封禅(ほうぜん)とは、中国の帝王が政治上の成功を天地に報告する国家的な祭典である。
泰山(山東省泰安市にある標高1,545mの山)の山上に祭壇を作り、天に対してまつりを行う「封」、泰山の麓にある小山を払い清め、地に対してまつりを行う「禅」、この二つの祭祀を組み合わせることで封禅が成立する。
伝説上は三皇五帝以来とされるが、史実だと趙政(秦の始皇帝)によって行われたものが最初である。彼の事績からすると、封禅に不死を祈願する性質があったことにも注目すべきであろう。
趙政の創始した仕組みのうち、皇帝の称号は、易姓革命の理論を根拠に、その時々の権臣が容易に簒奪できるようになり、徐々にその格を落としていった。三国時代以降、中華統一せずして皇帝を名乗る例が頻出したのも大きい。
一方で封禅については、統一王朝以外で行われた事例は基本的に無く、その格は概ね保たれていた。
ここで特筆しておきたいのは西晋の司馬炎である。中華統一した司馬炎には封禅を行う資格があったにもかかわらず、彼はそれを行わなかった。司馬昭の地盤を引き継いだだけなので謙譲の美徳を示した、という言説が専らなされているが、加えての放論を試みたい。
実は、呉の孫晧が封禅と称する祭典を行っていたのだ。中華統一しておらず、ましてや泰山の掌握すらできていない孫晧の封禅は全く正統性がない。司馬炎は軽はずみに封禅を行った孫晧への対抗心から、自身は封禅を行わず、封禅の重みを再定義しようと試みたのではないだろうか。また、そんな孫晧ごときの征伐など封禅に値する成功ではない、という当てつけの意図があったかもしれない。
司馬炎による封禅再定義の影響か、続く東晋十六国・南北朝で封禅は行われていない。
楊堅(隋の文帝)は封禅を行ったが、李世民(唐の太宗)は封禅を行っていない。
李世民がなぜ封禅を行わなかったか、今も中国内においてしばしば議論されている歴史テーマである。
李世民が封禅を行えなかった理由として、真っ先に思いつくのは、遼東の高句麗である。遼東は既に中華の一部と見做されるべき領域であり、それを残した唐がまだ厳密な意味での統一王朝に達していない、というのが李世民の判断だったように思われる。
中華統一したにもかかわらず封禅を行わなかった司馬炎の存在は、李世民にとって大きな光明であったろう。李世民は晋書において、自ら筆を執って司馬炎の評を書いている(制曰、以下)。その治世の前半はベタ褒めであり、封禅辞退に対する肯定的評価も窺える。
唐で封禅が行われたのは、李世民の次代である李治(高宗)の666年、ちょうど白村江戦勝後で、高句麗に対しても唐の優勢が決定的になった頃である。
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