爾朱栄の記事を書くために色々調べていると、その長女の生涯にも興味を持った。そこで、簡単に紹介することとした。
北史に従って彭城太妃爾朱氏としたが、大爾朱氏と呼ばれることが多い。爾朱栄の娘と爾朱兆の娘が、どちらも北魏皇后を経た後に高歓の側室となっており、後者は北史において小爾朱と記されているからである。
北史 巻14 列伝第2 后妃下
彭城太妃爾朱氏は、栄の娘、魏の孝荘(元子攸)の皇后である。
神武(高歓)は彼女を側室として迎えると、婁妃(正室の婁昭君)より重んじ、爾朱氏と会うときは必ず束帯を身に着け、下官を自称した。
高歓が蠕蠕公主(柔然リーダー・郁久閭阿那瑰の娘)を妻に迎えて帰ってきたとき、爾朱氏は木井(河北省秦皇島市盧龍県木井鎮)の北でこれを迎えながら、蠕蠕公主と前後別れて進み、両者は会わなかった。
蠕蠕公主が角弓を引いて空を翔ぶトビを仰ぎ射ると、弦に応じ落ちた。爾朱妃が長弓を引いて飛ぶカラスを斜めに射ると、また一発で当たった。高歓は喜んで言った「私のこの2婦人は、どちらも賊に打ち勝つことができる」
後に尼となり、高歓は彼女のために仏寺を建立した。
天保年間(西暦550-559年)の初め、太妃となった(北斉建国に伴い、高歓との息子高浟が彭城王へ封ぜられたことによる)。
文宣(高洋)が酒で狂って、太妃に無礼を働こうとし、太妃は従わなかったため、殺された。
北史・爾朱栄伝に記される爾朱氏関連のエピソード
栄の娘は先に明帝(孝明帝・元詡)の嬪となっていたが、元子攸の皇后に立てようとした。
元子攸は躊躇した。
(先帝の妻であり、元子攸から見て元詡は従兄の子にも当たるため、抵抗感が大きかったのだろう)
給事黄門侍郎の祖瑩が言った「かつて文公(晋の姫重耳)が秦に居たころ、懷嬴(秦穆公=嬴任好の娘で晋懐公=姫圉の妻、重耳から見て圉は甥にあたる)を宮に入れた。経に反しているようだが義には適っている、なぜ陛下は独り疑うのか」
元子攸はついに爾朱氏の立后を受け入れ、爾朱栄は喜んだ。
皇后は嫉妬深く、他の妃嬪を嫌った。
元子攸が栄の要請を断って怒りを買った出来事もあり、皇后は言った「天子は我が家のおかげで立つことが出来た、今皇帝でいられるのもそうだ。我が父は今日にでも皇帝を新たに立てられる、今そうしようか」
皇帝は外に権臣から迫られ、内に皇后から迫られ、万乗の君として重んじられないため常に怏々としていた。
妊娠した爾朱皇后は体調が思わしくなく、その看病のため栄はしばらく洛陽に来ていた。
(元子攸はこれを利用して爾朱栄を暗殺した)
西林園(洛陽の後宮にあった庭園、西游園とも称す:銭国祥 「漢魏洛陽城宮城調査における新発見とその構造」)で射の宴を開くときは、常に皇后(皇帝+皇后か皇后単独か、微妙なところ)の出観を請い、あわせて王・公・妃・公主も招き、一堂に集まらせた。
天子が射て当たるたびに、栄自ら直ちに立って舞い騒いだ、周囲の者も同じようにせざるを得ず、女性陣も例外ではなかった。酒宴がたけなわになると、今度は座って歌った。
放論
北族としての習俗を維持し、狩猟を好んだ爾朱栄。娘である爾朱氏にも狩猟や射撃の心得があった。柔然の公主と射撃の腕を競った出来事は、爾朱氏が北族としての技芸に誇りを持っていたことを示す。
もともと爾朱栄の部下だった高歓は、栄の死後に爾朱氏勢力と対立した末、北魏の実権を手に入れた。このような経緯にもかかわらず、高歓は栄の娘を特別に重んじた。
爾朱氏勢力と対立したとはいえ、爾朱栄本人に対して強い敬意を持っていたのだろう。
また、爾朱栄は美男子とされるが、その容姿の見事さは娘に伝えられていたかもしれない。
しかしながら、夫や他の妻達を軽んじる彼女の尊大な態度は、栄の傀儡元子攸の許では通用しても、最高権力者となった高歓相手だと問題があった。後ろ盾となるべき父爾朱栄の死後なら猶更である。
高歓生前に尼となった北史の記載は、プライドの高い爾朱氏による家庭内の摩擦から、彼女が退場させられた事情を暗示する。
北方民族における婚姻形態の特徴として、levirate(レヴィレート、レビレート、レビラトと一般的に表記されるが、リーダーズ英和辞典第3版の発音記号は /lεvərət/ なので採用しなかった)がある。
levirateは、子の無いまま夫と死別した妻が、血筋を絶やさないために夫の兄弟と結婚する慣習、と定義される。亡き父の妃を息子が娶るケースや、前夫との間に子供が居るケースも、levirateに含めることがある。
北方民族がlevirateをしばしば行った理由としては、権力の継承を確かなものにするため、婚姻で結ばれた部族間の絆を代替わりした後も持続させるため、といったものが想定されている。一方中華において、levirateは道徳的見地から忌避された。
両者の文化的ギャップから生じる葛藤は、しばしば史書に記される。西漢(前漢)の王昭君は匈奴の呼韓邪に嫁いだが、夫の死後に義理の息子・復株累若鞮の妻となった。王昭君は帰国を希望したものの、劉驁(西漢の成帝)は「胡俗に従え」と勅書を出した。
北魏の皇族・元氏は、北方民族由来でありながら、華北支配の長期化と共に漢化が進み、末期の元子攸の頃には、広義のlevirateというべき爾朱氏との通婚に対し、強い抵抗感を抱く状況となっていた。
対して北斉の皇族高氏はしばしばlevirate的行為を行った(高洋→高澄の妻元氏、高湛→高洋の妻李祖娥)。
爾朱氏を妻に迎えた高歓だが、北魏の元皇后であり、なおかつ先代最高権力者の娘ということで、levirate的要素を看取することができる。
爾朱氏の死因となった高洋による無礼だが、あるいはlevirateの強要だったのかもしれない。
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