねり、権威の重さは人主に匹敵する。悪党を多く樹立し、毒は海内に流行している。陳休らが忠臣で国のために志節を尽くしていたことを知り、自身の罪状が発覚することを恐れ、こうして巧みに陥れた。陛下は察することができず、にわかに極刑を加えた。痛みは天地を貫き、賢者も愚者も恐れている。いま晋の残党は滅びておらず、巴蜀の使者は来訪せず、石勒は趙魏での割拠を謀り、曹嶷は斉全域の王たらんとしている。陛下の内臓・四肢に患いの無いところなどどこにあろうか。再び王沈らが乱を助け、巫咸(殷の占い師、名医ともされる)を誅し、扁鵲(春秋戦国時代の名医)を殺戮し、ついに膏肓之疾(心臓と横隔膜の間の疾病、つまり不治の病)となることを臣は恐れている。後で救おうとしても及ばないだろう。王沈らを免官し、役人に渡した上で罪の取り調べと処分を行うよう請う」
劉聡は上表を王沈らに示し、笑って言った「我が子たちは陳元達に引き込まれ、ついに愚か者となった」
王沈らは頓首(地に頭をすりつけるように拝礼)して泣きながら言った「臣ら小人は、陛下の覚えめでたく抜擢され、近臣を掃除する機会を頂いた。しかるに王公・朝士は臣らを敵のように憎み、また陛下を深く恨んでもいる。臣らを釜ゆでの刑に処すことを願う。そうすれば朝廷は自然と和睦するだろう」
劉聡は言った「かれらの狂言は常のことで、卿を恨むつもりはない」
劉聡は王沈らに関して相国の劉粲に諮問した。劉粲は王沈らが忠義・清廉であると盛んに言った。劉聡は悦び、王沈らを列侯に封じた。太宰の劉易は再び宮城に詣で、上奏し言葉を極めて諫めた。劉聡は大怒し、上奏文を自らの手で破いた。

3月、劉易は憤怒して死んだ。劉易は平素より忠義かつ正直で、陳元達は彼を頼ることで、争ってでも諫言を全うすることができていた。劉易の死に臨んで、陳元達は彼のために慟哭して言った「『人之云亡,邦國殄悴』(詩経·大雅·瞻卬からの引用:心ある人が亡くなると、国家は衰退するといった意)、私は再び諫言することができない。どうして黙って生き延びようというのか」
陳元達は帰って自殺した。
かつて、代王の拓跋猗盧は年少の息子である拓跋比延を愛し、後継にしたいと思い、長男の拓跋六修を新平城に出させ、その母も退けた(遠くに出すor降格)。六修は駿馬を持っており、1日に500里走った。猗盧はこれを奪い、比延に与えた。六修が来朝すると、猗盧は比延にも礼拝するよう指示したが、六修は従わなかった。そのため猗盧は比延を自分の步輦(人力の駕篭)に座らせ、従者を付けて出かけさせた。六修は駕篭を望んで猗盧と思い、伏して道路の左に避けたが、来たのは比延だった。六修は憤怒して去った。猗盧は六修を召したが来ず、大怒して兵を率いて六修を討伐しようとしたが、六修に敗れた。猗盧は身なりをやつして民間に逃げたが、身分の低い婦人に猗盧と面識のある者が居り、ついに六修の手で殺された。
拓跋普根(前出、拓跋猗㐌の息子で、六修のいとこ)は外側国境の守備にあたっていたが、難を聞いて駆けつけ、六修を攻めてこれを滅ぼした。普根が代わりに立ち、国中は大いに乱れ、新旧(新人=晋・烏恒、旧人=鮮卑)は嫌疑し、お互い殺し合った。
左将軍の衛雄と信義将軍の箕澹は、久しく猗盧を補佐し、人々は彼らについていたが、彼らは劉琨に帰順しようと謀り、人々に言った「聞くところによると旧人は新人が勇敢に戦うのを恐れて、ことごとく殺したがっているという。どうするか」
晋の人と烏恒はみな恐れ驚き、言った「生死は2将軍に従う」
こうして劉琨からの人質である劉遵と晋人および烏桓3万家・馬牛羊10万頭を率いて劉琨に帰した。劉琨は大いに喜び、自ら平城に詣でてこれを受け入れた。劉琨軍はこれより再び振るった。

4月、拓跋普根が死んだ。その息子は生まれたばかりだったが、普根の母である惟氏はこれを立てた。
張寔は将軍の王該に歩兵騎兵5千を授けて長安への援軍として派遣し、また諸郡に献上簿を送った。詔で張寔を都督陝西諸軍事とし、張寔の弟である張茂を秦州刺史とした。
石勒は石虎を派遣して廩丘の劉演を攻め、幽州刺史の段匹磾は弟の段文鴦に救援させた。石虎は廩丘を抜き、劉演は段文鴦軍に逃げた。石虎は劉演の弟である劉啓を捕えて帰った。

7月、漢の大司馬である劉曜は北地太守の麴昌を囲み、大都督の麴允は歩兵騎兵3万を率いて麴昌を救援した。劉曜は城の周囲に火を放ち、天を蔽うほどの煙が起つと、間者を用いて麴允に報告させた「郡城は既に落ち、行っても及ばない」
麴允軍は恐れて潰えた。劉曜は追撃して磻石谷(陝西省銅川市付近にあったとされる)で麴允を破り、麴允は霊武に逃げ帰った。劉曜はついに北地を取った。
麴允は性格が慈悲深いものの決断力がなく、爵位を与えて人を悦ばせることを好んだ。新平太守の竺恢、始平太守の楊像、扶風太守の竺爽、安定太守の焦嵩、彼らはみな征・鎮(四征・四鎮将軍の号)、杖節(刑罰権を象徴)を領し、侍中・常侍を加えられた。村や砦を率いる者は、小者であっても銀青将軍(銀印・青綬:九卿や二千石相当)の号を仮に与えられた。ところが恩恵は下に及ばず、ゆえに諸将は驕ってほしいままに振る舞い士卒は恨み離れた。関中の危機に麴允は焦嵩へ急を告げた。焦嵩は平素から麴允を侮っていたため言った「麹允が困窮するのを待ってから彼を救おう」
劉曜は進んで涇陽(陝西省咸陽市涇陽県)に到着し、渭水の北の諸城はことごとく潰えた。劉曜は建威将軍の魯充、散騎常侍の梁緯、少府の皇甫陽を捕えた。劉曜は平素から魯充の賢才を聞いており、人を募ってこれを生け捕りにし、会うと彼に酒を下賜して言った「我は君を得た。天下を定めるに十分であろう」
魯充は言った「自身は晋の将となりながら、国家は敗亡し、あえて生を求めるつもりはない。もしあなたが恩を与えてくれるなら、速く死ぬことこそが幸である」
劉曜は言った「義士なり」
魯充に剣を下賜し、自殺を命じた。
梁緯の妻である辛氏は容貌が美しく、劉曜は召いて見ると、まさに彼女を妻として迎えようとした。辛氏は大いに哭いて言った「私の夫は既に死に、義は独り生きるのを良しとしない。また1人の婦人が2人の夫に仕えるという、殿はどうしてこれを用いるというのか」
劉曜は言った「貞女なり」
また自殺を許し、みなでこれを礼葬した。
劉聡は亡き張后の侍女である樊氏を上皇后とし、三后のほかに皇后の璽綬を佩く者が7人となった。寵愛により面倒を引き起こし、賞罰が混乱した。大将軍の劉敷はしばしば泣いて切に諫めた。劉聡は怒って言った「お前は私に速く死んでほしいのか、朝も夕も泣くために生まれてきたのか」
劉敷は憂い憤り、発病して死んだ。
河東・平陽でイナゴが大発生し、民のうち流亡するか餓死する者が10人中5-6人となった。石勒は将の石越に騎兵2万を授けて派遣し并州に駐屯させ、流民を招き入れた。民で石勒に帰する者が20万戸となった。劉聡は遣使して石勒を責めたが、石勒は命を受けず、ひそかに曹嶷と結んだ。

8月、漢の大司馬である劉曜が長安に迫った。

9月、劉聡は光極殿で群臣と宴を行い、皇太弟の劉义を引見した。劉义の顔は憔悴し、髪には白髪が混じり、泣いて陳謝した。劉聡もまた劉义のために慟哭した。大酒を飲んでとても交歓し、待遇は昔のように戻った。
焦嵩、竺恢、宋哲はみな兵を率いて長安を救おうとした。散騎常侍の華輯は、京兆・馮翊・弘農・上洛の4郡の兵を監督し、霸上に駐屯した。彼らはみな漢の兵が強いことを恐れ、あえて進まなかった。相国の司馬保は胡崧に兵を授けて援軍として派遣した。胡崧は霊台(長安の西に周文王の霊台があった)で劉曜を攻撃し、これを破った。胡崧は国威が再び振るうと麴允・索綝の勢いが盛んになるのを恐れ、長安城西の諸郡の兵を率いて渭水の北に駐屯し、進まず槐里(陝西省咸陽市興平市)まで戻った。
劉曜は長安の外城を攻め落とし、麴允・索綝は後退して小城を保って守りを固めた。内外は断絶し、城中ははなはだ餓え、米1斗が金2両に相当し、人々はお互いを食らい合い、死者が大半となり、逃亡は制御できなくなった。ただ涼州の義兵千人(張軌・張寔が派遣)は死守して逃げなかった。太倉(国都におかれた大穀倉)に麹(米や麦を発酵させたもの)が数十の塊であり、麴允はこれを砕いて粥として帝(司馬業)に供したが、これも尽きた。

11月、司馬業は泣いて麴允に言った「いま厄が窮まることかくのごとし、外に救援なく、恥を忍んで出て降り、もって士民を活かすべし」
そしてため息をついて言った「我が事を誤った者は麴允・索綝の2公である」
侍中の宗敞を派遣して劉曜に降伏の意思を示す文書を送ろうとした。索綝はひそかに宗敞を留め、息子を派遣して劉曜に説いた「いま城中の食はなお1年を支えるに足り、いまだ勝つのは容易でない。城の降伏を望むなら、索綝が儀同三司・万戸の郡公となることを許可せよ」
劉曜は使者を斬って送り返し言った「帝王の戦は義をもって行う。私が兵を率いて15年、未だかつて詭計で人を破ったことはない。必ず兵を窮めて勢いを極めて、しかる後にこれを取った。いま索綝はこのようなことを言い、天下の悪にこれ以上のものがあろうか。よってこれを殺した。もし兵の食糧が本当に尽きていないのなら、固守に精を出すがよい。もし食糧が尽きて兵が弱っているなら、もはや天命であると悟れ」
宗敞が劉曜の軍営に到着した。翌日、帝は羊の車に乗り、肉袒(脱衣して上半身を表す、降伏時の作法の1つ)・銜璧(璧を口に含む、降伏時の作法の1つ)・輿櫬(棺を従えて死の覚悟を示す、降伏時の作法の1つ)し、東門より出て降った。群臣は号泣し、車にすがって皇帝の手を執った。皇帝もまた悲しみを抑えきれなかった。
御史中丞で馮翊出身の吉朗は嘆いて言った「我が智では謀をなせず、我が勇では死ぬことができず、どうして君臣が相従って逆賊に北面して仕えることを忍んでいられようか」
こうして自殺した。
劉曜は棺を焼いて璧を受け、宗敞に命じて皇帝を奉じ宮に還らせた。劉曜は皇帝および公卿以下を自身の軍営に移した後、平陽に移送した。
劉聡は光極殿で司馬業に臨み、司馬業は劉聡の前にひざまずいた。麴允は地に伏して慟哭し、扶け起こすことができなかった。劉聡は怒ってこれを捕らえた。麴允は自殺した。劉聡は司馬業を光禄大夫とし、懐安侯に封じた。大司馬の劉曜を仮黄鉞・大都督・督陝西諸軍事・太宰とし、秦王に封じた。大赦・改元した。麴允はきわめて忠義心が厚かったため、車騎将軍を追贈され、節愍侯と諡された。索綝は不忠だったため、市中で斬られた。尚書の梁允、侍中の梁濬ら、および諸郡の太守はみな劉曜に殺された。華輯は南山(現在地を同定できず)に逃げた。

放論
八王の乱が終わって永嘉の乱というイメージをなんとなく持っていたが、八王の乱の真っただ中から匈奴漢の跋扈は始まっていた。
司馬越が八王の乱を収拾したころには、山西に匈奴漢、四川に成漢が独立していた。他にも司馬穎の残党(公師藩・汲桑・石勒)が河北で、王弥が山東で、陳敏が江東で各々活動していた。既に西晋は統一王朝としての支配力を失っていたのだ。
状況を好転させようと歩み寄った司馬顒を拒絶して内乱を続けた司馬越には、責任の一端がある(周囲に担ぎ上げられてやむを得ずという印象を強く持ったが)。
また、老荘・清談は言い過ぎとしても、好酒・奢侈など享楽的な風潮や政治への無関心が司馬炎以降に蔓延し、司馬越もそうした者を要所に配置していた。この点も西晋崩壊の1要因として言及しておきたい。

かつて拓跋部と結びつき、西晋の最高権力者である司馬穎の打倒に貢献した司馬騰。彼が匈奴漢に圧迫されて并州から南に逃げ、更に鄴で敗死してより、西晋の状況は悪化の一途をたどっていた。
王浚・劉琨・張軌・苟晞・司馬睿など秩序維持に貢献した者達も現れたが、目論見の不一致もあり西晋の破綻を押しとどめることはできなかった。
そのように厳しい状況下、司馬越は最後に洛陽から出鎮する以前より本拠地を転々としており、なんとも浮ついた対応であるという印象を持った。しかしながら、逆に見ると本拠地に拘らず国家にとって最も必要な場所へ転々と身を移す様子は、曹操や拓跋珪といった英雄的資質を感じさせる。
最後の出鎮とて、根源地を確保した上でそこからの軍事支援によって洛陽の危機を救うという次への布石だったのかもしれない(かつて洛陽で王弥を撃退した時のように)。不運にも司馬越自身の寿命により、彼の目論見は果たされず、勢力滅亡という結果のみが残った。

司馬越に限らず、悪いタイミングで劉弘などの重鎮を失った様子が印象に残った。なかでも特に司馬虓は、護国の要となる苟晞や劉琨を輩出し、司馬頴の身柄を引き受けるなど、北方への抑えとして欠かすことのできない存在だったように思う。

根源地である山西の支配すら不完全な匈奴漢が西晋を蹂躙したこと。これは、洛陽と長安が北方からの軍事的脅威に対し脆弱であるという地理的限界を明らかにしている。
東晋・南朝や永楽帝以前の明など漢人王朝には建康・南京を首都にしたものが多い。北伐後の桓温は、古来より中華の中心だった洛陽に遷都するよう提案したが却下された。劉裕による北伐後や陳慶之による北伐後、洛陽に対する熱量は、桓温北伐後のそれよりさらに低かった。こういった判断の背景には、西晋滅亡から得られた歴史的教訓があったと考えられる。

江東は孫呉の旧領ということもあり、晋の秩序に対する反抗心が旺盛な風土であった。そんな場所が晋室にとって最後の拠り所となったのは、なんとも皮肉なことである。地理的条件は勿論重要だが、それを成し遂げた王導の剛腕はやはり特筆すべきである。

八王の乱を始めとして自ら混沌を招いた西晋に対し、匈奴漢は劉淵死亡に伴う代替わりをさしたる混乱もなく乗り切った。この点で劉聡の業績は評価しておきたい。しかしながら、後宮の乱れを中心に後世の禍根を積み上げていく様子も見て取れる。乱倫で大きく失点している劉聡だが、最愛の女性とおぼしき単氏との悲しい別れに言及したい。二人を引き離したのは、漢族の婚姻流儀、漢族が皇帝に求める後宮の在り方である。単氏の死による衝撃で劉聡がこれらをかなぐり捨てたのだとしたら、私自身は劉聡を批判することに慎重でありたい。ある意味で胡漢融合の難問に初めて懊悩した皇帝と評価できるのかもしれない。

宦官・佞臣の跋扈により、陳休・陳元達らが死んでいく様子は何とも哀しいが、ある意味では漢の復古といえる。のちに劉曜は国号を趙と改めている。石勒への対抗意識と解釈されることが多いけれども、劉聡や劉粲とは違った姿のリーダーでありたいと願ったのかもしれない。

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