以下に概要を示す。いちおう八王とされる者たちに番号を付すが、重要でないプレーヤーが含まれる。一方で、乱の行方を左右した王でない者達が居る。
第一段階 賈南風政権
・皇后の賈南風が皇太后一族の楊氏を排除した上で、汝南王司馬亮①・衛瓘を政権に参画させた
・楚王司馬瑋②は司馬亮・衛瓘を殺し、直後に賈南風が司馬瑋を殺した
(権力闘争に明け暮れた賈南風だったが、賢臣の張華・裴頠などを任用し国政は安定していた)
第二段階 諸王による朝政の壟断(首都洛陽の求心力はある程度維持)
・続いて賈南風は、不仲だった皇太子司馬遹を抹殺したが、大義名分を得た趙王司馬倫③らが政変を起こし、賈氏は滅ぼされた
・勢いに乗った司馬倫だったが、拙速な皇帝即位を行い自滅した
・その後も朝政の主宰者が現れては滅びる事態となった(斉王司馬冏④、長沙王司馬乂⑤)
第三段階 地方軍閥化した諸侯による主導権争い
・実質的な権力は、鄴を掌握した成都王司馬穎⑥と長安を掌握した河間王司馬顒⑦の2強にあり、西晋はすでに統一政権としての体をなさなくなった
(もともとは許昌の軍権を有する司馬冏との3頭体制だったが、司馬冏は上洛することで自らの強みを失い、兵の手薄を司馬乂に突かれ滅びた)
・中でも皇太弟である司馬穎が最も有力で、恵帝司馬衷を奉じた東海王司馬越⑧の鄴侵攻を撃退して恵帝を捕虜とするなど力を示した
・ところが、司馬穎は幽州の群雄王浚への対応を誤った、司馬穎に暗殺されそうになった王浚は、并州の群雄で司馬越の弟司馬騰や異民族の鮮卑・烏桓と連携して逆襲した、司馬穎は鄴を失陥し、軍権を失うとともに政治生命を絶たれた
(司馬穎は匈奴の劉淵に独立の機会を与え、匈奴漢=前趙の端緒を作った、また後に華北の支配者となる後趙の石勒も司馬穎陣営に身を投じていた)
第四段階 群雄と連携した司馬越が勝利し、乱は終焉
・司馬越は王浚らと連携して関東(函谷関より東側)の支配を確立、その後に長安の司馬顒を攻撃し、不利な司馬顒は降参したが結局殺された
乱のあらましは以上となる。振り返ると、皇后外戚の専横→地方に封じられた諸王の放埓ということで、儒家・名士に寄り添った西晋の弱点が浮き彫りになった出来事といえる。
おまけ①:八王の乱後の西晋滅亡
八王の乱を制した司馬越だったが、新たに皇位についた懐帝司馬熾(彼は司馬顒により皇太弟に据えられていた)や名将苟晞と対立した。匈奴漢の脅威を前にしてもなお団結を欠いた西晋は、急速に華北での支配圏を失っていった。
西晋朝廷で手詰まりとなった司馬越は、現状打破を目指して洛陽から出鎮したが志半ばで病没した。司馬越の一党は本拠地である東海郡もしくは司馬睿の居る建康を目指したとされるが、途中で石勒に捕捉された。
かつて石勒を奴隷に落としたのは、司馬越の弟司馬騰の配下であった。また、石勒は司馬穎陣営に身を投じていた。これらの事情から、石勒は司馬越一党10万人を惨殺した。
主要な防衛戦力である司馬越を失った洛陽は、匈奴漢により蹂躙された。司馬熾は捕虜となり、やがて殺された。
西晋の残党は長安に拠り司馬鄴を立てて愍帝とした(皇帝との名前被りで建業は建康に改名となった、鄴が司馬晋支配であったならこちらも改名していたであろう)が、匈奴漢の攻撃によりあえなく敗退。司馬鄴は司馬熾と同じ末路を辿った。
最終的に司馬晋の系譜は建康に拠った勢力のみとなった。司馬睿を元帝として東晋を建国し、しばらくその命脈を保つことになった。
おまけ②:司馬穎vs司馬越の文脈は後世まで続いた?
五胡序盤の主役にあたる匈奴漢(前趙)と後趙はともに司馬穎陣営から分岐した勢力であり、反司馬越・反東晋であった。
一方、五胡中盤から終盤に重要な役割を果たした鮮卑慕容部は、晋の庇護を得ることで周辺諸部族との勢力争いを有利に進めようとした。東晋になってもその姿勢は変わらず、少なくとも慕容儁が皇帝を名乗るまでは、親東晋ひいては親司馬越勢力であったと見做せる。
また、五胡終盤以降の主役であった鮮卑拓跋部は、司馬騰・劉琨と司馬越派の群雄を軍事的に支え、その後も概ね東晋に臣従することで生き残りを図った。北魏・北斉・北周・隋・唐はいずれも鮮卑拓跋部の流れをくむ国家である(東魏は北斉期の一部、西魏は北周期の一部とみなす)。よって、胡族の中で親司馬越・親東晋であった鮮卑拓跋部が、華北統一したことによって南北朝へ移行し、中華統一したことによって隋唐時代へ移行したと解釈することもできる。
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