五胡末から南北朝と長期に渡って存在感を示した北魏、爾朱栄がその転機になったことは間違いない。以前から魏書爾朱栄伝に興味はあったが、今回読んでみることにした。
ただし、北斉期編纂の魏書は、正史でありながら多くの曲筆が指摘され「穢史」とも呼ばれるいわくつきの書である。魏書を読む際は、常に北斉政権・編者魏収によるフィルターを意識する必要がある。
唐代成立の北史にも爾朱栄の列伝があるため、魏書に準拠して記載しながら、食い違う所は適宜追記する。
爾朱栄伝 (魏書 巻74列伝第62、北史 巻48列伝第36)
爾朱栄、字は天宝、北秀容郡(現在の山西省忻州市)の人。祖先が爾朱川(忻州市付近を流れる川)に居たため爾朱氏になった。代々部族を率いた。
高祖父(4代前)の爾朱羽健は、部族長として北魏に出頭したことが初めて記された。彼は契胡(*)の武士1700を率いて北魏に従い、晋陽・中山を平定した。これにより散騎常侍となり、詔で秀容川の3百里四方に封ぜられた。太祖(道武帝・拓跋珪)御世の初め、秀容川以南が肥沃であることから羽健はそちらに移住することを希望し、拓跋珪はこれを受諾した。羽健は世祖(太武帝・拓跋燾)の頃死んだ。
曽祖父の爾朱鬱徳・祖父の爾朱代勤が部族長を継いだ。
代勤は拓跋燾の敬哀皇后(拓跋晃の生母、賀氏)の舅であり、外戚であるとともに度重なる征伐に功があり、給復百年(100年分の賦役免除もしくは100年分の秩禄保証、上手く読み取れなかった)、立義将軍(三国魏で設けられた雑号将軍、品秩不詳)に任じられた。代勤が山を囲んで猟をした際、獣を撃とうとした部民の矢が代勤の腰に当たった。代勤は矢を抜くと、「ただの過誤であり、何の罪があろうか」とその部民を不問にした。部族内はこれを聞き、代勤の考えに大層感心した。高宗(文成帝・拓跋濬)の末、寧南将軍・肆州刺史となった。高祖(孝文帝・元宏)は代勤に梁郡公の爵位を授与した。敬老の拓跋宏は、代勤に帛(絹)100匹を毎年下賜した。91歳で死んだ。帛500匹・布200匹と鎮南将軍・並州刺史が贈られた。諡号は荘。
父の爾朱新興は太和年間(西暦477-499年)に部族長の位を継いだ。家は栄え、富は豊かだった。新興が馬で移動している時に、頭に角2本を備えた白蛇と遭った。新興は「もし神が居るなら、私の牧畜を増やしてほしい」と言った。その後、その通りになった。北魏の朝廷が征討を試みる度に、新興は馬と飼料を提供し、軍を助けた。元宏はこれを喜び、右将軍・光禄大夫に任じた。洛陽遷都後、冬に洛陽で参朝しながら、夏は部落に帰ることを許された。新興が入朝する毎に、王公や朝廷の貴官は競って珍品を新興に贈り、新興は名馬で返礼した。輔散騎常侍・平北将軍・秀容第一領民酋長となった。新興は春秋のミッドシーズンに、妻子と川で牧畜をみて、自ら射猟を楽しんだ。粛宗(孝明帝・元詡)の頃、新興は老齢を理由とし、息子の爾朱栄に爵位(梁郡公)を伝えるよう求め、朝廷はこれを許諾した。正光年間(520-525年)に、新興は74歳で死んだ。散騎常侍・平北将軍・恒州刺史を贈られた。諡号は簡。
爾朱栄は色白で容姿に優れ、幼い頃から神機明決だった。長ずるに及び、射猟を好み、周囲の人々に軍律に関する誓いを立てさせた。号令は厳粛で敢えて犯す者は居なかった。父新興が栄と池の上で遊んでいると、簫鼓(笛と太鼓)の音が聞こえた。新興は栄に言った「古老が相伝えるところによると、この音を聞いた者は皆公輔(天子を補佐する三公・輔相)に至るという、私はもう年だから、お前のことだ、しっかり励めよ」
栄が父の爵位継いだ後、直寝・游撃将軍となった。正光年間に四方で兵乱が起き、畜牧は散失した。栄は義勇軍を集め、彼らに衣服・馬を支給した。蠕蠕(柔然)のリーダー阿那瑰が北魏の北辺を侵した。栄は詔によって仮節・冠軍将軍・別将に任ぜられ、都督の李崇に従って北征した。栄は部族4千で柔然を追撃し、砂漠まで追いかけたが及ばず戻った。その後、叛逆者の乞扶莫・萬子乞真・素和婆崘嶮らを相次いで討伐・平定した。直閣将軍・冠軍将軍・別将となった。
内附叛胡の乞、歩落堅胡の劉阿如らが瓜州・肆州で乱をなし、敕勒の北列歩若が沃陽で叛いた。栄はこれらを滅ぼした。この功で安平県の開国侯、食邑1千戸となり、通直散騎常侍を加えられた。敕勒の斛律洛陽が桑乾の西において迭相掎角と共に叛いた。栄は騎兵を率いて彼らを撃破し、平北将軍・光禄大夫・仮安北将軍・北道都督となった。その後、武衛将軍・使持節・安北将軍・都督恒朔討虜諸軍・仮撫軍将軍となった。爵位は博陵郡公に進み食邑が5百戸増えた。前爵の梁郡公は爾朱栄の第2子に与えられた。
時に栄は兵を率いて肆州に至ったが、肆州刺史の尉慶賓が爾朱栄を恐れ憎み、門を閉じて栄らを受け入れなかった。栄は怒ってこれを攻め落とし、親族の爾朱羽生を刺史とし、尉慶賓は秀容に連行された。栄の兵威が次第に盛んになっていたため、北魏朝廷はその罪を責められなかった。鎮北将軍となった。
鮮於修礼の反逆により、栄は東方を討伐した。征東将軍・右衛将軍・仮車騎将軍・都督並肆汾広恒云六州諸軍事・大都督・金紫光禄大夫となった。時に杜洛周が中山を陥落させ、車駕(天子、元詡)はまさに北方への討伐を呼びかけ、栄を左軍としたが、実行されなかった。葛栄が杜洛周の勢力を併呑し、兇賊の勢いは一層盛んになった。(爾朱)栄は賊が南下して鄴城に迫ろうとしていることを恐れ、騎兵3千を派遣して、東方の相州(鄴のある州)を救援することを求め上表したが、元詡は許可しなかった。車騎将軍・右光禄大夫・儀同三司に昇進した。
栄は、勢い盛んな山東の賊が西に向かってくることを憂慮し、滏口に派兵し防衛線を敷いた。
また上書していった「先の2州における頻繁な反乱により、大軍を失っている。河北は無援で、賊の南方への侵略は実に憂慮すべきである。故に私は精鋭騎兵3千を出して相州を救援しようとした。そうすれば賊は南下して洛陽を狙うことが出来ず、賊も私が派兵した報を聞けば南下計画を止めていたはずだ。使者が戻って勅を確認したら『念生の首を取り、宝夤を捕まえた、醜奴・明達は相次いで降伏した、三輔は天下が静謐であると報告し、関隴地方も安寧となった。費穆と大翦が蜀の狂徒を降した。心配は無用である』とあった。北海王・元顥が兵2万を率いて相州に向かうと聞いた。彼は皇孫で、名声・位階ともに北魏で重きをなしており、彼なら鄴を鎮撫できると群衆も望んでいる。広く兵を募って早く派遣されることを願っている。いま関西は平穏になったが、まだそこからの兵役に期待できない。山南も賊に隣接し、兵の召集は出来ない。中央軍は兵力に優れるものの、北方の兵にしばしば苦杯をなめさせられており、怖気づいて役に立たない。ここで何か手を打たないと手遅れになる。私の見たところ、柔然のリーダー阿那瑰は我が国からの恩に報いる機会を求めている。彼の軍を東に送って賊の背後に当たらせ、賊の前面は元顥に備えさせるのが良い。私の兵は少数ながら、身命を尽くして、井陘以北・隘口(滏口の誤字?)以西の要害を防御しながら、賊の側面を攻めよう。葛栄は杜洛周に並ぶ存在だが、賊軍の掌握は不十分である。いまなら形勢を大きく変えられる」
栄は部曲を厳しく制御しながら、広く義勇軍を召集し、北の馬邑で防ぎ、東の井陘で塞いだ。
元詡が死んだ、栄はこれを聞いて大いに怒り、鄭儼・徐紇のせいだと元天穆らと密議の上で称兵した。朝廷に入って鄭儼・徐紇らを討とうとした。
抗議文にいった「皇帝が死んだ報に驚いた。皇帝は毒殺されたと周囲は言っていて、自分にも思うところがある。先月25日に皇帝は元気だったのに、26日に急死した。これは疑わしい。また、天子の病床には侍臣が左右を離れず、名医の診察もあり、皇帝の肉声や遺言を受けるはずである。にもかかわらず今回医者を招いておらず、死亡時に近侍した者も居なかった。これで世間が怪しみ阻喪しないわけがなかろう。それに、后が生んだ女児を皇太子と偽って朝野を惑わし、虚しく慶賀を行った。宗廟の霊を欺き、万民はこれに失望した。卵を700個重ねたような危うさで、社稷は一日にして潰えた。赤子を君主に据えるようなことになれば、奸賊がのさばるだけだ。詔を弄んでフィクサーになりたいのだろうが、眼を覆いながら雀を捕えようとしたり耳を塞ぎながら鐘を盗もうとしたりするようなもので得る物などない。いま秦隴・趙魏エリアの支配が揺らいでいる。宝夤・醜奴の勢いは幽州・雍州に迫り、葛栄・就德興が黄河下流や沿岸部を掌握し、南朝梁の軍勢も接近している。昔から国が良く治まらなければ隣国の福であると言う。もし我が国の現状が伝われば、周囲の者らは皆我が国を狙うだろう。先君は聖徳を有した正統な君主だったが、それでもなお叛乱が頻発し賊は滅びなかった。いわんや今は佞臣と親戚の言葉に従って、潘嬪の娘で百姓を騙し、録に喋れない君主(元釗、3歳)に臨政させている。これで海内を安寧にしたくとも、できた前例は聞いたことが無い。願わくは、よく考えて、忠誠・誠実な私を朝廷に招いて、国政に参与させてほしい。侍臣に先帝の死因を問い、よく分からない現状を尋ね、徐紇・鄭儼らを成敗し、天子の恥を雪ぎ、遠近の怨みを謝す。その後、適齢の宗親を皇帝に立てれば、四海は改めて蘇り、百姓は幸甚となる」
こうして栄は洛陽に向け兵を発した。霊太后(胡太后)は甚だ恐れ、李神軌を大都督とし、太行山脈の森林地帯で防ごうとした。
栄は抗議文の初めに、爾朱天光(下世代の親族)・奚毅・王相を洛陽に派遣し、従兄弟の爾朱世隆と密かに廃立を議論させた。天光は元子攸(後の孝荘帝・敬宗)と会って、栄の意向を伝えたところ、元子攸はこれを受諾した。天光らは北へ還り、栄は晋陽を発した。
元子攸を立ててよいかなお疑ったため、孝文帝・元宏および咸陽王・元禧ら六王(北史では五王)、それぞれの子孫の銅像を鋳造して、無事立ったものを君主に奉じることとした。元子攸の像のみが見事に立った。
栄の軍は河内に接近し、その上で王相を派遣し、元子攸を迎えさせた。元子攸・兄の元劭・弟の元子正は密かに黄河を渡って、爾朱栄軍に合流した。栄軍の将兵は万歳を連呼した。武泰元年(528年)4月9日のことである。
11日、栄は元子攸を皇帝とし、詔により使持節・侍中・都督中外諸軍事・大将軍・開府・兼尚書令・領軍将軍・領左右・太原王となった。食邑は2万戸。
12日、百官は皆、元子攸の行宮(皇帝が首都から行幸した際に設けられる宮)に参朝した。
13日(河陰の変)、栄は武衛将軍・費穆の説に惑い、行宮西北に百官の駕を迎え、祭天行事を行いたいと伝えた。朝士が集まったところ、騎兵達がこれを囲み、天下の喪乱と元詡の死亡理由を責めた。兵による王公・卿士の一方的な虐殺となり、死者は1300余人(北史では2千余人)であった。どさくさで元子攸の兄弟である元劭・元子正も殺された(北史によると、栄が行宮に兵を派遣し彼らを殺している)。霊太后と少主(元釗)もこの日に死んだ(北史によると、二人とも黄河に沈められた)。栄には皇位を望む大志があり、御史の趙元則に禅譲文を作らせた(北史によると、遅れてやってきた朝士達に対して、禅譲文を作れば助命すると脅し、趙元則が応じた)。数十人を派遣し、元子攸を河橋に遷した。夜の四更(午前1―3時もしくは午前2―4時)にまた元子攸を南の行宮に還した。
元子攸は怒ることもできず、人を遣って栄を説得した「帝王の座は度々変わって、盛衰無常、魏は天運が尽き、四方は瓦解した。将軍(爾朱栄)は義によって起兵し、阻むものがない、これは天の意であり、人の力ではない。私が身を投じたのは命を保ちたいからであり、帝位に拘るつもりはない。ただこれは、将軍に迫られ、権力者の要請に従っただけだ。いま、爾運が移り、天命が将軍の方にあるのなら、皇帝に即位すればいい。将軍が私を推戴することに不満があり、なお魏の社稷を保ちたいのであれば、改めて賢明な親族を選び、ともに輔戴しよう」
栄は考えを変え、金を鋳て自分の像を造ってみた。4体試したがいずれも失敗した。時に劉霊助という占いに長けた幽州人がおり、栄は彼を信任していた。彼による占いの結果も天時・人事ともに不可であった(北史によると、爾朱栄は自分の次に元天穆の擁立を考慮していたが、劉霊助は元子攸以外を不吉とした)。爾朱栄はトランス状態となり、自分の体も支えられなくなった。その後しばらくして悔悟した。
献武王(高歓)や司馬子如らの切諫により、不可の理屈が連ねられた。
栄は言った「過ちを犯した、死をもって朝廷に謝罪すべきだが、今は安危を分ける大事な時期だ、どうすればいいか」高歓らは言った「長楽王(元子攸)を皇帝にすれば天下は安んじる」
これにより元子攸に奉還した。
(高歓が爾朱栄の簒奪を諫止した一連のエピソードは、北史で掲載されていない)
14日、天子の車は洛陽宮に入った。
ある者は栄が晋陽への遷都を欲していると言い(北史によると、実際に遷都を計画していた)、ある者は肆州の兵が掠奪を行うと言った。洛陽の人たちは恐怖で動揺し、皆逃げて出仕する者がいなかった。栄はこれを聞いて、上書した「私は国家に多大な貢献をしてきた。太后が淫乱で、孝明帝崩御の暴挙からついに義兵を率い、社稷を扶けた。陛下は登極したばかりで、人情は不安で、大兵の交戦があるが、統一への道のりは遠い、諸王や朝廷貴勲に横死する者が多く出ている。私は身を粉にして働いているが、まるで力が及ばない。けれども、陛下はそんな私を追って徳をほめてくださる。これを不朽という。できればその慈しみをもって私の言うところを聞いていただきたい。無上王の死後には帝号を贈り、諸王・刺史には三司(三公と考えたが儀同三司の可能性もある)、三品官には令僕(尚書令と尚書僕射か)、五品官には方伯(州刺史か)、六品以下や無官には鎮郡(鎮将・郡太守か)を贈っていただきたい。後の居ない死者には継ぐことを許して、封爵を授けられたい。階級の高下に応じて広く存亡に配慮すれば、これまでの生死に慰めもあろう。」
詔に言う「上表を見て、喉がつかえた。朕に徳行が足りず残酷な出来事であった。彼らのことは今でも思い出す。上表のごとくしてよろしい」
これより後、追贈の濫発により、官爵が有難がられなくなった。後の武定年間(543-550年)に、北斉の文襄王(高澄)がこの失策を改め、追贈の秩序を取り戻した。
(北史にも官爵追贈に関する記載はある、高澄による濫発の修正は記載なし)
栄は帝を通じて洛陽城内を巡回・慰問する使者を派遣し、これにより人心は安定、逃げていた朝士も戻ってきた。栄はまた、幹部が直接顔を合わせる機会を奏上し、毎月の新月と満月の日に、三公・令僕・尚書・九卿・司州牧・河南尹・洛陽河陰における執事の官が引見し、国政・王道を議論する定例会を設けた。
5月、栄は晋陽に帰った。
7月、詔にいう「天地が万物を統御し、星がその功を称える。皇王が天運をめぐらし、股肱の臣がその事業を助ける。周が危機を迎えた時、斉晋(桓公と文公)が忠を示して済世を行った。殷朝が崩壊しそうになった時、彭韋(詳細不明、彭祖+韋姓の誰か、古国の彭=江蘇省徐州市と韋=河南省安陽市滑県、上古五覇に列せられる大彭氏と豕韋氏、豕韋氏は後に彭国へ遷り彭姓を名乗った)がこれを救った。先に王朝が統御を失い厄運がやってきた、そんな中、太原王栄は朕を推戴し、万国に臨む立場をくれた。その功績は伊霍(伊尹と霍光;あえて周公旦を挙げなかったのは異姓の輔政者にフォーカスするためか)を超える。王室は壊れず、人々は栄を頼っている。栄を柱国大将軍・兼録尚書事とし、旧職はそのままとする」
時に葛栄が京師(洛陽)に向かおうとし、その数は号百万。相州刺史の李神軌(李神軌は河陰の変で死んでおり、李神と思われる)は閉門して守備に徹した。賊は汲郡(河南省北部)を過ぎ、賊の所在地となった砦や村では悉く惨殺・略奪が行われた。栄はこの討伐を申し出た。
9月、栄は精鋭騎兵7千を率い、兵1人に馬を複数揃え、通常の倍の速度で昼夜兼行し、滏口を出て東に向かった。葛栄は賊となって久しく、河北を横行していた。栄の軍は比較的少数で葛栄の敵ではない(衆寡敵せず)と考えられていた。識者は言った「栄に賊を制するのは理論上不可能」と。葛栄はこれを聞いて喜び、兵達に言った「我々の楽勝だ、皆は縄を持って、彼らが着いたら捕縛しよう」
葛栄は鄴の北に数十里に渡って兵を並べ、隊列を維持しながら進軍した。栄は山谷に奇兵を潜ませ、督将3人を1処に配置、1処あたり騎兵数百、塵を揚げて鼓を騒がせ、賊から実数が分からないようにした。人と馬の接戦では刀より棒の方が有利ということで、各兵に棒を1本持たせ、馬の側面に置かせた。戦時に首を斬り取ることを禁じ、棒で叩くのみとした。これは首級を挙げるために騎兵達が奔走を止めてしまうことを考慮してのものである。栄は勇壮な兵に命じて突っ込ませた。号令は厳明で戦士は奮戦した。栄自ら賊の陣営を突破し、賊の後方に出た。前後から合撃し、賊を大破した。葛栄は陳の地で捕らえられ、残りの者達は悉く投降した。
栄は賊徒が多いことから、分割を急ぐと再結集する可能性があることを恐れた。そこで、各々の好みや親族に従い、好きなところに居住して良い、と布告した。群衆は喜び、各々の思う所へ四散した、数十万居た賊徒が1日で居なくなった。百里外れたところに役人を待たせて交通整理や安住の手配を行い、いずれも上手くいった。渠帥というリーダーを選び出し、能力に応じて任務を与え、新住する者は皆安んじた。当時の人々は、栄の処分が適切であることに感服した。葛栄は檻車で洛陽宮城に送られた。
元子攸は長い詔を下して爾朱栄を絶賛、大丞相・都督河北畿外諸軍事とし、食邑を1万戸増やし、これまでのものと通算し3万戸とした。他の官位は全て旧来のものを維持した。
当初、栄が葛栄をまさに討とうとするとき、襄垣県(山西省長治市)で狩りを行った。馬の前にウサギが2羽現れた。栄は馬を躍らせ弓を引いて言った「当たれば葛栄を捕えられる、当たらなければ捕らえられない」栄は兎を射殺し、三軍は喜んだ。賊を撃破した後、そこに碑が立てられ、「双兎碑」と名付けられた。
戦中の夜、栄は夢を見た。ある人が葛栄に千本の牛刀を求め、葛栄は当初これを拒否した。その人は自身を道武皇帝(拓跋珪)と名乗り、葛栄の行為を咎めた。そして、その後葛栄から奉納された刀を手ずから栄に授けた。目覚めた栄は喜び、必勝を知った。
元子攸は再び長い詔を下して栄の功績を称えた。冀州の長楽・相州の南趙・定州の博陵・滄州の浮陽・平州の遼西・燕州の上谷・幽州の漁陽、この7郡から各1万戸を太原国の食邑に加え、通算10万戸とした。太師に昇進し、旧職はそのまま維持した。
建義(528年)の初め(資治通鑑によると528年旧暦4月)、北海王の元顥が蕭衍の南朝梁に亡命した。蕭衍は元顥を北魏の皇帝に据えようとし、将兵を授けた。時に邢杲が三斉地方で乱を起こし、元顥と呼応した。北魏朝廷は元顥が孤立し弱小であることから、それほど重視しなかった。
永安3年(530年;資治通鑑・北史では、元天穆による邢杲平定、爾朱栄による元顥撃破を529年の出来事としている)春、大将軍の元天穆に対し、先に斉の邢杲を平定し、その後元顥の征伐に向かえ、という詔が出た。
元顥は、元天穆の大軍が留守のうちに、道なき道を進んで梁国を陥落させ、太鼓を鳴らしながら西行した。滎陽・虎牢どちらも元顥を防ぎ止めることが出来なかった。5月、車駕(皇帝・元子攸)は行幸の体裁で洛陽から河北へ逃げた。
この不慮の事態を受け、天下が北魏に失望した。晋陽の栄はこれを聞き、即座に馬車で上党郡長子県(山西省長治市長子県)の行宮へ参朝し、事態への対処を開始した。
天子の車を南に向け、栄が先導した。10日間で、兵馬が大量に集まり、食糧・武器も次々と到着した。元天穆は既に邢杲を平定していたが、黄河を北に渡って元子攸と合流した。
元顥軍都督の宗正珍孫と河内太守の元襲は固守し投降もしなかったが、栄はこれに攻め勝ち、珍孫・元襲を斬って周囲に知らしめた。元子攸は河内城に入った。
栄と元顥は河上で対峙し、元顥は元延明(都督・安豊王)に黄河沿いでの守備を命じた。栄はまだ艦船を持っていなかったため、なかなか渡河できなかった。
そこで、一度北に還って次の機会を図ることが議論された。黄門郎の楊侃・高道穆(高恭之、道穆は字)らは、大軍を動かしながら北に還れば天下が失望すると、断固反対した(詳細は楊侃列伝=魏書列伝第46、高恭之列伝=魏書列伝第65に掲載)。
小船数艘を確保し、現地のガイドを求めた。栄は都督の爾朱兆らに精鋭騎兵を授けて夜間の渡河を行わせ、黄河南岸に登って奮戦させた。元顥の息子で領軍将軍の元冠受は、歩騎5千を率いて抗戦したが、爾朱兆はこれを大破し、元冠受を捕えた。元延明は冠受が捕らわれたことを聞くと逃散し、元顥は部下と共に南奔した(この様子は元顥伝=魏書列伝第9上に掲載)。
元子攸は黄河を渡り、洛陽の華林園に入居した。
詔に云う「(省略:いつも通り言辞を尽くして栄を激賞)非常の功績には非常の恩賞が必要である。天柱大将軍とする。この官についてこれまで聞いたこと無いだろうが、実は太祖(拓跋珪)以前に置かれていたことがある。格式は典故に従い、特別待遇とする。また封邑を10万戸増やし、通算20万とする。また前後羽葆鼓吹を与える(雉の羽で装飾された鼓を2部下賜すること、天子に繋がる権威を示し、三国蜀漢の諸葛亮が最初の事例とされる:小林聡 「漢唐間における鼓吹と女楽の下賜」)。他は従前どおりとする」
栄は晋陽に還った。
これより前、葛栄の分派である韓楼が幽州・平州で活動していた。栄は都督の侯淵に討伐させ、これを斬った。
賊将の萬俟醜奴・蕭宝夤が豳州・涇州で多数の軍勢を擁し、勢いは日に日に盛んになった。栄は爾朱天光を雍州刺史として派遣し、都督の賀抜岳・侯莫陳悅らを添えて関中に向かわせ、賊を撃とうとした。天光は雍州に到着したが、兵が少なくて敵わないと逡巡し、なかなか参集しなかった。栄は激怒して、騎兵参軍の劉貴を派遣し、天光に杖打ちの罰を加えた。天光は大いに恐れて討伐を開始、賊を連破し、醜奴・宝夤を捕え、共に檻車で洛陽宮城に送った。
天光は王慶雲・萬俟道楽も捕え、関西は悉く平定された。これにより天下(北魏)の大難は終息した。
栄は猟を好み、寒暑の中でも休憩しなかった、列をなして包囲線を進める場合、必ず揃っていなければならず、険阻な道にあっても、避けてはならず、虎豹を包囲から漏らした者は死罪となった。この厳格なルールに部下達は大層苦しんだ。
太宰の元天穆は落ち着いて栄に言った「大王の功績は天下を救い、四方は無事である。今後は政治を調えて民を養い、適切な時期に狩りを行われたい。なぜ盛夏に駆け巡って和やかな雰囲気をかき乱すのか」
栄は肘を払って言った「太后女主は自らを正すことが出来なかった、天子を推奉するのは、これ人臣として常に守るべき節操である。葛栄の輩は元々凡才だったが、時流に乗じて乱をなし、妄りに暑中休暇を取った結果、奴隷のように敗走し、捕らえられ終わった。このごろ私は国家から大いなる寵遇を受けているが、国境開拓・天下統一は出来ていない、これで何の功績があるというのか。朝士達がだらけていると聞いたので、この秋に兄(元天穆と爾朱栄は義兄弟の契りを結び、元天穆が兄)と兵馬を揃え、高原で狩りを行い、貪欲で汚れた朝廷の貴人達に虎の包囲や捕獲を手伝わせたい。魯陽を出て、三荊を渡り歩き、南方の異民族を北に連行し六鎮の補填を行う。軍を巡回させる際に、汾胡の平定も同時に行う。明年に精鋭騎兵の選出・訓練を行い、江淮地方(淮水と長江に囲まれたエリア、しばしば南北朝の係争地となった)に多方面から進出し、蕭衍がもし降伏したら、万戸侯とし、もし降らなければ数千騎で長江を渡り、彼を捕える。六合(四方天地)の統一、八表(全世界、八方向の極めて遠いところ)の戦塵が無くなるのを待ち、しかる後に兄と共に天子を奉じて四方を巡行し、各地の風俗を観、政教を流布し、こうして初めて勲功を称することが出来る。いまもし猟を止めれば、兵士はだらけ、二度と使えなくなる」
栄は自身が洛陽の外に居ても、常に遠方から朝廷を支配していた。親戚を皇帝の左右に多く配置してその動静を伺い、大小に関わらず必ず知るところとなった。あるいは幸いにして官職を求める者があれば、みな栄を詣でてお伺いをたて、請い願うことが出来れば、成し遂げられないものはなかった。かつて定州の曲陽県(河北省保定市曲陽県)の長官を補欠する時、吏部尚書の李神俊は当初の候補者に奉公精神が希薄なことを懸念し、別の人を当てようとした。栄はこれを聞いて激怒し、すぐに候補者を派遣し、その任を奪わせた。
栄の使者が洛陽に入ると、それが下っ端であっても、へりくだらない高官は居なかった。彼らが宮門の下に達して、まだ上奏できないと待たされると、栄の威勢を恃んで、甚だ怒った。
栄は河南諸州を北人に明け渡すよう求め、元子攸は許可しなかった。
元天穆が洛陽に入り、元子攸の面前で言った「天柱(爾朱栄)は既に大功があり、もし彼が天下の属官をあまねく代えたいと請えば、陛下にこの意向を違えることはできない。数人に州を明け渡すだけなのに、ダメなのか」
元子攸は改まった顔つきで言った「もし天柱が人臣でないつもりなら、朕は速やかに交代しなければならない。彼になお臣としての節度があるのなら、天下の百官を代える道理は無い。この件についてこれ以上の議論は不要である」
栄はそれが許されなかったことを聞いて、非常に怒って言った「天子は誰のおかげで即位できたのか、今どうして私の言葉を用いないのか」
元子攸は栄に外から迫られ、常に怏々として楽しまなかった。また河陰の事について栄を懲罰しようとしたが、なかなか実行できなかった。城陽王の元徽・侍中の李彧らは権威の独占を欲し、栄に害されることを懼れ、彼らと栄との隔たりは日々大きくなっていた。ここにおいて、元子攸は栄に対する殺意を密かに持つようになった。
永安3年(530年)9月、栄がまさに入朝しようとした。朝士は政変が起こることを心配し、元子攸は栄を憎んだ。栄の従弟爾朱世隆は栄に参内しないよう書状を送り、栄の妻である北郷公主(拓跋晃の孫、元楨の娘)も行かないよう勧めたが、栄はそれらの忠告に従わなかった。元子攸は栄の暗殺計画を立て、栄と対面した時にこれを害しようとしたが、元天穆が傍らに控えていたため、暗殺後の患いを恐れ、計画は未発となった。
栄が洛陽に入った時、皇帝による栄の暗殺計画を知らせてきた人が居た。栄が即座に奏上し状況確認したところ、帝は言った「部外者に、王(太原王・爾朱栄)は我を害そうとしている、と告げてくる者がいた、我はこれを信じるべきであろうか(そのような風説は嘘に決まっている)」
ここにおいて爾朱栄は疑念を解き、参内し元子攸に謁見したが、従者は数十を超えず、また従者達は皆武器を持たなかった。
元天穆が到着すると、元子攸は明光殿の東側廊下に兵を伏せ、栄を引見し、栄の長男爾朱菩提や元天穆らも共に招き入れた。皆が席に着くと、光禄少卿の魯安・典御の李侃晞らが抜刀してやってきた。
栄は追い詰められ、元子攸の座所に向かった。元子攸は前もって膝下に刀を隠しており、ついに自身の手で爾朱栄を斬り殺した。魯安らは爾朱栄に連なる者達を手当たり次第に斬っていき、栄・天穆・菩提の全員が同時に死んだ。
栄は時に38歳だった(天穆は42歳、菩提は14歳)。
ここにおいて内外は歓喜の叫びをあげ、その声は洛陽城内に満ちた。大赦が行われた。
*契胡について
詳細不明だが匈奴系異民族とされる。「胡」には異民族全般を指す場合と匈奴系異民族に限定した意味合いを持つ場合があり、後者ということなのだろう。
後趙の羯族と同一視する史家(陳寅恪)も居るが、これも匈奴系という前説に矛盾はしない。
祖父の爾朱代勤が敬哀皇后賀氏の親戚ということで、賀蘭部との関係は想定される。個人的には、契丹との関連なども妄想したくなる。
契胡が拓跋の華北平定に尽力したことといい、匈奴独狐部の劉庫仁が協力的だったことといい、拓跋部=鮮卑族の定説にふつふつと疑問が湧いてくる。
史書において、石虎・赫連勃勃といった匈奴系君主が悪逆非道ぶりを強調されているのも含め、北魏や唐で何らかの作為があったのではないだろうか。
放論
河陰の変では、太后・幼帝・朝臣の殺害だけが注目されがちだが、禅譲ギリギリの状況であったことに注目したい。踏み込んでいえば、爾朱栄はこの時点で北魏の転覆・自身の登極を企図しており、一般に河陰の変として解釈されている虐殺行為は、そのプロセスに過ぎなかったのではないか。
しかしながら、拓跋の王朝は100年以上続いており、元宏による洛陽遷都・各種漢化政策からも35年経っていた。結果的に、爾朱栄の武力・権勢をもってしても、長い時間をかけて醸成された北魏の秩序を短時間で打破することはできなかった。
魏書は、河陰の変を費穆一人の責任に帰し、高歓が簒奪を諫止したと記載している。ところが、周書の賀抜岳伝(巻14列伝第6)では全く別の内容が記載されている。高歓が簒奪を勧めた主要人物であったため、賀抜岳は高歓を殺して元子攸に謝罪するよう提言しているのだ。周書は唐時代の編纂で、典拠は隋の国史とされる。北周・隋・唐いずれも賀抜岳が率いた武川鎮軍閥の流れを汲む国家であり、周書にバイアスを含む可能性は否定できない。それでもなお、魏書と周書を比べれば、高歓は簒奪側だったと想定すべきであろう。
中国史を代表する名将として、陳慶之の名はしばしば挙がるが、爾朱栄について議論されたケースを寡聞にして知らない。精強な騎兵を有したであろう北族反徒を全て倒し、大軍を用いたとはいえ陳慶之すら撃退しているにもかかわらず、である。
爾朱栄は各地方で着実に反乱鎮圧の成果を挙げており、その上ただ戦争に強いだけでなく、葛栄戦後の処理など統治にも抜かりがなかった。爾朱栄には間違いなく英雄の資質があった。
それに対し、辺境で叛逆が相次いだにもかかわらず、洛陽で権力を弄んだ霊太后主導の北魏朝廷にはあまり同情出来ない。
輔政者の地位に飽き足らず、簒奪を窺った爾朱栄の倫理観はしばしば批判されている。しかしながら、輔弼を美徳とするのは中華古来の儒家的思想であり、北族の爾朱栄やその周囲、現代を生きる我々がそれに付き合う必要はないはずである。
元子攸、彼が爾朱栄に対して行った諸々の政治的駆け引きは、なかなか巧みであり、爾朱栄を元天穆や長男爾朱菩提とまとめて誅殺したことも含め、爾朱氏王朝の頓挫に大きく貢献した。しかしながら、爾朱栄暗殺は後に、残存勢力が元子攸を殺す大義名分となった。六鎮の乱・河陰の変に続く元子攸殺害により、北魏の命脈が尽きるのは最早時間の問題となった。
爾朱栄は狩猟・水遊びを好んだアウトドア派で、六鎮の乱では朝廷側に付いたものの、元宏以来の漢化・文治を苦々しく思っていたようだ。金人鋳造を繰り返したこと、西郊祭天(元宏が北魏古来の西郊祭天から中華風の南郊祭天に改めた)をアナウンスしたことなど、彼の復古的性格は列伝にも記されるところである。皇帝として、あえて元宏傍系の元子攸を推戴したのも、彼なりの意図に基づいていた可能性がある。
ただ、結果的に簒奪に向かうのであれば、適齢かつ才気に富んだ元子攸を選んで皇帝に立てた行為は目的に合わなかった。幼帝を立てた霊太后へのアンチテーゼとして元子攸を奉じるプロセスが一度は必要だったとしても、彼女を除いた後は元子攸に拘らず自身に好都合な傀儡を据えるべきだった。河陰の変における簒奪未遂で、わだかまりを生じてしまったのだから猶更である。そのあたりの義理立てというか革命に徹し切れなかった詰めの甘さこそが、重要な局面で占いに頼ったことと合わせて、爾朱栄が大業を成就させられなかった理由と考えている。
爾朱氏政権が疑似部族連合体の域を出なかったことに、その限界と短命の原因があったと指摘する論文があり(小島典子 「北魏末期の爾朱栄」)、私も首肯する。
たとえ、爾朱栄が暗殺されなかったとしても、胡漢融合の解を示せなかった彼らの政権は、爾朱栄という核を失えば早々に崩壊しただろう。
コメント